ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

先入観の恐ろしさ。

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こちらをまずご覧いただけると、このブログの内容が理解しやすいと思います。良かったらご一読くださいませ(^_^)
ロゴスの小径へようこそ
あなたは「哲学体質」?


さて今日は、昨日の続きになります。
自分の思わぬ先入観に気づくと世界観も変わり、
世界が変わると言うお話です。

さて
私たちのものの考え方や歴史観
ひいては人生観がなにをベースになされているかご存知ですか?

例えば時間は古いものから流れて現在に至る。
人々は知恵と理性で日々前進し、より良い社会を形成し、どんどん完成されていく。
科学だけでなく精神的にも。そしていろいろな解釈はありますが、
審判の日が来て人間は振り分けられるみたいです。
あるいは人類は滅亡するか。
どちらにしても歴史は、人類は、直線の年表に乗って進んでいるもの

というのは漠然と、わかりますよね?


しかしこの当然のような当たり前(と思っている)思想、誰が教えてくれた真理でしょう?

例えば古代では、歴史は循環するものと考えられており、
過去から未来へという時間の観念がなかったのはご存知ですか?

いま私たちが当たり前で疑うことすらないこの直線的な時間の観念。

これはキリスト教の教義によるものです。
聖書の、最後の審判に至るまでの歴史観
その歴史観だけが広がったものが私たちが観念的にもっている時間の観念です。

驚きませんか??
当然あるもの、科学で証明されたもの、と思いきや
教義が広がっただけのものだなんて!!!

時間の観念の話は多岐に亘りますし、私の知識も不十分なので今は語りませんが
私たちが当然と思って来たことのなんとあやふやなことか!
これは何度もお話している通りですが

こんな基本的なことでさえ、私たちは知らずに当然のこと、と思って生きているのです。

その他の小さなことであればなおさら、というのは想像に難くありません。

私たちは周りに影響されて生きています。
それは教育において顕著に現れます。
これを現代の子供にあてはめて考えるとわかりやすいですが、
先の時間の観念のように、私たち自身も教育がなされているわけです。

教育は時代によっても変化しますよね。戦時中は戦時中の教育がなされたように。

例えば私は、古事記から始まり天皇へと続く日本の神話、歴史観
疑問を持っていました。
少し調べると、古事記の国譲りの神話は、ネイティブ日本人を追い出した
歴史の記憶であると気づきます。
出雲大社に封じ込められた神の話など、本を漁れば本当に興味深く、
各地の神社に参ると、古事記の神々の豪華な社の裏手に
そこに本来祀られていた神の祠があったりして、なんだか憤りを感じていました。
それを少しでも世間にお伝えしたい、と本気で考えていたのです。

しかしこの、現在の天皇制への批判ともとれる思考は、
遡れば学校の日本史の先生から授かった思想でした。

その先生と、そのまた先生くらいの世代では、敗戦時のアメリカの指示による教育が
なされており、天皇制への批判が含まれています。

また明治時代に導入された時代遅れのマルクス主義他の思想の影響で
ものの考え方がシニカルになったりするのが特徴です。

これを私は大学で学んで今更気づきました。
自分の意見だと思っていたものは、刷りこまれた知識だったのです。

これがわかっても先入観はそうそう拭えません。
時間はまっすぐに流れているとしか私には思えません。

では、知る意味はなかったのか・・・?
先入観は、自分でそれと気づいていればそう怖いものではありません。
気付かないで抱えているのが怖いのです。

こういう難しそうな話だけではなく(笑)
例えば「火星人」と聞いたら、ついタコみたいなアレを想像しませんか?(笑)

これだってそうです。誰があんなものを見たというのでしょう?
テレビ番組か漫画か映画が始めだったのかもしれません。
しかし私たちはそれと知らずに、先入観を植え付けられています。

自分の思想だと思い込んでいたものは、もしかして
誰かの思想、テレビでみた、本で読んだ、
もっとも大きいのは学校の先生、親だと思いますが・・・
彼らの思想なのかもしれません。
(その彼らもまた、誰かの影響かもしれませんが)

そう考えてみると、
自分がなぜかこだわってしまい、
それが腹を立てたり意味もなく主張したくなることは
本当に無駄なドグマです。

私であれば神社の件。主張しても自分に利があるわけではなく、意味はない、
どころかそれに少しでも怒りを感じたりして。
(私の日本画サイトにはそんな記事がまだ残っています・・・訂正しなくては!!(涙))

だって歴史の真実は誰にもわかり得ないのですから、
私がそれに腹を立てて時間を割いて訴えても意味がないのです。
もちろんそれで本を出して生業にする、などでしたら意味が出てきますが
そこまでの専門的知識もないのにも関わらずの主張に、
本人が楽しいと思えないのであれば何の意味があるのでしょう?

