ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

「幸せ」は多数決?

人の幸せはそれぞれです。だから自分だけの幸せをそれぞれが追求していけば、皆が幸せになるのでしょうか。

そんなようなことを書いてある本が最近多いですが
その節は全くの矛盾をはらんでいます。

個人個人の幸せは、それぞれまったく
他の物である・・・ということはつまり

自分が好きになったあの人と絶対に結ばれたい、
それが自分の幸せ、と思っても

その相手は、他の人と一緒にいる方が幸せだと
思っているかもしれない。
としたら
この二人の幸せは同時には満たされないことになりますね。

誰かの幸せが誰かの不幸であることは
たくさんあります。

人はそれぞれが自分の幸せを追求すれば
皆が幸せになる、というわけではないようです。

この、自分だけの幸せを追求する快楽主義に対して
しかし利巧主義はこう言います。

「大多数の人の『幸せ』が、幸せなんだ」と。

個人個人の幸せが
全ての人を幸せにするわけではないのであれば
なるべく多くの人の幸せを実現できる道が
正しい道なのだと。

それは一見正しいように思えますが
果たしてそうでしょうか?

90%の人を幸せにできるなら
残りの10%は不幸でもいいのでしょうか?

90人を救うためなら10人を殺してもいいのでしょうか?
命の重さは数で決まるのでしょうか?
もしくは強さや能力で?

有名なたとえ話ですが、
美しい未開発の国の自然破壊を
学者が科学的・社会問題的に発言するのではなく
単に自分の気分だけ、旅行した時だけのことを
考えて批判する人は、
その土地の住民は開発せずに
ずっと未開のままでいろと言っているということに
なるのだと気付いているのでしょうか?

どうですか?
無責任に、そのままでいる「べき」と
言うのは
当事者の幸せと「=」になっていると
言えますか?

しかし今の世の中のベースは
大多数の幸せ=幸せ、としています。
他に代替え案がありません。

人間の大多数の幸せのために動物を(食糧として以外で)殺す。
人間の大多数の幸せのために原発を再稼働する。
人間の大多数の幸せのために自然破壊をしたり保護をする。

いい・悪いではなく
世の中はそうできています。

なので
大多数の言う幸せを、
私たちは幸せだと思い込んでしまうのです。

幸せからこぼれないように。

真実らしく見えるものとは
大多数の幸せ、としているものです。

例えば
原発もクリーンエネルギーとして大多数に
迎合された結果の導入、つまり
大多数の幸せとしての真実として
受け入れられたのですから。

それは真実のように見えて
実は真実ではなく
大勢の意見(もしくはそう操作された)という
だけです。

ちなみに
正解はありません。

大企業で勤め上げて出世することが幸せ、というと
昔は正解でしたが、いまは不正解とされます。
しかし、
真実はどちらとも言えないのです。
ただ、そういう風潮があるのは、
大多数の人が、そう言う風に考える方が
幸せ、と思っているからというだけです。

幸せについてそんなふうに
考えたことってありました?
自分にとっての幸せ、を考えるときの
違ったアプローチになるのではないでしょうか。

世界中の人がNOといっても
自分にとっては幸せ、というものが
あるいはあるのかもしれません。

いかがでしたでしょうか。

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