ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

終わりはある日突然やってくる

ロゴスの小径へようこそ。

 

突然ですがここ1年半くらい続けてきた仕事が

終わることになってしまいました。

 

詳細は契約上書けないのですが

 

私にとってその仕事は

お金を稼ぐこと以上に、とても大きな意味があったのです。

 

そろそろかな、という気配はあったものの

そのプロジェクト自体が終了となってしまい

メンバーも解散となります。

 

今だショックから抜けきれませんが

 

今回のことで

つくづく

 

全てのことに終わりはあるんだなあと思い知りました。

 

って、あたりまえですよね!w

 

あたりまえなんです。

そんなことは、わかっていることなんです。

 

しかし、それでも

そこに気づかないようにして人は生きてしまうような気がします。

 

病気でもないのに、毎日毎日

明日死ぬかもしれない、と思って暮らすことはないように。

 

しかし、本当は

誰しもが平等に明日死ぬ可能性を持っているわけで。

(まあ、確率は違いますけど・・・)

 

だとしたらできることは

 

本当に、今のこれが、大事なのだと

よく「あたりまえのことが幸せ」ということを自覚しろ、とか言いますが

それが

自分にとって特別で幸運なことであったら

なおのことなんですよねえ・・・

 

そう思うと

今の自分の特別で幸運とは、やはり大学で哲学を学べていることです。

 

今習っているのはドゥルーズ

しかしテーマがあまりにも難しい(講義にするには)ため

来年はもうテーマを変えるかもしれないとのことなので

 

この講義を受けることができたことを

本当に味わうようにしなくてはと思ったりしています。

 

愛犬が虹の橋に渡った時もそう思いました。

(動物は亡くなると「虹の橋」に渡るそうです)

 

あたりまえのようにそこにいた愛犬が

突然いなくなってしまうショック。

それは、年老いた犬を介護して亡くすのとは全く意味が違い

覚悟ができないないうちになくなってしまうというか

 

そして

そういった意味では

やはり自分もある日突然なくなってしまうんですよね。

 

他者の死は悲しいけど

自分の死は悲しむ間もありません。

パタッとなくなるんですから。

(苦しい、はあるのかもしれませんが)

 

やはり、生きていることを噛みしめる必要はありそうです。

 

久しぶりのブログなのにつらつらと書いてしまいましたがw

 

仕事を一つなくしたので

またなにか新しいことを始めるつもりです。

 

心の空洞を埋める最後のピースみたいなものは

探し続けるしかないものなのかもしれません。

(なんだか最終回みたいですが、続きます!w)

 

いかがでしたでしょうか。

久しぶり過ぎて誰か見てくださっているのは謎ですがw

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言葉の重さ

ロゴスの小径へようこそ。

 

政見放送をよく見ていたのですが、

どこの党も「老後2000万問題」にいろいろな方向から触れていますね。

 

そんなことを言って、国民に不安を煽るなんてケシカラン

 

というのがだいたいの主張ですが

 

個人的には、実はウソなわけではなく、

むしろ真実に近いのでは・・・?と思ったりしています。

 

年金の額が今より減っていくわけで

老後(定年退職後)30年生きるとしたら

 

2000万でも足りるかどうか謎だと思うのですが・・・

 

もちろん貯金はほぼ無い私ですのでw

先月から慌てて初の貯金と言うものを始めてみました。

 

どれくらいしたらいいのかわからず、とりあえず月2万。

貯まるまで1000か月ですねえ!!w

 

単純に2000万、と言っても

何歳から貯め始めるかによってもずいぶんと意味が違ってきますね。

 

そんなことを言うなんてケシカラン、で

2000万の件は無かったことに。

 

それは単なる問題先送りにしか思えないのですが。

とりあえずこの選挙を乗り切ればいい

自分が死んだ後のことは知らない

 

無責任ですねえーーー!!!

 

でもそれは自分にも言えることです。

 

年金どうすんだよーなんて言いながら

毎月お納めしているわけですからw

 

もしかしたら

まあ、なんとかなんじゃないかな?

今すぐ考えるのは面倒くさいし

 

といった考えがないとは言いきれませんね、というか

それが全てかもしれませんw

 

本当に、それが「問題である」と思っているなら

既に実行しているはずです。

 

年金制度に疑問を持つなら

抗議を

 

不公平を感じるなら寄付をしてもいい

 

貧困の子どものために食堂を開いたり

実際活動をされている方はとても多いし

 

私の個人的な関心は動物愛護なので

自分ができる範囲とはいえ

保護犬のためにできることをしてきました。

 

実際に動かないのであれば

 

「不公平だ」とか「かわいそうだ」とか「腹が立つ」とか言う言葉は

なんて軽いのでしょうね。

 

自分を棚にあげて芸能人などを批判する

「匿名の大衆」と同じですね。

 

罪を犯した女に石を投げつける民衆に

自分には罪が何もなく、その女に石を投げる資格があると思うものだけ石を投げろ

というようなことを言ったイエスのことを考えてしまいます。

 

もちろん、何もしなくても疑問を抱くだけでも

哲学的には意味がある、と言える側面もあります。

行動が必ずしも賛美されるわけではありませんから。

(というのも、もっと世界を俯瞰して見ると、

そういう行動の全てもまた意味が無いものとも言えてしまうからですが・・・

この話は置いておいてーw)

 

自分の発言にどこまで責任を持つかは

明確は基準はもちろんないので

自分の「美学」に寄るのだと思います。

 

「子どもの貧困、かわいそうねー」とだけ言えば

「意識高い人」になるのか

 

実際寄付なり活動なりをしているからこそ言えるのか。

 

少なくてもニーチェを学んでいる私としては

前者だけにはなりたくないし

 

そういう人を見ると、あーあ、と思ってしまいます。

まあ、私自身それを批判できるほどの人間ではないので

(つまり、同時に批判される側でもあることにすぐ気づく)

 

反面教師として参考にさせていただく感じでしょうか。(ヤナヤツーー!w)

 

さて話を戻して

先月から開始した貯金ですが、

毎月しようと決めたもののまだ今月はしていません。

面倒だなー。毎月毎月。

 

あ、そうだ

一年に一度24万を一気に貯金すればいいのでは?!

