ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

日本の神様・2

今日は久々に瞑想。なのに酷い頭痛で
瞑想どころか苦行になってしまいましたw
瞑想しつつ次の制作に思いを馳せる予定だったのに(>_<)

さて先日、大神社展へ行きました。
有名な、教科書に載っているような国宝から
神像、といって仏像ならぬ、神様の像や
見どころ満載だったのですが

私が一番惹かれたのは

「神は見えない」

という日本人の世界観。

そういう掛け軸がありました。
姿の無い神に
神饌をささげ
祈り
傅く。

私たちが神社にいって拝むとき
ご神体はたいていが鏡です。

ここには龍が祀られています、といっても
龍はいなくて、やはり鏡。
それでも

龍いないじゃん!!!

とは思いませんよねww
私たちは暗黙に了解しているのです。

神は見えない、ただ在るものなのだと。

人間の形をしたそれではないと。

仏教は、原型を辿ると、哲学です。
神道は、複雑な歴史を抱えていますが、
私たちの神様は、辿るとただ、「ある」だけ。

ただ、在る。

BE。

理由もないのです。
ただ在るのです。

西行法師は、神宮(伊勢神宮の正式名称は「神宮」です)で

何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

と歌いましたが
西行法師が、神宮にどなたが祀られているか
ご存知なかったわけがないですよね。

しかし
何が「在る」のかわからない

とうたっています。

その何があるのかわからない、のに
確かに在る。そして涙がでるような何かを感じる。

これが日本の神様です。

白洲正子は、これを
「日本人のあれ」と表現しました。

それは、存在の理由はなく、
いったい何なのかもわからない。

あれ、としか言えないものです。

にも関わらず
私たちは神社にいくとき
鎮守の森で
巨石の前で
ご神木の下で

感じるのです。何かを。
それは宗教とは違う、
もうDNAに組み込まれているような、そう、あれ、です。

それは信じるとか信じないとか
好きとか嫌いとか
幸せになるとか祟られるとか

そういう次元ではなく
ただただ感じる。

だからこそ、
宮崎アニメが流行るそうです。
あそこに出てくるのは
人間の形をして、人間の運命を司り、
いろんな教義を唱える神様とは違います。

言葉にできない、感じるしかないあれを
皆が感じ取れるからなのです。

(とはいえ、宗教学的には、
宮崎アニメを見たからと言って日本の神を正確に学べたり
宗教について正確に学べるものではありません。
ただ、なんとなくそんなようなもの、という雰囲気だけです)

ちなみに、
神像は、
仏像のように拝むものではないものだそうです。
誰にも見えないところに
見えない様に設置され

それを私たちは拝むのです。
それがどんなものかも知らず。
それは、実はなにもないかもしれないのに。

でも、わかるような気がしませんか。
なくても別にいい、というか。

だって人間が想像できて像にできるようなものが
神様なわけがないですよ。

神、とはそれ以上は問えないもの。
ただ 在る もの。
これは哲学の論理。

何も語らず、何も見えない、
けれど、在る。

日本の神はあるいは
究極の哲学かもしれません。


西洋哲学だけでは幸せになれないのは、
現代社会が実証済みです。
人間の心には、神的な何かが必要なのですが、
現代の既存宗教は全て、それぞれに問題点があると言われています。

宗教を信じなくてもいいんです。
神様を信じなくても。
ただ、私たちが感じる「あれ」。

ただただ自然に祈りたくなるようなあの気持ち。

それが、理論で虚しくなったときに
救ってくれる唯一のもの、のような気がしています。

いかがでしたでしょうか。
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