ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

有名人を批判してしまう心理

ロゴスの小径へようこそ。

先日タイで洞窟に閉じ込められた少年たちが救出されましたよね。

救出には様々なプランが想定されたとは思いますが
ともあれ全員無事なようで本当に良かったです。

救出作戦には、
その道のプロが集いベストな道を決断したというのは容易に想像つきますね。

ところで
それにも関わらず「ダイビングさせるべきではなかった」というような
批判をする人もいたりします。

もちろん専門家の間で意見が分かれたというのであれば当然ですが

遠い日本で現地の状況も知らない素人が
自分の狭い知識の中で「正しさ」を決めて無責任に発言するわけです。

私はそういうのに非常に不快感を覚えます。
まあ、私自身哲学を学んで世界を以前の自分よりは俯瞰して見るようになれるまでは
併記でそういうことをしていたのですが・・・。

多くの人が無責任に
自分の狭い知識の中で、しかも無自覚に他者を批判しています。


自分はそんな批判はしない、と思います?


スポーツや芸能人の批判などは最たるものですよね。

自分はサッカー経験は愚か、運動もしもしないのに、
サッカーが負けたら「もっと努力して足腰を鍛えるべき」とか。

芸能人の言動をみて「悪い」と批判したり。
しかも正確にはみたわけではなく、テレビやネットでそう言っているのをみての批判
という状況なのですが。

ニーチェはそういう人たちを弱者と呼びます。

弱者たちは匿名で自分を棚に上げて他者を批判します。

しかしいざ自分が批判される側になるととてもそれに耐えられないのです。

「あの選手が負けたのは基礎練習が足りないからだ」なんて友達や家族に話すだけならまだしも
SNSに書き込んだりしちゃって。

もしその選手に「あなたが私のように有名になれていないのは、
才能と努力が足りないからですね」と言われたら
その人は平然としていられるのでしょうか?

それどころか、一般人に仕事内容を批判されただけで落ち込むのではないでしょうか。

なぜ人が、有名人や成功した人が弱者に比べて「強者」かというと、
そういう批判に常にさらされることを覚悟して
それに耐えているからです。

人間ですから、誰かに批判されるのは嫌に決まっています。
しかも弁解の余地もなく、見もしない他人から。

それでもそれに耐えるわけです。

実は弱者の根底には強者への嫉妬があり、
それが批判にもつながっているそうです。ルサンチマン(恨み)といいます。

浮気をする芸能人を批判する人の心理の奥底に「嫉妬」が含まれているわけです。
別に直接被害を受けたわけでもないのに、自分が神様のように
ジャッジをしたりして。

有名税」だなんて言いますが、
それは子供がクラスで可愛い女の子に嫉妬するという構図にもみられますから、
人間の本性とも言えるのかもしれません。

この状況を進化的・脳科学的説明も付きそうですが(生存に有利かどうかなど)、
別の見方もできます。

それは倫理的な見方です。

つまり、そんな風に他人を批判することが「良い」かどうかという問題です。

倫理、というと「道徳的に」と言われるようでキレイゴトみたいな感じもしますが

要は「そういう生き方を自分が美しいと思うかどうか」

ということです。

またさらにここには二つの捉え方があって、
神様を信仰している人には、
「神様がどう思うか」という視点が入り込みますが、

日本人のように一神教を持たない場合は
「自分がどう思うか」に関わってくるそうです。

例えば「武士道」を例にとるとわかりやすいと思います。

理論的に考えれば名誉(しかも君主のためだったり)のための腹切、など「正しい」
とは言いきれないし

君主のために切腹は耳にしても、神様のために切腹なんて
ききませんね。

神様も喜ばないでしょうし。

ではなぜその道を貫くのか。

そしてその思想が、それを守る人はいなくなった今でも、
ある種「美しいもの」として映画や本で描かれ、
それに私たちは少なからずも同意するのか。

主君のために命を落とす姿を、愚かだ、とは思えず
涙して心に響いてしまうのか

それは「生き方」の問題です。

つまり、武士道の内容自体が美しいかどうかというより
(実際できていませんし)
その人にとっての美しい生き方を貫く姿を

美しいと感じてしまうのではないでしょうか。


何を美しいと思うかはもちろん人それぞれで、
哲学は「こうしなさい」というルールを提示してくれるものではありません。

けれど

ソクラテスが言うように

私たちは(時代によって内容は変わるでしょうけれど)
美しいと思うものを実は知っているのではないでしょうか。


例えば自分ができもしない仕事を同僚ができないからといって
自分を棚に上げて卑下しますか?

自分の子どもとママ友の子どものテストが全く同じく悪い点だったとして

自分の子どもを棚にあげて、
あのおうちの子は、テストの点が低かったのよね〜

なんて言ったりします?

それは美しいこととは到底言えないですよね。


けれど匿名になったとたんに人はそれをするわけです。


あの芸能人、太ったわねー、なんていって
自分が太ったのを棚に上げていたりw


ここで思い出したいのは、その言葉の裏側には
ルサンチマンが隠れているということです。

つまりそういう発言は自分のルサンチマンをまき散らす行為であり
美しくないわけです。

美しくない、というのは周りがみてすぐにわかりますから

結果その本人にもいいことはないと思うのですが。


自分もまさにそういう弱者であったことに
ここ数年でやっと気づいたこともあり

ことさら、そういう人を見ると残念な気持ちになります。


美しく生きたいなと思います。
繰り返しますが、あくまでも自分にとっての定義で。

私の友達はこの酷暑の中、エアコンの無い部屋の窓ふきをして
体調を崩したそうです。

私は、窓ふきなんかしなくても雨で綺麗になるから
暑さがおさまるまでは拭かなくてもいいじゃん、と言いましたがw

何を美しい生き方とするかは人それぞれ。

ピカピカの窓がその人の美しい生き方であるかもしれません。


有名人の批判をしそうになった時
それを言うことができる自分なのか?というのを
立ち止まって考えてみると

その奥底にある自分の嫉妬に気づいてゾッとするかもしれません。


いかがでしたでしょうか。

更新の励みにしております。良かったら応援クリック、よろしくお願いいたしますm(__)m
 ↓

セルフコントロールランキング