利息のことは考えなくてもいい程度な昨今、

それでも同じことなのですが

しかし・・・なんだかコツコツ貯めた感がないですねえ・・・w

 

しかし、こうして公言することで

「あーあ」な人にならないように、有言実行に自分を追い込んだりしている私ですw

 

政治家が「2000万の件は正式な報告とは認めません、あれは間違いでした」と

ひっこめればそれで問題は解決なのでしょうか?

 

「言葉」と「事実・行動」が

かけ離れるなら

 

自分の意見、っていったいなんなんでしょうね。

 

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大腸検査からの緊急手術・入院体験

ロゴスの小径へようこそ。

 

先日、

経験を楽しむ - ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

を書きましたが

行ってまいりました。大腸内視鏡検査へ。

 

そしてまさかの・・・そのまま緊急手術となり

一泊ではありますが入院までしてきました。

 

「検査して見たら実はなんでもなかった」なんてよく耳にしますし

周りにもそんな風に言われていましたが

 

反面、自覚症状があったので何もないわけはないな、と多少の覚悟はしていたものの。

 

まさか入院とまでなるとは・・・

 

結果から言いますとポリープを三つ切除しました。

日帰りではなく入院となったのは

そのうちの一つのサイズがそこそこ大きかったからだそうです。

 

これが悪性かどうかわかるのはやや先ですが

見た目からして「グレー」だそうです・・・。

とはいえ、腸のポリープの場合、取り切っていれば

悪性であっても問題はないそうですが

なんだかもやっと。

 

とはいえ、今回取らなければどんどん悪化するだけですから

 

もっと早く気づいていたら、とか

何がいけなかったのかな、とか(まあ、今後に生かせすためなら必要ですが)

 

後悔したところで意味はないですね。

 

「今が人生で一番若い時」

と言うようにw

 

過去には戻れない以上、ベストだった、と言えます。

 

その件はまた思考してみたいと思います。

宣告は思う以上にショックであり、同時に

思う以上に、まあしかたないか、とも思えていました。

ちなみに痛みが加われば話は別です。

今の時点では痛みがないのでそう思えているだけと言えるでしょう。

 

それはさておき

 

手術はなかなかドラマチックでした。

 

麻酔が効いていたとはいえ途中から意識はあり

手術されている自分も、

パチン、と聞こえるクリップの音(切った部分はクリップで留めるのです)も

ちゃんと聞こえてきますし

 

手術後ストレッチャー(タンカみたいなやつですね)に乗せられ

横になったままレントゲンや心電図の部屋など

あちこちまわり、エレベーターに乗せられ病室へ

ベッドには三人の看護士さんが、せーの、で持ち上げて

移してくださいました。

 

オモイノニゴメンナサイ・・・

 

腕には点滴を繋がれて

トイレに行くにも点滴をカラカラ連れて行くアレを

まるでドラマのようだな、なんて思いながら体験してきました。

 

一泊だから不要と言われつつも

パジャマレンタルしましたw

何事も体験だし。

 

夜はなかなか寝付けず、たまたま持っていた本を読んだのですが

その本が中島義道さんの

死の練習 - シニアのための哲学入門

シニア、というあたり何歳から適応なのかは謎ですがw

病院のベッドで「死の練習」ですから

 

看護士さんが立ち寄られるたびに、

 

 

というカンジで見られていましたw

 

死の練習

とは、つまり哲学のことなんですけどね。

 

ソクラテスの言葉です。

 

それをもじっているだけなのですが、

知らない人が、しかも病院でみたらぎょっとしますよね。

 

大げさな・・・とか思われたでしょうかw

 

病院のベッドは一晩で腰が痛くなりました。

オプションでいいからマットレスがあればいいのに・・・

もし入院となるときはマットが必要だと知りましたw

 

ネガティブな出来事もやはり経験の一つ。

繰り返しますが、痛みが伴うとそう前向きになれないかもしれませんが

今のところ痛くないし

 

今日は会社で、今回の冒険(?)について話したら

「元気そうね」と驚かれました。

グレー宣告があったにも関わらず

人に話すネタに転嫁していたようですw

 

実は記念撮影までして友人に送ったら絶句されてしまいましたが・・・汗

 

ちなみに

親族や愛犬の病気では

そんな風には到底考えられませんでした。

悲しくて苦しくて。

 

やはり「この自分」と「それ以外」では決定的な違いがあるようです。

 

病気になった人のほとんどが

「一番つらいのは家族を残していくこと」と答えるそうです。

小さなお子さんなどがいらしたらなおのことですよね・・・。

 

逆に考えれば、小さなお子さんのおられる世代が

一番辛い、と言えるのかもしれません。

 

なんだか文章があちこちに飛んだ気がしますが

まだ療養中ですのでご容赦を・・・(いつまでひっぱれるでしょうかw)

 

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経験を楽しむ

ロゴスの小径へようこそ。

何か辛かったり腹が立ったり
感情に揺さぶられるようなときは

客観視するとヨイ、なんて言われますよね。

よく、宇宙の大きさに比べたら、こんな小さな悩みなんて・・・

とか耳にしたものですが

 

その真意(つまり存在論と認識論の対立)が理解できない人(昔の私)に

そういわれても

なんの足しにもならなかったですねえ・・・
宇宙が広くてもムカつくものはムカつくしw

しかし
すべてのことは「経験なんだ」と思うと

私の場合はちょっとだけ気が楽になります。

 

まあそれも「痛くない」に限りますがw

明後日、ついに病院で検査となります。
そのために明日から食事制限をしたり薬を飲んだりいろいろ準備があります。


はじめは
嫌だーーーー!!!
私の人生にこんなことが起こるなんて!!
なんとか回避したい

 

なんてことが頭を駆け巡ったものです。

友達に愚痴ったとき、

「嫌だよね、やらなくて済めばよかったのにね」と

慰めてくれたのですが、そのとき

それはその通りなんだけど、もう回避はできない。

 

だったらできることは一つ・・・

 

楽しむ しかない!!

