ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

お別れについて考える

ロゴスの小径へようこそ。

最近、まるで日常から逃げるように旅ばかりしています。

日々、生活とか仕事とかしなくてはいけないタスクとか
そういうものに追われてしまって

無条件に「好きで楽しいこと」というのができていない気がして。

学問にしても制作にしても、好きで楽しい、ことは確かですが
もちろん苦しみも同じくらいありますので

私の場合、自分が「ゆるむ」のが旅です。

思えば学生時代から旅が好きでした。
初めて友達同士だけで旅行に行ったのは高校二年の夏の軽井沢。なつかしいな・・・


で、来週も旅行の予定があったのです。
裏磐梯紅葉狩りに行く予定でした。が

近親者が亡くなりました・・・
それで急遽キャンセルとなりました。

血のつながらない親戚ですので
正直慟哭するほどの辛さはいまのところピンときていません。

けれど

いただいた手作りのものを見たり
先月笑って話したことを思い出したりすると

心がすきんとします・・・

永遠の、お別れ

いつか、私も私と別れる。

死後の世界を信じない限り。

死語を都合よく解釈すると
死んだら愛犬たちに合えるな、とか思ったりしますが

一方私が、「この私」の意識を永遠にもっているなんて
苦痛で耐えきれません・・・。

まあ、これが辛いから「輪廻」の輪から外れることを
仏教では目指すわけです。それはとてもよく理解できます。

永遠の命を得て永遠に、だなんて
例え天国でも嫌だな・・・


さてお別れにあたり
香典はご仏前なのかご霊前なのかとか
お札はピン札はいけないとか
あて名書きは薄墨だとか

謎のルールがありすぎて
なんだか滑稽だな・・・

もちろんそれがその宗派のルールに則っていることであれば
重要なんだと思いますよ。

でもそもそもお札が無かった時代に遡れば
ピン札、なんてものもなかったわけで

とか考えるとそれは
神様とかが考えたルールだとは到底思えず

なんだかなあ・・・と思ってしまうのですが

こういうことを考えて
人間の考えた大事な(?)ルールに則れない人を

ニヒリストだとか
中二病とか
呼ぶそうですw

私は大人なので則りますよ、ある程度。

ネットで調べたりしてね。

でも、ご焼香には数珠が必要だとか言われて
仏教徒でもないしなあとか思って検索すると

仏教徒でないのなら不要とあったりして

とすると

必要だ、とか言ってるのは売りたい側の戦略なのでは?!
なんてあたりにも気づいたりして。

・・・お別れについて考えていたはずが
なんだか逸れましたが・・・汗

さよならだけが人生

といったのは瀬戸内寂聴さん。

自分とのお別れまでに
なすべきことは

謎の目的を設定してそこまでがんばることではなく
(いえ、それが楽しいのならもちろんいいのだと思います)

楽しむこと

単純だけどそれに尽きます。

そんなわけで
私の旅人生がほぼ10年ぶりに再開したわけです。

結局人間て
子供時代に楽しいと思ったことが素直に楽しいのかもしれません。
私は子供時代から親戚や親とよく旅に出ていました。
そういうことも影響しているのかな・・・

なんだか今日はつらつらと思うことを書いてみました。


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