ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

自己欺瞞

展示が終わり、早速今日から哲学生活です。
のっけから中島義道

善人ぶる大衆=弱者。
それに他ならない自分。
消えたくなる一冊ですw

日本人とは、大衆とは。
権力に迎合し自分の意見を捨て
愚鈍で愚かで馬鹿で、弱者を善人を装う。

成功したい有名になりたい人の役に立ちたい

しかしそれには及ばない自分。
そういう自分であるのは、
今まで生きてきて得られたさまざまな評価。
経済力。学力。努力。家柄。
そういうものが自分を作っているから。
つまり今の自分は自分のしてきたこと
(親の経済力や家柄など不可抗力なものも含めて)
の結果。
そういったもの全てを見ないふりをして

社会のせいだ、親の教育のせいだ、環境のせいだ、日本のせいだ、と
他人の責任にする。

しかしそうでありつつも今の自分がそうあるのは
自分が弱者であることを心の底で、
あるいは無意識レベルであっても
知っている。知っていつつ
それに気づかないふりをして
強者を責める。
自分を守るために。

いますよね、
自分は何もしないのに政治家や芸能人や
スポーツ選手などの強者を批判する人。

自分は同じ土俵に立つなどをせずに
安全な場所で他人を批判する。
弱者であるが故に
人の批判を受けずに済む安全な場所で
善人を装い生きているわけです。
自分は小さな幸せで満足だから、と。
強者にならなくてもいいんだ、と。

しかしひとたび彼が、

お金持ちに、貧乏人、とはっきり言われたり
美人に、あなたはブスね、と
イケメンに、おまえ不細工だな、と
(まあ、子ども同士ならあるかもしれませんが)
大人になってはっきり真剣に言われたら。

自分と同じ仕事で成功している人に
それじゃ無理だろ、とはっきり嘲笑されたら。

弱者はそこで傷つき、しかし
一生彼を許さないほど猛然と怒りだすそうです。

もしくは自分が批判した有名選手や芸能人が
直接目の前で反論してきたら?
お前がやってみせろ、と本人に言われたとしたら?

弱者はそこで態度を一変させます。
権威に弱い弱者だからです。
あれだけ声高に主張してきたことも簡単に意見を変えるわけです。
「誤解があったかもしれません」とか言ったりしてw

「〜だそうです」と他人事ですが、
自分だって同じです。
平気で芸能人批判とかしてましたから。
とはいえ哲学を学んでからそれをしないよう心がけてはいます。
そして弱者が、本人に面と向かって言えないにもかかわらず
内情も知らずに強者を批判するのを
あーあ、という気持ちでみてしまいます。


どんなに傷つくでしょうね、面と向かって本当のことを言われたら。

そのセリフを考えただけで
消えたくなりますね。

そして、権威に負けて自分の意見を変える自分を
自分はわかっているわけです。

最悪ですね。

そしてそう感じるからには
明日の自分、理想の自分を
布団の中で祈りつつ、成功者、強者を攻撃しても
突如自分が成功するわけがないのです。

私たちは知っている。
自分がなぜ幸せでないと感じるのか、
その理由を。

これ、最近私が考えている
「怒り」についてに繋がります。

怒ることで、損をすることって多いですよね。

つまり
年金制度なんてダメだよねと安全な場所で批判する弱者。
しかし、年金がきちんともらえるのであれば
文句は言わないわけです。
自分はもらえないかもしれない、と
自分に被害がかかった時点で猛然と怒りだすのです。
安全な場所、つまり
年金を支払いながらw

前も書きましたが制度に反対で
年金を支払わないことで自分の意見を貫く強者、
有名作家さんなどがいますよね。

政治、権力に迎合せず
自分のYESに従いながら生きる、強者たち。

あ、年金はもちろん例ですよ。
それにそれが正しいという信念で払う人もいますし。

自分のハートにイエスと言う、とか
流行っていますが
それを実行できているのは強者だけです。


偉そうに書いていますが
もちろん私も弱者ですよ。

弱者には二種類あるそうです。

ところで
ここまで読んでくださって、

自分は違う!と思いましたか?
自分は確かにそうだ、けれどそれは時代のせい親のせい日本のせい政治のせい
運がなかったせいまだ自分が開花していないせい
と思いましたか?