 

と気づいたわけです。

これって、ポジティブに考えようだとか

そういうんじゃないですよー??
私ポジティブ思考信仰者じゃないですしw

 

ただ、そう考える「しかない」だけです。


人生初の検査食キットを楽しむ。

人生初の検査を楽しむ。

麻酔を希望しているので、痛みがないからこそ

そう言えてしまうわけですが。


人によって何が辛いかは違うと思いますが、

私は自分自身の身に起こることでは、痛みが一番嫌なので・・・。

例えば

失恋とか、本当に辛いですよね。もう昔過ぎて忘れかけていますがw

人によっては身体的な痛みよりも、失恋が辛い人もいるでしょうけれど

失恋は一過性のものなんですよねえ・・・
そうでないなら、初恋が実らなかった全員が

一生辛さを引きずって、次の恋もせずに生きているはずです。

失恋して辛い私

友達に泣きつく私

貰ったものは案外捨てないで使える私
メアドは捨ててしまう私

捨てられない私

 

そんな風に一歩引いて観察するようにしてみると

 

ちょっとある意味、経験を楽しめるようになるんですよね。

 

失恋してもダメージの少ない人は

そんな感じで一歩引いて自分を見ているように思います。

 

もちろん失恋だけではないです。

 

就職も

なんらかの失敗も

何もかも

 

一歩引いてみることで、

 

楽しむ、まではいかなくても客観視できるわけです。

 

今回の検査で

最悪の状態も想定されるわけですが

 

そうなってしまったら、悲しいし辛いけどでも

 

楽しむ「しかない」ですから

 

経験として楽しむ道を模索するしかないなーと思います。

 

これが家族のことだったりしたら、楽しむ、なんて到底思えませんし

そもそも「経験」とは自分のこと以外は経験できないわけで

 

他者のことは「想像」もしくは

経験している本人を見ている私を経験する

 

しかできないんですよね。

 

「こんな辛いことがあったけれど、むしろそれは自分の人生にプラスになった」

というように、思考を変えられる人はそこまで考えなくてもいいかと思いますがw

 

そういう単純ポジティブには到底考えられない
(だって、嫌なことはない方がいいに決まっているとしか思えませんて!w)

私のような人間には

 

ちょっと捻った考え方が必要みたいです。

皆さんはどうでしょうか?

 

嫌なことがあっても、むしろそれは良かった、と

思えるような単純な出来事ではなく

 

到底、無い方がいいに決まっている、と思える出来事は

 

その経験をなんとか楽しむ、味わう

 

と捉えてみてはいかがでしょうか。

 

いや、いかがでしょうか、というか、それしかないように思えるのですがw

 

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着たい服を着てるだけ悪いことしてないよ

ロゴスの小径へようこそ。

突然ですが私はピンクが好きで、

服も帽子もバッグもスマホカバーもPSPもw

ピンクばかりです。

 

先日スマホを充電中、

ACアダプターと充電ケーブルとスマホがピンクなのを見たときは

さすがにどうなの?と思いましたがw

 

高校時代からずっとピンクが好きで

いまだにやめられません。

まあ、そういう芸人さんもいらっしゃることだしw

死ぬまできっと好きなんでしょうね。

 

ところで、

人は「年齢に合った服を着る必要」があるのでしょうか?

 

私はデザイナーという職業柄もあり、好きな服を着て生きて来ました。

 

けれど、たまに

「ピンクの帽子?!」なんて言われることもあるわけですw

 

「似合わないから」とか「見ていて不快だから」

 

だからやめてくれ、やめた方がいい、

 

と言われたならまだしも

 

「その年なのに」と言われることがほとんどですね。

 

それが不思議でたまりません。

 

しかも、TPOをわきまえるべき場所ではなく、

プライベートの場でです。

 

なぜいけないのか、

好きな服は着ないのか聞くと

 

「まわりに恥ずかしいから」着ないのだそうです。

 

まあ、そういう選択もアリかと思います。

自分の好きな服を着るということは

自分の意思を通すということでもあり

ある程度リスクがあるわけです。

 

周りの人がみんな黒を着ているなら

黒を着た方が無難ですし目立たないし。

 

目立ちたくない、リスクを負いたくない、考えたくないから

周りと同じ服を着る、という処世術は

大人な対応だし合理的だと言えると思います。

 

でも、例えばお葬式など、黒を着ないと失礼に当たらない限りで

 

リスクを負って自分の着たいものを着ている人を

批判する権利がその人にあるのでしょうか?

 

私に向けてではなくても、

「ママ友がこんな服を着ていた」なんて話も

耳にしたりもします。

 

そんな時はいつも

♪着たい服を着てるだけ悪いことしてないよ♪

 

と頭に浮かんでしまいます。

 

着たい服を着るというリスクを負って

 

他人に合わせるのではなく

自分に合わせる

 

それは思うより重要なことだと感じます。

 

流行だからという理由で服を選ぶ人を見ると、

服にとどまらず、いろんなことを

周りに合わせて生きていたりしてそうで怖いです。

 

まあでも、それも突き抜けて

流行をいち早く徹底的に取り入れてしまうような人は

やはりリスクを負っているわけで

 

流行を取り入れるのが悪いとは思いませんが。

 

悪いこともしていないのに人を批判するなら

 

羨ましい、の裏返しですね。

 

自分もしたい、でもできない、という。

 

羨ましくないなら、批判するほど気になりもしないわけです。

例えば私はスノボーに興味がありません。

スノボーだけではないですがw)

だから、スノボーをしている人を羨ましいと思わないのはもちろん、

あんなボード盛っちゃって、とかいう批判も当然ないわけです。

 

服で言えば

ジーンズなどにはあまり興味がないので、

ジーンズを履きこなしている人をみても

羨ましいとも思わないと同時に、あんなジーンズの履き方しちゃって、

なんかも思いもしないわけです。

 

反面、フリフリの服とは本当は大好きなんですよ、私w

でもさすがに着れません・・・理性が許さなくてw

 

だから、年とか見た目とか関係なく

フリッフリの服を着ている人をみると、

うわー、とか思ってしまうわけです。

 

その批判の裏には

自分は着ることができない、

羨ましい、が潜んでいるわけですね。

 

愛情の反対は無関心、とはよく言ったもので

 

批判するのは自分の中にその要素があればこそです。

 

という視点で

 

あなたの服を批判する人をみると、面白いですよ!

 

もちろん服に限らずですが。

 

年をとっても嫌われてもやめられない

自分を動かす楽しいこと。

それって本当に大事だし、

それをしないなら自分の人生ってなんでしょうね?

