ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

見方が変われば世界が変わる

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なぜか心に空洞があるような感覚。幸せなはずなのに。それはなぜでしょうね?一緒に探してみませんか。ロゴスの小径ではやさしい哲学の考えであなたの世界観を変える可能性をお伝えしています。

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あなたは「哲学体質」?

皆様ランキングにクリック、いつもありがとうございます。
昨日は大学で宗教学。風邪を引いていることもあり疲れ気味、
あわせてヘーゲル(哲学者)を読んでいたりしてなんだか生きる事が
虚しくなってきてしまった夜だったのですが
ふと帰りの電車でランキングチェックしてみるとクリックがたくさん!
うれしかったーーー!ホントに元気でました。(単純)

わかる、と思ってくださる方のクリック。
がんばれ、とクリックしてくださる方。
自分の思いなしでもかまわないから幸せ!(笑)
それはランキングがどう、という以上にこの感覚を共有してくれる人がいる、という幸せ。

皆様に支えられて学問しております!^^


ところで皆さん、NHKの朝の連ドラご覧になっていますか?
私テレビはほぼ観ないのですが、朝のニュースを観ているとそのまま始まってしまって
たまに観たりするのですが。

あれ、すごい哲学的思考がテーマになってます。

主人公は、「本音」で生きずに「大人の事情」で生きている周りが我慢できず、
自分が正しいと思うことを思ったままに発言・行動していまう女の子。

表面をとりつくろってうまく生きている大人の社会にとって
それは迷惑なことでもありえます。
規律を破る事になったり、言ってはいけないことを言ってしまったり・・・。

ドラマをみる視点では、主人公に感情移入しますから
主人公を応援したくなります。彼女は正しい事を言っているのに
なぜわかってあげないの!と。

けれど、社会がうまく成り立つには、それぞれの事情をうまく刷り合わせる必要があるので
それだけではうまくいかない。

主人公は、自分が正しいというドグマを人に押し付けるだけの人とも言えます。
その「正しい事」は確かに一見正しい事に見えます。けれど
それは彼女にとっての、でしかありえません。

だからこそストーリーは、普通のお手軽なドラマや漫画のように、
主人公の思い通りにはなりません。
思い通りにならない、でも自分が正しいのに、という葛藤の中で彼女は生きています。

人にはそれぞれの事情があり、それ以前に
他の人の世界は見ることはできない。
なにが正しいかなんて一概には言えない。

ドラマはそこを言っているのですが、さらに仕掛けがあります。


そんな彼女を唯一理解するのが、人の本性が見えてしまうという青年。
本性そのものだけで生きている彼女だけと、唯一安心してつきあえるわけで
ラブストーリーが展開されるわけですが


人の本性が見えてしまう青年。
彼であれば世界は自分の見たものだけが全て、ではなく人の世界も認識しえるのでは?という
アンチテーゼ。

しかしそこで彼の母親の発案で病院へ。
統合失調症と診断されます。

人の本性が見えるかどうか、も実は病気なだけかもしれないわけです。

見える、としているのは彼本人だけで
それは他の人は知りえないからです。

彼が見ている他人の本性も彼の妄想ではない、と100%言い切ることは
彼自身にもできません。なぜなら彼は自ら病院へ行ったこともあるからです。


深くないですかこれ!

自分自身さえ、自分が見ているこれが本当なのかわからない。

と、疑えている彼は、以前お話したデカルトの言うコギト、つまり
「この世界は本当は無いかもしれないと疑っている自分」の存在に気づいているわけです。

そんな彼と
自分が見たままの世界、自分の倫理、自分の正義をふりかざす彼女。


二人がつきあうわけですから、(そしてどうせハッピーエンドでしょうし(笑))
どうなるかが楽しみでもあります。

脚本家の哲学観がそこでわかりますね。
あまりによく出来ているので、偶然ではないと思います。
映画やテレビの脚本のベースにはたいてい哲学が流れています。
まあ、作家さんはたいていは文学部でしょうし
そこを知っているからこそ世に出る作品となりえていると思うのですが。


それにしてもこんなふうに
前なら単なるSFっぽいラブストーリー、と思っていただろうものも
哲学のベースの思想があったんだと思うと

それがわかる人と
わからない人に

世の中は分かれていて、
でもまあどちらもこれをそれぞれに楽しんで観ているんだろうなと思えておもしろいです。


ちなみに終わりの予想としてはハッピーエンドは朝連ドラなので当然としても
このどうにも自分の思い通りにならない世界、
この自分が見ているものが本当かどうかもわからない世界

それらを包括して世界は成り立つ、という落ち着き方だと私は考えます。

それは今学んでいるヘーゲル弁証法という方法。
まず、テーゼと言われる正しいものを定義します。

テレビでいえば女の子。
「好きな人と結婚するのは当たり前、政略結婚はよくない」とするような
(ちなみにドラマでは、政略結婚で幸せになったという人も登場します。
正しい答えは実は無いんだということを描いていますね。本当にすごい!)
自分の思ったこと、正しいと思ったことが正しい、とするという理論。
これをテーゼといいます。

次にこれへの批判、アンチテーゼです。
これが青年。
自分が見ている本当だと思っている世界は、実は自分がみているだけの
もので、真実ではないかもしれない。
(そう思いつつも観たままを真実と思いなして生きていますが)


以前お話しました、キリスト教的思考ですと、
歴史は常にまっすぐに直線的に進んでいますのでここで終わりです。

けれどヘーゲルの考える観念はうずまき状なので
ここに
ジンテーゼというものを立てます。
テーゼ、アンチテーゼをどちらが正しいとするのではなく
両方を包括して、今が成り立つという考え方です。

と考えると、そんなエンディングなのかな、と思えたりもして。

(余談ですがヘーゲル自身はテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼという言い方を
一度もしていないそうです)

セッションのあと多く言っていただけるのが、
こんなふうに、「ものの見方が変わった!」ということです。

同じ本を読んでも、以前は理解できなかった部分が理解できたり
映画にしてもそうです。
多分絵画も。

それだけでも毎日が発見の日々になってくれます。


いかがでしたでしょうか。
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