ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

自分を見失う。

ロゴスの小径へようこそ。

さて今日もまたハイデガーより。

自分を見失う、ってよく聞きますよね。
それって具体的にはどういうことなんでしょう。

こんなの自分じゃない!
自分が本当は何をしたいのかわからない!
自分が好きなような嫌いなような
でも自分は自分でしかなくてこのまま生きるしかなくて

でもそもそも自分、ってなんだ?
その定義すらあいまいです。

あなたは何をもって自分を自分だと
証明できますか?

もし体が違う他の人の中に入ってしまったとして
あなたは、でも、自分が自分なんだと
どうやって他人に証明しますか?

親や子供や伴侶でさえ
他人の中に入って他人の声で話すあなたを
あなただとは簡単にわかってくれないのでは
ないでしょうか。

いえ、自分でさえ
違う入れ物の自分を見たら
それが誰だかわからなくなるのでは・・・。

急に大幅に減量したり太ったり
整形手術をしたりすると、
中身まで変わってしまう、と聞いたことありませんか。

でもわかるような気がしますよね。

もちろん体とは単なる入れ物ではなく、
それごとあなたなのですが

それにしても自分は自分なんだと
この外見と名前以外に、
なにを持って言えるのか。

ハイデガーによると
自分を見失う、とは

世間一般に迎合している状態の自分、だそうです。

世間がそういうから、
皆がそうしているから、
目立たないように
皆と同じように。

自分の思想も判断も吟味もなく
世間に迎合する。

しかし!
その「世間」とは。「一般」とは。

実はそんなものの定義はありません。
あなたが考えている世間一般、とは
あなたが考えているだけのものです。

これが常識だ、と
誰かに聞かされ思い込んで
勝手にそう思っているだけのもの。

その勝手な思い込みに
合わせて生きているのですから

自分を見失うわけです。
それは厳密な「世間一般」とも違うわけですから
これが常識なのに、なんであの人はそうしないの!?
これが常識なのに、まわりが間違っている!
ということになるわけです。

私たちが
「一般の人の意見」というときの
「人」

その、確かめようもない 一般の人の意見

というものの中に落ち込んでいくとき
人は自分を失うのです。

一般では。
常識では。

その言葉のなんとあやふやなことか。

常識ではお葬式のあとに塩をまく。

しかしそんな習慣は仏教には本来ありません。
死は決して不浄なものではないのです。

近年、それは死者に失礼だということで
お葬式で塩を配らない運動も起きているそうです。

つまり
塩をまくと言う行為は
長い歴史をみると、むしろ非常識、ということに
なります。

そんなふうに考えると
常識、としているものはほとんどが
あいまいなものです。

自分を見失う、とは
本来確固たる自分があって、それを失ってしまう、
というのではなく

自分の設定した
世間一般、というものの中に自分が埋没してしまう子と
そしてその世間一般にてらして
日々起きるさまざまな事柄をこなすうちに
どんどん自分から遠ざかってしまうこと

のようです。

ところで人は、どんなときに強く「自分」を感じるのでしょうか。

普段は、自分というものを意識せずに
日々、歯を磨き服を着替え仕事をして
ご飯をたべてお風呂に入り寝ていますよね。

自分を意識するときとは、
体調が悪いときや
うまく行っていない時
人間関係などにずれを感じるような時
なにか虚しさを感じるとき

そんな時に、

自分て・・・と
考えてしまいませんか。

自分を強く意識するときは、そういう時なのです。
しかしそういう自分は、どこか遠い。
まるで他人のように遠い感じがします。
なにが自分かもはっきりしないと言うのに
近い、わけがありません。


一方自分が近いとき、とは
調子がいいときです。
活力にあふれ日々楽しく充実するような時。
そんなときは、自分は今の自分を重なるようになって
意識されません。

逆に言えば
旅行に行ったりおいしいものを食べたり。
そういうときは「今の状況」を楽しんでいるので
自分、を意識しない。

だからこそ楽しい、と言えるのかもしれません。

自分、とは世界の中に投げ出された
世界の中に存在するのですから。

ちなみにハイデガーのこの理論までは
世界とは

自分対世界、という二元論であり

世界とは
自分の思う「世間一般」のように
より西洋化していくのが正しい
より合理化していくのが正しい
それに向かって全人類は邁進し
未開の地は西洋化されていって当然、
それがよりよい未来になっていき
自然さえも支配されて当然、

と思われてきました。

日本の思想とその教育は遅れているので
いまだそれをひきずっているのですが

そうではなく、
私たちは世界に投げ出された、世界の中の存在である
ということに気付いたことが
ハイデガーの偉大さだそうです。

うーん、難しい。
でも

取りあえず思うこと葉

やはり、自分を見失わないには

「今」の「自分」を生きる
に尽きるように私は思います。

自分でこしらえた世間一般に照らして
それに埋もれるように
もしくはそれに苦しみつつ逆らって
生きるのは

苦しい。

西洋化が正解と何千年も思われてきた
キリスト教的世界。
しかし、正解はない、とわかった以上

人類が足並みそろえ、世間一般、という存在しえないものにあわせ
発展に向かう、というのは幻想でしかないのですから。

だからこその
「いま、ここ」なんです。

この深い意味を考えて それに至るのと

単に耳触りの良い言葉だけみて

「いま、ここ」っていいな〜〜☆

と思うのでは雲泥の差ですねw
まあ、私も一年前までそんな人間だったのですがw

いかがでしたでしょうか。
ハイデガー、まだ続きます。

励みにしております。
今日もクリック、よろしくお願いします(^_^)

人気ブログランキングへ