二種類とはこれです。

あくまでも、自分のその弱者っぷりにw
気付かないふりをして生きているか

それに気づいて自分を責め、
自分を正当化して生きているか、

だそうです。

厳しいーーーー!!

でもこれが真実である、と思える人には
救いの道があると私は思っています。
まだ完読していませんので(^_^;)
それを中島先生が語っているかどうかは
まだわからないのですが。

ここから解放されるには
哲学者に学ぶしかないのですが
(もしくは宗教に浸る)

取りあえず今日私はすっかり
消えたくなりましたw

と笑えてしまうのは自分への嘲笑です。

こんなことがわからない程度の自分でいたら
むしろ良かった。

社会が悪いんだよといいつつ
政治家を批判して、しかし自分は何の活動をするわけでもなく
活動したところで権威者に迎合しつつ生きる。

自分は相手に批判されない位置にいながら
芸能人を批判する。

ところでこの批判も、
弱者は社会一般に言われている範囲でしか批判できないそうです。

つまり、相手の肉体的な問題など
放送禁止用語になるような用語では
匿名の2ちゃんねるであっても
なされないそうです。

批判でさえ「常識的な」と社会に迎合した範囲で
なされる。

こういう自分であることに
気付けもせずに強者を批判する自分で
むしろいたほうがよほど楽ですよね。

芸能人の、これがおかしい、と批判するとき
あなたは同等の批判を受けることを覚悟して語っているのか?

それともあなたは自分は弱者だから、安全な場所で
誰にも批判されなくてもいいんだ、と
するのか?


ところでこんなことを考えなくても生きていけますし
その方が幸せです。

けれど、自分が幸せになれていない気がするのであれば
それは自分が弱者であり、なにかの奴隷だからです。

ここから解放されるには
自分の思うままに生きるしかありません。
しかしそれはリスクを伴います。

あなたは友人と大切な話をしているときに
総理大臣や憧れの芸能人や、上司や社長やクライアントが
話しかけてきたら
友人をそっちのけにしてそちらと話をしませんか?
権威に尻尾をふった方がラクだしトクだからです。


厳しい、けれど
それがあまりに現実であるので
笑えてしまうのです。自分も含めて、の意味で。

けれど、酷い話だし恥ずかしい、厳しい、
そんな自分でありたくない、と思いつつも
これが真実だよな、と感じ取れる方は
厳しくも、自分の人生を生きられる道があるように思います。

それが、「好きに生きる」ということなのですが。

面倒だし、楽でもないし得もしない。
だからそんなことはなかったことにして
安全に人は生きていきます。
繰り返しますが私もです。

けれど
そこに立ち向かえた時
あるいは 違う人生が開けているのかもしれません。

一生しか生きられない自分。

直視して生きるか
自分を欺きつつ、自己欺瞞に陥りつつ生きるか。

そこに、何か大きなヒントがあるような気がしてならないのです。
自分の人生を生きる、という
それだけのために生まれてきた私たちが
自分を満足させる方法のヒントが。

ああーーこんなことさえ
気付かない自分で、やはりいたかった!

お読みくださり、全く自分は違う、
関係ない、と思えた方は幸いです。

でも多分・・・
哲学体質の人は気付いてしまう、いえ
正確には
関係ない、と思えた人も気づいている。

そこを気づかないふりで
自分を欺いて生きていくのかできないのか、という
違いだけなのですが。

いかがでしたでしょうか。
多分、「迎合」すればこんな話を書かずに、
「ちょっといい話」を書けばクリックも増えるってもんでしょうねw

けれどできない自分。
それはしかし自分のかすかな光であると考えています。

ほんの少しでも共感してくださった皆さんは
応援クリック、よろしくお願いしますm(__)m
 ↓

人気ブログランキングへ

読み進んだらまたフィードバックいたしますが、
うまく説明しきれませんし、
簡単に書かれた本なのでぜひご一読いただきたです。
すぐ読めちゃいますから(^_^)