ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

魂の痛み スピリチュアル・ペイン 

ロゴスの小径へようこそ
なぜか心に空洞があるような感覚。幸せなはずなのに。それはなぜでしょうね?一緒に探してみませんか。ロゴスの小径ではやさしい哲学の考えであなたの世界観を変える可能性をお伝えしています。

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ロゴスの小径へようこそ
あなたは「哲学体質」?

心と体は一つです、とか最近よく聞きますよね。

科学が高度に発達し脳が全てを司り、
生命を維持できて脳さえあればあるいは容れ物はなんでもいいのでは?と思えたりしますが
最新の医療の現場に携わる脳神経の教授も
心と体は分かち難く一つであるとおっしゃっていました。

体が痛む時は医療が手当を。
心の痛みは友人や家族、心理学が救いに。

心と体はそうしてケアされています。

でも。

もう一つあるんだそうです。
なんだと思いますか?

それは魂の痛み。
スピリチュアル・ペインと呼ばれます。

医療の現場や教育の現場で数年前からそのケアがなされています。それは
自分が生まれた意味
病にかかった意味
死にゆく意味

人はそれを問わずにはいられない生き物であり

その問いには答えがありません。

いくら友人や家族に暖かい愛をもらっても
心理学的にあなたは病からこういう理由でそんなことを考えていますと言われても

癒されない
人間の根底の部分。

なぜ生まれて
なぜ死ぬのか。

この痛みを解消するには
哲学的思想と
宗教(特定の宗教団体という意味だけではなく神の概念)しかないそうです。

はじめは終末期医療の現場で行われていたスピリチュアル・ケア。
近年、一般の人の悩みにも応える形で発達しているそうです。

その思想の根底は

同行二人。

お遍路さんが霊場巡りをするときに、一人ではなく弘法大師と一緒に歩いているという考え方です。

実際そこに弘法大師がいるわけもなく(笑)
だから弘法大師は説教をしたり教義を説いたり気の利いた言葉を話したりはしません。

でも私たちはたった一人でこの世に生まれ悩み苦しみ死んで行く
その心にただただ寄り添う存在が
あるのとないのとではいかに人生が違うことか。
これ、私のMy神様思想の根底です。

スピリチュアルな心の痛みに
私たちがどう寄り添うか。
それは心を寄り添わせる以外には何もありません。

自分はこう思うと意見されても
当事者には見えない神様を持ち出されて
こう言っていますよと言われても
人という字は人と人が支え合っているのを表した字だと言われても

本人の魂の痛みは
本人が向き合い解決するしかないのです。

ちなみに、
人という字は人と人が支え合って・・・っていいな!と
思われた方。

この由来は、テレビドラマの金八先生でのセリフです。
人という字の本当の成り立ちは、人が一人で立っている姿です。

テレビで洗脳された先入観。
いい話だ、と思ってしまうお手軽さは表面的スピリチュアル的ですね〜〜!!(笑)


話を戻し
本人が一人で立ち解決するしかない事実。
しかしそれはあまりに孤独であり
理解しているようでも苦しみに直面したときは心も乱れます。そんなときに
心に寄り添うものが人間には必要だそうです。

本来哲学と宗教がその役割をなしてきたのに
私たち日本人のほとんどが
哲学も宗教も深く取り込んではいません。

その魂の痛みは
現代人の多くが抱える問題に反映されているそうです。

豊かな世の中になり
医療が発達し
心のケアが発達しても

人間の根底の悩み(しかも答えは自分で出すしかない)
の部分を考える事をモダニズム(近代化)は

非科学的である宗教。
霞を食べる哲学。
不要のもの、なくても生きていけるもの。

として、
科学の発達や豊かさだけが幸せであるという概念を
私たちに植え付けてきました。


確かに人間は
哲学や宗教(的思想)がなくても確かに生きていけます。
心の真ん中に空洞を抱えたままであれば。

しかしそのひずみは自殺者の増加や心を病む人の増加で
現代にストレスとして反映されているそうです。

そこにやっと気づいた近年、
例えば終末期医療の現場のような場では
スピリチュアルケアを学んだワーカーが接しています。
宗教のある人はその宗教が救いになります。

では一般人の悩みとは?

例えば
同じ境遇の被害者の会や
子育てに悩む女性が集う会
アルコール依存症の人たちの会などなど

本来個々の問題は別々でも、同じ痛みを分かち合い
相手をみることでまた自分をも見つめる事となり
癒されていく
これをセルフ・ケアと呼びます。

そんなに大きな悩みはないし、
それに比べたら自分は悩んでいる、なんて言ってはいけない
思っていますか?

いえ、
救いようの無いようなこの
理由さえ漠然としているような魂の痛みは

しかし私はそれを抱える者同士でまた
癒される可能性を持つと考えています。
それが私の哲学カフェの根幹の思想です。

はっきりいえない。
周りから見れば幸せだろうし自分も幸せだと思っている。
でも生きる事は苦しい。

このペインを抱えるのは
哲学体質である人には当然の痛みであり

答えは自分で出す以外ないとしても
その痛みは
同行二人。

寄り添えることはできるのです。
あなたも。私も。

昨日はセッションでした。

(セッション、と呼びたくない・・・なにかいいネーミングないでしょうか。
だって私が自分の考えを偉そうに話したり、気の利いた言葉遊びの話をしたり
するわけではなく、私は単に
人類が何千年も累々とつむいできた哲学の思想と
そしてただ心に寄り添う、寄り添いたいという私のドグマを
お伝えする以外にないので・・・)

とても辛い現実と対峙されている方で
突然のお申込でした。二回目のセッションで、その方は既に哲学の思想を
ご理解されていたのですぐにその痛みに寄り添うことができたのですが

現実は何も変わらない。
私の出来る事は本当に少しのこと。
(ただ、哲学の思想は少しの事、とは思っていません)

けれどご本人も気づかれてはいないかもしれない

お会いしたときまるで雨に打たれしおれた花のようだったその方が
お話しするうちに
「ああ!そうだった!わかった!」とどんどんご自分で思考され

そして私は見てしまう。

花が咲くように頬に桃色をさし
目に光をたたえた彼女の美しい瞬間を。

この美しさ、自分では見れないんですよね・・・鏡見ながら話しませんし(笑)

人はなんて強いんだろうと思います。

それでも自分で起きあがり
自分で考え
そしてまた自分で歩き出す。

これが魂の輝きと呼べるものなんじゃないだろうか、と思えたりしています。


たった一人でこの世に生まれ
肉親でさえ自分ではありえません。

でも私たちは
寄り添える。
寄り添ったその人の中に自分を見つけることもできる。

私たちはバラバラで一人。
でもその根幹はたったひとつの場所からこの世に生まれ
たったひとつの場所に還る
同じものなんです。

これ、スピリチュアルブームのお手軽本にも書いてあるような内容ですが
本来の思想は哲学であり宗教であり、とても深い
そして真実です。


いかがでしたでしょうか。
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