神社好きな私には、そこが悩みの一つにさえなっていたのです。
今こうして書くと、なんでそんなことを主張してたんだ?という感じですが(^_^;)
人生には考えなくてはいけない重要なことがたくさんあるというのに。

ここに気づくと世界は変わります。
先入観だったんだ!!と。
不要な悩みはわざわざ抱えず
シンプルに生きる様に心掛けると楽なのでは、と言い換えてもいいかもしれません。
主張したくて、すべきことはたくさんあるのに!
私がこうしてブログを時間を割いて書いている様に。(という例ですね(笑))

しかし、先入観の存在に気づいてもまだ主張したいときは
もちろんすればいいのです。

少しだけ、自分が何かの先入観を抱えていないか、考えてみてください。
もしかしたら私の神社の様に、しなくてもいいものだった、
と思えることがあるかもしれません。


さてここでKeiさんへの私なりの思考のご回答です。
これはKeiさんにこうしなさい、というものではなく、私の視点で
考えてみるとこんな感じです、というものですので
もしご自分のご意見と合わない様でしたら捨て置いてください。

ご質問は以下ですが、
先のコメントからKeiさんのご主張が理解できましたので、
それも加味します。
=========================
私は…何か世の中にかなり嫌気がさしています。
こういう時、この世は人間界は地獄の一つで醜い世界だという話を思い出してしまいます。恐らく私はこの先敵を作ることも多いと思うのです。それは、己のルールで判断してしまうからなのですが、これが信念というやつであって、これを捨てると…生きながらにして、死んでいるような感覚になります。自分一人なら良いんですが、大切な方々にまで影響を与えるのが何とも…どちらも手放さない…困ったさんですね。パートナーは驚くほど理解し、応援してくれています。あなたの人生だから…好きなようにやれば良い!周りは関係ない!!といつも言ってくれますが、その強さに甘えていて良いのか…本当は辛いのでは…と思ってしまいます。
=========================

じっくり拝読しましたが、
世の中は嫌気がさすものであるということも、
敵を作ってしまう、ということも
ご自分が決められたことであるから覚悟はされている、
主張することは続ける(ここはコメントにて)という前提で、
ただパートナーの方に迷惑にならないかということをご心配されているということですね。

パートナーさんは本当に素敵な方ですね。羨しいです本当に!
パートナーさんがそう言ってくださるのであれば、おっしゃる通り
好きな様にされるのがいいと思います。
つまり、パートナーさんの「中にある」Keiさんは、
好きな様に活動されるKeiさんなのです。
そんなKeiさんを応援してくれているわけです。
穿った言い方をすれば、本当は辛い、でも応援する、を欲している場合もあり得ます。
(極論すればという意味で、パートナーさんがそうだという意味ではありません)
相手の心は知り得ません。おっしゃる通り、言葉ではなんと言えても
心でどう思っているかは永遠に知り得ません。

ちなみに止めるかどうか、で迷われていると読みとり回答を用意しておりましたが、
今朝、続けられるのが前提と知りましたので、話はもっと単純になります。

Keiさんはどちらにしても主張をこれからもされていく、と
それが決まっているのが前提であるのですから、楽しいマインドでいた方がいいです。
具体的にはパートナーさんに感謝しつつ、したい様にする、です。
どうせ行動は同じなわけですから、思考の方を変えてしまった方がいいです。
悪いと思う気持ちの分だけ、自分が納得するまで
パートナーさんに別の形で感謝を還元すればいいと考えます。

単純な様ですが、私からはそれが一番に思えます。

私からは以上になります。
少しでも何かヒントがあれば幸いです。

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なお、これはオマケの一般論ですが、
自分の主張が今日のテーマの様な先入観に支配されたものではないかどうかの
確認として以下があげられます。これも大学で習いたてです。

真、正しさを主張するのであれば、
●正しいと自分が思ったことが、
●常識的に皆も正しいと思っており、
●それがさらに経験的に立証されている必要があります。

これでも不足していることは間違いないそうですが、
その不足がなにかも現代ではまだ解明されていないそうです。
ここをクリアしないのであれば、「正しい」主張とは言えません。
なぜならそれを正しい、とする判断が人によって変わってしまうからです。

例えば
誰がどうみても殺人はいけないこと、と思われますが、
死刑の問題の是非がずっと問われたままなのを見てもわかります。
そこまで、真偽というのは難しい問題なのです。

では少数派なら?上記の項目には当てはまらない、
自分だけが知り得た真実だと自信がある場合は?
キリストの思想はそれまでの思想になく、しかし彼は確信をもって主張し、迫害されました。
しかし死刑にされるほどに危険な思想だとされたのは、それが支持され得るものだったからです。

でも、あまり複雑に考えなくても、正しいと多くの人が思うものであれば
応援してくれる人は必ずついてきます。
なので、結果が答えとなります。

私の場合で言えば
●正しいと自分が思ったことが、 ・・・古代哲学を学び、この思想は現代に活かせると思った
●常識的に皆も正しいと思っており、・・・現代の哲学者の思想にも反映されていおり、実際に現代に活きている方法のひとつ。
●それがさらに経験的に立証されている必要があります。・・・人に話したら、共鳴してくださる人が
多かった。ブログを読んでくださっている方も私にとってはたくさんいてくださり、日々自分の中の経験的立証も確固なものとなっている。

という感じでしょうか。

いかがでしたでしょうか。

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