 

しかし良い歌詞ですね、改めて考えると

プリンセス・プリンセスのDIAMONDS。歌詞は中山加奈子さんだそうです)

 

いかがでしたでしょうか。

 

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死ぬまでにしたいこと

ロゴスの小径へようこそ。

 

やっと明日病院に行くことができます。

体調が悪いのは健康診断の結果が悪かったためだけではなく

明らかに良くない兆候が目視できているからです。

 

最悪の事態を考えるといろいろ怖いですね。

大嫌いなはずの病院なのに、早く行きたくて仕方ありません。

明日は検査までは恐らくできないと思われますが

友達のアドバイスに従い、念のため健康診断同様、

夕飯は9時までにして、以降絶食していくことにしました。

 

精神的にも弱っているので、そもそも食欲もなく

絶食もたいしたダメージではないのが不幸中の幸いでしょうか。

そもそもここのところ食欲があまりないんですよね・・・

といっても食べれるので食べてましたがw

 

こういう不安な時、どう乗り越えるかは人それぞれだと思いますが

 

どうやら私は人に聞いてもらうことで心が軽くなるようです。

 

聞かされる方にとっては迷惑千万ですがw

聞いてくれる相手がいるというのはありがたいことだなと

改めて思います。

 

ある程度の年齢になると

病院へ行く、と言っても

気軽に病名は聞けないものですが

 

若い人は気軽に聞いてきますね・・・自分もそうだったのかもしれませんが。

 

隠してあげる方が配慮なのかもしれませんが

面倒なのでw そのまま考えられる病名と症状を告げると

絶句していましたw

ウカツに人に病名を聞くとキケンですよねw

 

さてこういう時こそ

考えるべきなのは

やはり「死」についてですね。

 

本当は、少しでも安心する結果を聞いてから考えることにしたい。

今は考えたくない。けれど

 

不安要素満載のこの状態でこそ

本当に向き合えるというものです。

 

まず思い浮かんだのは

保険入ってないなあ

とか

部屋片づて不要なものの整理をしないと

とか

親よりは長生きしないと申し訳ないな

とか。

 

もう少し考えてみると

とにかく痛いのは嫌だ

ということ

 

延命よりも、痛みや苦痛がない方がいい。

 

何をしたいだろうか。

旅に出たいだろうか。

 

と考えたけれど

 

今、体調がイマイチなこともあり

家でぼーっとしていたいな、と思ったり。

ぼーっと、とは私の場合は読書(哲学メイン)とゲームのことですw

 

仕事もしたくない

制作もしなくない

自分の生きがいだとか、生きた証を残したいとか

誰かのために何かをするとかもう

本当に全くどうでもよくて

 

ただただ平穏にだらだら過ごしたいなあ

などと考えている自分に気づいたりして。

 

とすると、自分が「本当にしたいこと」とは、

読書とゲームだったんですねえ・・・なんというか・・・www

 

でも

無事によい結果を得られたら

 

少しだけ改心しようと思ったり今はしています。

 

なんだか日記状態ですがw

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「自分」とは他人ではない「何か」

ロゴスの小径へようこそ。

 

いよいよ明後日、病院へ行くことになりました。

恐らく初診では検査まではできないはずで、

次回、ということになると思いますが

 

ついいろいろと考えてしまいますね。

 

もし、病気になった部分を、機械で補えたらどんなにいいだろう。

 

もちろん部分的に実用化はされているわけですが

もっともっともっともっと楽に、

入れ替え可能ならいいのになあ・・・と思うのは私だけではないと思います。

 

ところで、心と体は一つ、なんてフレーズが流行っていますが

 

人間はどこまで臓器を保てば自分のままでいられるのでしょうか。

 

痛みもなにもない「機械のからだ」が欲しいなあ、というと

そんなの絶対にいや!!!あり得ない!!という知人もいますが

その人にしても、虫歯を削って銀歯にしてたり(セラミックでも金歯でもいいのですがw)

しているわけです。

 

それは自分のもともとの体ではなく、

他の人から移植したわけでもなく

「機械」とは言えませんが、「モノ」ですよね。

 

ということは

自分の一部が「モノ」にかわっても

どうやら自分は自分のようです。

 

もちろん、

義足などに入れ替えても、その人はその人で

人格が変わるわけではありませんよね。当たり前です。

 

どこまで人工臓器があるのか無知な私は知りませんが

人工心臓の人もその人としか思えないし

人工のどの臓器を使っていてもその人はその人以外にありえないですよね。

 

銀歯にした虫歯も認めない、という厳しさを持たない限り・・・。

 

では脳は?

 

そうですよね、やはり脳を臓器移植で取り換えてしまったら

自分は自分のままではいられないような気がします。

むしろ体は、移植した脳の持ち主のものになりそうに思えます。

 

では機械の脳だったら?

 

攻殻機動隊」の世界になりますがw

 

全てのものは、小さな粒子の集まりですよね。

脳も、つまりは粒子の集まりの物質です。

もし、その粒子をモノで作れたら

脳も作れてしまうことになりますよねえ・・・・

 

では「わたし」というこれは、いったいどこにあるんでしょうか????

 

考えてみたら、そんな「モノ」は最初からないとしか思えません。

「自分」とは何か、ということの答えとしては

「他人ではない何か」としか言えないそうです。

 

まあ、それに「魂」とか名付けてもいいのかもしれませんね。

もともとモノではなかった、と。

 

でも、もしそうだとしたら

「心と体は一つです」

というのは、どこか温かみのある、魂という思想を大事にしているように見えて

 

実は、体がなくなれば心もなくなる、という思想ということですよねえ。

 

ともあれ

 

もし、もともと「私」と思っているこれが、モノではなかったとしたら。

(もし、というのは、いつか発見されないとも言いきれませんから。

この臓器が「わたし」です、みたいな何かが)

 

心と体は一つです、と言いきれないとしたら。

 

それはむしろ、死んだからって無くなるものではない、とも言えますよね。

最初からモノとして「無い」のだから、無くなりようもないわけで。

 

この、全ての世界を私は、「私」を通してしか体験できません。

 

自分の死後もこの世界があるかどうかは、

当然のように「ある」と思い込まされていますが、

実はそれを科学的に証明することもできていません。

 

