ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

「自分」って本当は・・・

自分を意識するときってどんな時ですか?
一人で何かに熱中しているような時、
「自分」なんて意識しませんよね。

そんなとき他者のまなざしで、ハッと我に返る、という感じ。
例えば人に見られたくないような恰好で
寝そべっていたとして

恥ずかしい!

という思いで我に返ります。

つまり人は他者を意識したとき初めて、
自己というものに気づきます。

ここまではわかるのですが
その「気付いた自己」というのは、
果たして自分なのでしょうか?

恥ずかしい、と気づいた自分は
あくまでも、他者の目からみた自分、を意識したもの。
恥ずかしさはたった一人では、なかったものです。
(恥ずかしさを例にとっていますが、他の感情でも)

とすると、この自己、というのは
本当の純粋な自分、とは言えなくなりますよね。

さらに
恥ずかしい、というのは
周りの人から見て、自分は恥ずかしいだろう、
という認識から恥ずかしい、と思うものです。
(平たく言うと、周りの人が恥ずかしい人だと
本当に思っているかどうかは知り得ない)

しかし、周りの人を意識しないときに
自分、というものがどういうものかを意識することはない。

純粋な自分、というものを追求すると
自分と言うのは消えてしまうことになります。

だから、周りとの関係性や他人のまなざしから
自分を浮き上がらせると、やはり本当の自分、と
言うようなものではないことになる。

あなたが本当の自分、と思っていたことは
他人のまなざしから見た自分、ではないですか?

他人からみて自分は強情だ、
他人から見て自分は弱気だ、
他人から見て自分は太っている、
他人から見て自分は痩せている、
他人から見て自分はぐうだらだ、
他人から見て自分は頭がいい

などなどなど
他人から見た自分、を
自分は自分だと認識しているに過ぎません。

とすると
本当の自分、というのは
どこでどう考えれば浮き出てくるのでしょうね・・・?


サルトルの思想です。

かなり衝撃的でした。
私が日々つきあっている、この自分。
この自分は他者がいなければ
何者でもない、ということになります。

そんなことを知ったからといって生活に関係あるの?

ごもっともです。

でも、そんなことも知らずに生きてきた自分、というのが怖くもあります。

明日は、
人間は「自由の刑に処せられている」について考察してみたいと思います。

いかがでしたでしょうか。
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