ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

「引き寄せ」をどう捉えるか

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あなたは「哲学体質」?


さて今日は
今までここで語ってきた事と違う観点の哲学の概念をご紹介してみたいと思います。

世界は自分ひとりの思いなし(思い込み)で出来ているので、
真実は捉えられない=「ない」という考え方に対して

世界は自分が感じたものが現れるのだから、それは自分が観たままに「ある」のだとするもの。


例えば遠くに見える円筒状の塔。
しかし近づいてよく見れば、それは四角柱であることもあり得ます。
曲がって見えていた棒が、実は水に半分刺さっていて、屈折して見えていただけということも。

だからこそ世界は
自分の思い込み、「思いなし」で出来ている。
自分の観たもののなんと不正確で信じられないことか。

というこれまで語ってきた思想に対して、

確かに四角柱かもしれない、棒はまっすぐなのかもしれない。
でも自分がそう見えたのだから、世界はその通りでしかあり得ない
…近づかなければ、塔が四角だったかどうかは確認できず、
あなたはその塔を円柱形だと思いなすわけです。
四角であることが一生知り得なかった場合、
その塔はあなたの人生にとっては円柱形ということになりますよね。

よって世界は自分が思ったものそのものの現れである。

えーーー!

理論は一つじゃないの?
これじゃ正反対なのに!!

しかしお気付きの方も多いと思いますが、
「世界は自分が感じたものの現れでしかない」という基本の部分は実は全く同じなんです。

あとはそれをどう捉えて自分の幸福に活かすかと言うのが違うだけなんです。

そんなのアリ…?

アリなんですよ!!!

だって哲学とは
自分が幸せになるための理論です。

教義ではなく
信じないと効果がない何かでもありません。
新月に、とか満月に、とか前以てあった条件に合わせなくてはいけないものでもありません。

私たちは子ども時代から、「こういう風に学びなさい」というような
いろんな定義を踏むように教育されてきて
それは例えば気軽に自分の生活に取り入れたスピリチュアル的なものでさえ
「こうしなくてはいけない」みたいな定義がありますよね。
宗教にしても、他宗教の思想は取り込めません。

でも哲学は
幸福を求める方法論。

だから自分が幸せになる理論だけ選んで採用して
自分なりの哲学を創っていいんです!
いえ、それこそが哲学なんです。
それをしないなら哲学ではありません。

だって世界は自分なりにしか理解できない。
偉人の本を読んで理解しても、彼の言いたいことを完璧に理解するのは無理です。
だから自然学説だって様々になるわけで。

ではなぜ「哲学史」を学ぶのか?
自分で生き方を決めればいい、と思われた方、その通りです。
ただ、たかだか100年しか生きられない私たちが一生をかけて考えてたどり着くより、
何千年も思想されてきた思想家たちの思想の積み重ねから
学んだ方が早いから、というだけのことです。

なので自分で納得いく説を採用していいんです!
これも私には驚きでした。

とはいえ根幹の部分は変わらないし、
そこが理解できないと全てのことが理解できないのですが。

だからこそ、以前から少しお伝えしているのですが、
哲学の思想の上にスピリチュアルは導入できる、と。
これはつまり自分が幸福になるためには
(自分と他人を不幸にしない限りは)なんでもアリ、なんですから。


例えば昨日の記事にコメントいただき私も思い出したのですが、
「引き寄せ」について。

ちなみに引き寄せはこれは哲学でも、近年の心理学でも理論が成り立つのはご存知ですよね。

例えば今周りをざっと見回してみてください。

そして次に、
「黄色いもの」を意識して見回してみてください。

一回目は特に意識していなかった「黄色いもの」が
パッと目に入ってきませんでしたか?

これが引き寄せの原理です。

つまり、意識していると人はそれに目がいくので、
普段は聞き逃してしまうような音楽を
「ちょうど今考えていた音楽だ!」とか
「ちょうど会いたいと思っていた人から連絡が!」となるわけです。
そのとき、ちょうど会いたいと思っていなくても
その人からはもちろん連絡があったはずですが
「引き寄せだ」と思い込んでしまうんですよね。

ちなみに厳密な成功哲学の「引き寄せの法則」では
もっと違うテーゼがあり、強い意志と目的意識のある人には
有効な手段だと考えています。
ただ、
一般的には思ったものを引き寄せる、というだけのことが
広がっているように思います。

スピリチュアル的な解釈では、
いいことも悪いことも、思ったことが現実になってしまうというようなもので、
でもこれで幸せになっている人もいるのでそれはそれでいいんです。

さて哲学体質の私たちは。

先に述べましたとおり、幸福になる方法はなんでも利用できます。

でも、その法則にとらわれる必要はありません。
なので、

●●を引き寄せていいことがあった!

ということだけ信じるようにするのも一案かと思います。

これがなぜ「哲学体質」の人にしかできないかというと

私たちは引き寄せそのものを信じているわけでは本当はないからです。
運命など操れないことを知っているからです。
運命を操る事が幸せに直結するわけでもないと知っているからです。

それを知った上で、
自分が気持ちよく過ごせるならそれを採用すればいいわけです。

確信犯のような感じでしょうか(笑)


例えば昨日は
このブログの一人目の読者になってくれた友人と、
たまたま増上寺に行く事になりました。
行く予定ではなかったのに、さまざまな偶然が重なってそこに行く事になったのです。

お堂の中は美しく、
私たちはしばし禅のように、ただただそこに座りました。

帰り道、以前の自分たちだったら
「あそこであんなふうに、あの場所に行く事になるなんてなんて偶然なの!
引き寄せだよね!」と大騒ぎし、
お寺では
「幸せになれますように」と祈ったことでしょう。

つまり
自分たちの幸福は、
「引き寄せの力で呼ばれるようにお寺にいけて、幸せを祈れてラッキー」

ということになったはずです。

でも今の私たちは、
「あの場所で、祈るとも考えるとも考えないとも言えないような
思考をする時間を得られた事、それ自体が幸せ」
でした。
これ以上更に幸せを祈る必要はなく、
偶然にそこに引き寄せられたこと自体は、おまけのようなものです。


こんな偶然に引き寄せられ、こんなすごいご縁をいただいてすごいすごい!
ということをよく耳にしますが、
なんだか幸せの核の部分を捉えていません。
だから空洞ができてしまうのですが

それにすら気づかないならそれも幸せ、ですよね。

私はいいことがあったときだけ「引き寄せた!」と
思うようにしていましたが、最近ではもうそれは
どうでもいいことになってしまいました。

ところで私は心の空虚を「空洞」と呼び、それが「埋まった」と表現していますが、
友人は「真っ白になった」と表現していました。むしろ空洞ができたように聞こえますが
言い方の違いで、自分が埋まった事は同じです。

自分の空洞も埋まったのかな?というのがわかりにくければ、
今まであったもやもやした「思いなし」が消えた、と定義して
自分を感じてみる方法もあるかもしれません。


いかがでしたでしょうか。

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