なんと「世界」とは、不安定な状態で存在しているものなんでしょう。

 

そして

そんなことも知らずに

 

今あるこの世界を

こうだ、と教えられてきたこの世界を

見たままの世界を

 

そのまま疑うこともなく受け入れてきた自分。

どうりで生きにくかったわけです。

 

教えられてきたこの世界の在り方に

 

どこか違和感があって

どこか生きにくさを感じる方は

疑ってみてください。

 

「正しい」とされているものが実は

皆で「正しい」としようね、と決めたルールでしかないということに。

まあ、それはそれで守ることも大事なことでもあるのですが

 

でも、疑うことをしない限り

女子供より男がエライ、女は一歩下がれ、というようなルールも

まかり通ってしまうことになるわけで。

 

いかがでしたでしょうか。

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哲学と科学と宗教の違い

ロゴスの小径へようこそ。

 

中島義道氏の、『明るく死ぬための哲学』を読了しました。 

エッセイのようですが

特に後半は、哲学に親しんだ人ですと読みやすいです。

哲学の根本的な問いを

(つまり、答えのない問い)問わずにいられない人にはおススメだと思います。

 

印象に残ったのは

哲学と宗教の違い。

 

私は、宗教に帰依するのかしないかの違いで

根底は同じ、と思ってきました。

 

哲学で問うのは

 

なぜこの世界が「ある」のか

存在しているのか

 

というような答えのない問い。

 

そこに「神が創造した」と信じきれれば宗教となり得ます。

そして、神が創造した、と決めればもう思考は終わりです。

神様が創ったとわかれば、もう人間の根源を問わなくてもいいわけですし。

 

神が創造したという根拠(論拠?)を探し続けているのが哲学、のように

捉えていました。

 

まあこれも、細かく突き詰めるとこんなに簡単にはもちろん言いきれないのですが。

 

中島氏の著書によると

 

宗教には、「他人(人類)を幸せにする」という目的があるそうです。

なるほど!

 

もし宗教をうさん臭い、とか思われている方でも

それはわかりますよね?

 

幸せにしたいから布教するわけですし。

 

しかし哲学は

誰も幸せにしようとしていない。

 

確かにそうです!

 

そして科学。

科学ももともとのベースは哲学です。

もっと細かく突き詰めると、宗教も絡んでくるのですが。

 

しかし、科学と哲学が分離した現代

 

科学もまた、宗教同様、他者を幸せにすることを目的としていますよね。

それが本当に「幸せ」がどうか、という問題もありますが

 

とにかくよりよい暮らし、よりよい医療、は

人間が幸せになるために進んできたものですし。

 

そうか!

哲学は誰のためにもならないわけです。

そもそも答えはない。

 

でもこの世でたった一人だけ役に立つ人がいます。

 

それが

「自分」

ですね。

 

誰かのためにならなくても

自分のためになる。

正確には、自分のために「なる人もいる」。

 

というか、自分のためになるから思考するわけではなく

それをしないと生きていかれない、というくらいの

強いどうしようもない衝動から、というのが正解かもしれません。

 

哲学しなくても人は生きて行けます。

 

人間が存在する意味など、考えても答えは無いし

考えてもお金にもならないし幸せにもなれないわけですw

 

つまり

そんな無駄なことを考えない人こそが「正常」と言えるそうです。

本当にそう思います。

 

でも、ごくごく一部の人間には

この思考だけが自分を救うというか

そういう手段だったりするんですよね・・・。

 

こうすれば幸せになれますとか

 

そういうことで満たされない人は

哲学を知ってほしいなと思います。

そういう人に、知ってもらうということは

哲学が人のためになる、という道のような気がします。

 

だから人に伝えたくなってしまい

怪しげな宗教の勧誘のようになってしまいますがw

 

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不安を乗り越えるには

ロゴスの小径へようこそ。

 

突然ですが健康診断の結果がきました。

生まれつきの持病以外、常にA診断だった私ですが
(まあ、持病はEだけど・・・w)

 

初めてD診断が!!!

 

ショック・・・しかも腸。

 

実はちょっと腸の調子がおかしいなーと感じ出したのが一年前くらい。
さらにここ一年で赤血球とかヘモグロビンの値が減ってる・・・
そういえばここのところ、たまにめまいがしてた。

こういうときは悪い方へ悪い方へ考えてしまいますね・・・

気のせいだ、と思い込んで再検査はスルーする、というのも一つの手ですが

今回はちゃんと病院へ行こうかな、と思ったりしています。

面倒くさいですねーー。病気って。
全面的に医療を信じられればいいんだろうけど
それにしても、腕の良い医師とそうでない医師もいるわけで
その見極めだとか

考えたらもう面倒で面倒でしかたがないです。

いっそ
機械の体がもらえればいいのに
(「機械の体」の意味がわかる人は昭和ですw)
といつも思いますw

不安なことを乗り越える唯一の方法は

問題を直視して立ち向かうことだそうです。

(病気に限らず)

 

今日は診断結果を綿密にチェックし
今回の結果でどんな病気の可能性があるのか調べ

それにはどこのどの先生に診てもらいたいかを調べ、決断しました。

まあ、それでも嫌だなーーと思う気持ちは同じですがw

どうせ飽きっぽい私のことなので

こういう不安さえも長続きしないんですよねえ・・・w

それにしてもここのところ、

懸案事項がやたら続きます。

そしてそれがなぜか
一件乗り越えるとまた一件、という感じなんですよねー。不思議。

同時に来なくてよかった、と思えてしまいます。

そもそも何も無いに越したことはないはずなのにw

人間がどう感じるか、は考え方によるな、とつくづく思います。


しかしそれにしても痛みについては

考え方もへったくれもなく嫌ですよね・・・

心と体は一つ、とかいうけど

気持ち次第でマインドは変えられても

 

気持ち次第で痛みは変えられないですもんね・・・
まあ多少は違うのかもしれませんが

 

私は酷い片頭痛持ちなのですが、
気持ち次第で痛みなんか変わらないですねw
本当に痛いのは変わるわけないですよ。

まあ、それ自体も脳の誤作動による痛みなので、

そもそも痛み、って何?ということにもつながりますが。

 

今週末、とりあえず病院へ行って

紹介状を書いてもらえるか聞いてみなくては。

 

戦いは始まったばかりだw

 

 

いかがでしたでしょうか。

昨日誰も読んでないだろうな、と思ったのに

クリックしてくださった方がおられたようで、ありがとうございましたm(__)m

 


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思考を再開します

はてなダイアリー」から「はてなブログ」への移行が終わったようで、

今日見たら投稿可能になっていましたw

はてなダイアリーは廃止になり、はてなブログへ移行になったのです)

やっとブログを、つまり思考を再開したいと思います。

・・・とはいえ、ブログが書けなかった期間も

思考の日々でしたがw

 

半年ぶりにアクセスを見ると、ご覧くださっている方が

思いのほかいらっしゃいます。

恐らく、いろんなキーワードでたどり着いてくれたのだと思われます。

ありがとうございます。

 

再開にあたり、

ブログの方向性を変えるつもりですが、

それでもどなたかのなんらかのヒントになれば嬉しいです。

 

方向性を変える、といっても

哲学者の思想や大学で学んだことをベースに

かみ砕いていくことに変わりはありません。

 

ただ、自分の思考をうねうねぐにゃぐにゃと考える場にしたいと思っています。


さすがに今日はクリックはないですよね~~w
一応貼っておこう・・・w
   ↓


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人はなぜ神を要請するのか

ロゴスの小径へようこそ。

4年ほど前に書いた、こちらの記事
についてコメントをいただきました。(ありがとうございます!思考のきっかけになります!)それについて考えてみたいと思います。


カントによると、(かいつまみますと)人になぜ神が必要かというと、
神がいないと誰も道徳や倫理を守らなくなるからだということですが

ちなみにカント自身はキリスト教信者だったそうですので、
ものすごく平たく言うと、
信仰は「理性的には」説明できるものではない、
もしするとすれば、道徳のためと言える、というような意味合いかなと思います。

なぜ人間は神を信じるのかについて
無宗教者の立場である私の考えでしかないのですが

この世界ができた理由も、
人間が生きているということの意味も、

よくよく考えてみると「神さまが創ったから」か「不明」かの二択しかないですよね。
このとき「神」を特定の神と考えると宗教によって定義は別々になりますが

そうではなく、とにかくどの宗教にとっての「神」を「X」と呼ぶとすると

「世界(この世)」は「X」が創ったか、不明か

の二択になりますよね。これはどんな宗教も無宗教でも同じ答えになるかと思います。
ここまでは全人類共通の「真理」です。

で、そこから先は・・・

答えは永遠にわかりません。としたら
どちらを信じるか

しかありませんよね。

なぜ信仰心を持つか と なぜ信仰心をもたないか は同じとも言えます。

どちらも信じるかどうか、だけに依存していますから。

では神を信じる人、信仰を持つ人とはなんなのか・・と考えると

一つは、生まれた環境がありますよね。
キリスト教圏に生まれれば私も間違いなくキリスト教徒だったと思います。

日本で神社に行けば信仰心はなくても
なんとなく神聖な気持ちに(もしくは怖いような)なったりしますが

外国の方からすれば単なる「観光地」でしかなく
だから食べ物を食べたり写真をとって大声で騒いだりして
ちょっと嫌だな、なんて思うときもあるのですが

逆に日本人も海外の寺院や教会に「観光」で行ったりしますよね。
祈りを捧げる神聖な場に
興味本位で立ち入り、インスタ映え!とか言って写真撮ってアップしたりしちゃうわけですw

つまり、
生まれ育った環境で神(X)を信じるということは
非常に多いといえますよね。

そのほかに
キリスト教は「教義を信じる」という信仰のあり方です。
だから聖書は非常に重要なんですよね。
その解釈のあり方の違いから戦争まで起してしまうほどに。

個人的には、信仰をされている方は
何かしらの神秘的な体験をされたのかなーーなんて勝手に
思っていました。

実際そういう方も多く、お話を聞くと
本当に羨ましいと感じます。
神様の愛に包まれているのが実感できるそうです。

私にはそれがないので、
「選ばれし者」ではなかったんだなあとつくづく思いますw

でもですよ!

そういう神秘体験を重視するのは邪道だ、
というキリスト教の宗派もあるそうです。
(聖書の読み方によって、キリスト教はものすごく多くの宗派に分かれています。
キリスト教だけでなく仏教も同様ですが。)

教義と神秘体験は別物で
神秘体験、といっても悪魔が体験させているかもしれないと考えるそうです。

とすると、神という体験をした人だけが宗教に帰依するわけではないようです。
その場合は教義に魅力を感じた、ということになりますよね。
それはある意味「倫理的」だと思うのですが。

ちなみに、
そもそも悪魔という存在がなぜいるかという解釈も面白いんですよ。
完璧である神がなぜ悪魔を創造したのか。

人間への意地悪のためか?

そんなわけないです。神さまは意地悪なんかしません。

だから悪魔はいつも「堕天使」という形をとるそうです。
神が悪魔なんか創るわけがない、もともとは天使だったんだ、と

・・・話が逸れましたが


なぜ人が神を信じるかは
信じるしかないからとしか言えないですよね。

信じるものはなにもなく
世界には生きる理由もない

そう思って生きるのも

信仰をもって生きるのも

生きて死ぬのは同じですから

より楽に生きられる道を選んだほうがいいに決まっています。

ただ、問題は
信仰をもとう!!!と決めても

持てるものではない、というものです・・・

もともと信仰のある環境に生まれ育ったとか
あとは神秘的な体験をするか
心の底から納得できる教義に出会うか

上記がないなら、無理矢理信じるなんてできそうもありません。


このことについては非常にたくさんの細かい思考がなされていて
私などには簡単には語りきれませんが

神を信仰できる人が本当に羨ましいです。
できない人はやはり選ばれなかったんだと感じてしまいますね・・・。

死に際し、神のもとにいけるのだと思えば
怖さも半減するのではないでしょうか。勝手な想像ですが。

信仰が無いのであれば仕方ない、
思考して生きる他ありません。それがある意味哲学とも言えると私は思っています。


コメントをいただいたきっかけで久しぶりに思考ができてうれしかったです。
ありがとうございました。

お別れについて考える

ロゴスの小径へようこそ。

最近、まるで日常から逃げるように旅ばかりしています。

日々、生活とか仕事とかしなくてはいけないタスクとか
そういうものに追われてしまって

無条件に「好きで楽しいこと」というのができていない気がして。

学問にしても制作にしても、好きで楽しい、ことは確かですが
もちろん苦しみも同じくらいありますので

私の場合、自分が「ゆるむ」のが旅です。

思えば学生時代から旅が好きでした。
初めて友達同士だけで旅行に行ったのは高校二年の夏の軽井沢。なつかしいな・・・


で、来週も旅行の予定があったのです。
裏磐梯紅葉狩りに行く予定でした。が

近親者が亡くなりました・・・
それで急遽キャンセルとなりました。

血のつながらない親戚ですので
正直慟哭するほどの辛さはいまのところピンときていません。

けれど

いただいた手作りのものを見たり
先月笑って話したことを思い出したりすると

心がすきんとします・・・

永遠の、お別れ

いつか、私も私と別れる。

死後の世界を信じない限り。

死語を都合よく解釈すると
死んだら愛犬たちに合えるな、とか思ったりしますが

一方私が、「この私」の意識を永遠にもっているなんて
苦痛で耐えきれません・・・。

まあ、これが辛いから「輪廻」の輪から外れることを
仏教では目指すわけです。それはとてもよく理解できます。

永遠の命を得て永遠に、だなんて
例え天国でも嫌だな・・・


さてお別れにあたり
香典はご仏前なのかご霊前なのかとか
お札はピン札はいけないとか
あて名書きは薄墨だとか

謎のルールがありすぎて
なんだか滑稽だな・・・

もちろんそれがその宗派のルールに則っていることであれば
重要なんだと思いますよ。

でもそもそもお札が無かった時代に遡れば
ピン札、なんてものもなかったわけで

とか考えるとそれは
神様とかが考えたルールだとは到底思えず

なんだかなあ・・・と思ってしまうのですが

こういうことを考えて
人間の考えた大事な(?)ルールに則れない人を

ニヒリストだとか
中二病とか
呼ぶそうですw

私は大人なので則りますよ、ある程度。

ネットで調べたりしてね。

でも、ご焼香には数珠が必要だとか言われて
仏教徒でもないしなあとか思って検索すると

仏教徒でないのなら不要とあったりして

とすると

必要だ、とか言ってるのは売りたい側の戦略なのでは?!
なんてあたりにも気づいたりして。

・・・お別れについて考えていたはずが
なんだか逸れましたが・・・汗

さよならだけが人生

といったのは瀬戸内寂聴さん。

自分とのお別れまでに
なすべきことは

謎の目的を設定してそこまでがんばることではなく
(いえ、それが楽しいのならもちろんいいのだと思います)

楽しむこと

単純だけどそれに尽きます。

そんなわけで
私の旅人生がほぼ10年ぶりに再開したわけです。

結局人間て
子供時代に楽しいと思ったことが素直に楽しいのかもしれません。
私は子供時代から親戚や親とよく旅に出ていました。
そういうことも影響しているのかな・・・

なんだか今日はつらつらと思うことを書いてみました。


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自分を知る楽な方法

ロゴスの小径へようこそ。

今日は心理学のお話です。

自分がどういう人間かは、わかっているようで案外わからないものです。

学生時代は
「私ってどんな性格かなあ」
なんて他愛なく友達同士で語りあったりしましたが

さすがに大人になるとその話題もビミョウです。
また、それに100%思ったことを答えてくれる人が
どれくらいいるでしょうか。

また自分ではこういう性格、と思っていても
自分を贔屓目にみたり卑下したり謙遜したり
どうしてもしてしまいますよね。

これは心理学の手法なのですが
根底は哲学です。

人は自分を他人の中に見ます。

つまり
厳密に言うと

自分は、自分の思考の範疇から外には絶対にでることはできませんよね。

私たちの見たもの感じたもの考えたものすべては
自分と言うフィルターを一度通したものです。

全く同じものを見ても感想が違ったりするのも
あたりまえです。

私が見ているこの月と
あなたが見ているその月が
全く同じものである保証はないというほどの厳密さを持たなくても

自分の中にない感情を私たちは感じることができません。

例えば
爬虫類はかわいい、という感情がない人には
爬虫類のかわいさはわかりませんよね。

自分が感じる感情は全て、自分のものなのです。
つまり自分が他人に感じる感情は全て
自分の中にあるものということになります。

ここまでは哲学。

それを実験したりエビデンスをとるのが心理学です。

そしてその結果

例えば
他人に親切にすべきだ!と言う人は
本当は自分もそうしたいのにできない、と思っている人、つまり
実は他人に優しくない人、というような傾向にあるそうです。

今の日本はダメだ!なんていう人に限って
本当は自分も活動しなくてはいけないと思いつつ
実は何も活動をしていなかったり。

あの人、上司におべっか使って!

なんていう人は、実は自分もおべっかを使いたい、贔屓されたい、
と思っているということです。


さて先週私は体調を崩し会社を数日休みました。

とても外出できるような状態ではなかったのですが
最後まで行くかどうか悩みました。

仕事を最優先はしない、と決めてはいるのですが

休んでいる間に
自分の仕事が奪われたらどうしよう、というような危機感が
全くないわけではありません。

そこでそのとき、ふと知人のことを思い出しました。

どんなに体調が悪くても出勤し
体調以外の、旅行などの理由で仕事を休むことはほとんどありません。
仕事が多すぎるわけでもないのに有給も消化しきれないそうです。
恐らくは
仕事が奪われる恐怖感もあるのでしょう。

・・・そこで気づきます。

そう感じているのは私自身。
つまりこれは自分の中の感情なので、
自分のことに他なりません。

他者は自分の鏡。

そこで私は
こんなに体調が悪くても休めない自分、というものに気づきました。

仕事を奪われてもいい
体調を優先しよう

そこで考え直します。

冷静に考えればその通りなのです。
最初に仕事を休めない、と考えていたのはある種直観的なもので

仕事が奪われる恐怖(実際奪われるかどうかは別として)からの思考です。

そこで自分を知ることで、理性的に考えることができれば
自分がどうすべきかもわかります。

しかし、人を批判するようなとき、
その批判内容を自分のものとして受け止めることは
非情に難しいもので、不快を伴いますよね。

あの人、上司におべっかつかって!

なんて思う人が実は、自分もそうしたい、と思っているなんて
自分では認めたくないですよね。

でも、ここを認めるかどうかが
バカの壁」だそうです。

豊かな人、とはその否定の部分も自分に取り込める人のことで

自分にない、いわばコンプレックスの部分を
自分に取り込むことができるそうです。

私は、あの人絶対に休まないよね、仕事の奴隷だね、なんて言ってw

自分が本当はそういうふうに会社に認められたい、と
思っていたことになります。

それを認めて初めて

いや、そんな自分は嫌だ!と

会社を休んで健康を優先したりできるわけです。

ぜひ次に他人に腹がたったときは
この方法を思い出してみてくださいね。

自分の中で思うだけです。恥ずかしいことはありません。
私は書いちゃいましたがw

何かが変わるかもしれません。
いえ、変わります。


いかがでしたでしょうか。
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銀河について

ロゴスの小径へようこそ。

宇宙と哲学、なんて無関係のように思えるでしょうか。
しかし哲学はもともと、自然科学とは密接な関係にあります。

そもそもこの世界って何?

という疑問(そして驚き)で始まっているのが哲学で

科学者とは哲学者のことでした。

人生のこと、人間のことをどうしても考えてしまう人は
宇宙のことも考えてしまうのではないでしょうか。

私も子供時代から宇宙のことをいろいろ想像する子供でした。
宇宙の果てのその果ての果ての果て・・・と想像すると
怖くなって泣いたりしてましたねw

それは今でも似たような思いです。

今空を見上げて、その先をずーーーっと辿っていっても
終わりがない、果てしないのだと考えただけで気持ちが悪くなりますね・・・

さて
昨日、銀河系についての放送大学の講義を見ました。

宇宙に対する知識は、子供時代に習った知識より
当たり前ですが(笑)ものすこく進んでいて驚きました。

高性能の観測(ハッブル宇宙望遠鏡他で)が可能になってから
宇宙は格段に調査が進んでいて
いま、宇宙の地図がどんどん更新されているそうです。
その範囲は何百億光年!

人間は到底辿り着けないその先を観察し地図を創ることの意味はあるのか?とも思いますが、
興味深いですし、そんなに広範囲な地図があったのかということに驚きました。

空にはどうやら神様は住んでいなくて
銀河がいくつも存在しています。
そんな宇宙の地図をみると、

例え行くことは出来なくても
なんだか宇宙は一気に狭く感じられます。
アメリカ大陸発見!というのと同じことなのかな、と。

当時は驚きの未知の世界でしたが
いまでは世界(地球のという意味での)はとても狭く

宇宙の地図なんてみてしまうと
世界中を旅しなくても地球儀を見れば地球が狭く、
手のひらに乗ったように把握できたように感じるのと似たような感覚です。

私たちは地球にへばりついて住んでいます。
宇宙は
音のない(正確には私たちの鼓膜には音が伝わらない)世界。
空気のない人間は生きられない空間が広がっている。
実はそんな中に自分たちは住んでいるという恐怖。

しかし興味深くはあっても
日々の生活でそれを知らなくても生きて行けますよね。
天に神様が住んでいると思って生きていても
何ら問題はないはずです。

けれどどうしても「本当の」ことが知りたい。
そんな思いで宇宙開発は始まっていますよね。
もちろん経済的な目論見もあるのでしょうけれど。

それは哲学と全く同じことです。
真実が知りたい、ただそれを希求してしまうというだけで

なくても生きて行けますね、この世界の、地球の中の「常識」の中で。

でもそれでは満足できない人がいるんですよね・・・


ところで
現代、宇宙と生物についてはいろんな概念があるそうですが、

こんな風にも考えられてもいるそうです。

生物が誕生したというこの奇跡はあまりにも有り得ないほどの奇跡であり
むしろ宇宙の方がチューンアップされているのではないか、と。

つまり私たち生物にとってこの宇宙はあまりにも環境がよく作られているそうです。
ですから、私たちがいることそれ自体が宇宙がこのようにあるという理由なんだと。

宇宙という「イレモノ」がまずあって、
そこに人間が入っているわけではないという思想ですね。
現代の量子力学の考えに通じますね。

そして私たちが生きているこの宇宙以外にも、
宇宙があるのではないか、とも考えられているそうです。

そういえば宇宙はビッグ・バンで始まってどんどん膨張している、と
子供時代に親に習ったのを覚えています。

そのビッグ・バンを「神の一撃」と呼んで、
つまりそれが神がこの世界、宇宙を創ったのだという「神話」に繋がっていますが

ホーキンズ博士が「神の一撃がなくても宇宙は今のようにできた」というように
数年前でしょうか、発表されて話題になっていましたね。

神が世界を創った科学的証拠が一つ減ったことになりますから。

宇宙は大爆発ではなく、「ゆらぎ」から発生したというのが今では定説だそうです。

これからどんどんもっともっと宇宙が何であり、
その発生はどうだったのかなどが解明されたとしても

それは次々に大陸を発見していったのと同様

物理的に世界を解明していくに留まります。
宇宙は全て「重力」ですから。

なぜ「存在」しているのか

なぜこの世界が「在る」のかという謎は永遠に解けません。

「神」が創ったとして、ではその神ってなぜ「在る」の?

という疑問に変わるだけです。

宇宙のことを知らなくても生きて行けるように
そんな疑問を持たなくても毎日生きて行けますから

人は存在を問う哲学をだんだんしなくなりました。それが現代です。

生きるのに役立つものの方が重要ですから。

哲学がなくても生きて行けますが
経済や、宗教がないと人間は生きていけないですから。

けれどどうしても哲学をしないと生きていけない人が
たまにいます。

答えのない、役に立たない「存在」を
つまりは「真実」を
それでも探究せずにいられない人たち。

子供時代から宇宙のこととか死後のことを
宗教上での説明では満足できずどうしても考えてしまうあなたはお仲間ですw


いかがでしたでしょうか。
どう考えても賛同者が少ないだろうこのブログw
それでもおかげさまで10位以内に帰って参りました!
少数派の皆さまw、ありがとうございますm(__)m

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