ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

自己欺瞞の犠牲

ロゴスの小径へようこそ。

最近の私のテーマ、自己欺瞞

自分自身を生きることこそが
人間にできる唯一のことなのに
そこから目を背け自分を騙して生きる。

魂は卑屈になっていくばかり。

だって自分を騙して生きる一生、ですよ?
生きてる意味ないじゃないですか!

そこが気になる私はやはり
自分を欺き生きてきたのでしょう。

本当は悔しいのに
平気な顔をして生きてきたのでしょう。

強者はそこから目を逸らさない。
だからこそ、成功(彼にとっての)を掴むのです。

先日たまたまテレビをつけたら林真理子さんが出ていて
インタビューに答えられていました。

中学の頃いじめにあって、
そのままでは自分の学生生活はつまらないまま終わる、と自覚し、
猛勉強をして、いじめる子たちが入れないような高い偏差値の学校へ入学し、
楽しい高校生活を送られたそうです。

自分はいじめられている、という自覚。
これがあったからのその先の強者としての人生です。

自分はいじめにあっている

と認める勇気は
小中学生の子供にとっては、ものすごく
目を背けたくなるような事実だと思います。

しかし
大人になっても自己欺瞞を延々続けるとどうなるか。

例えば
二つの初めての仕事を受けた、という人がいます。
二つとも同じ仕事なのですが、
ずっと嫌でやらなかった仕事。
でも今回は引き受けたとか。
引き受けるに当たってもかなり言い訳付きで
それまで否定してきた自分を誤魔化していましたが(笑)

しかしそのうち
一つはキャンセルになったそうです。
でもそれは最初から自分にはあわないと思っていた仕事。
だからずっとやらずにきた。断られてむしろよかった、
これでよかったんだ、という話。

では同じもう一つの仕事も断るのか?というと

断らない!!ww

つまり本音はこうです。
二つともやりたかった。一つはキャンセルになってしまって
くやし〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!ですよねw

そこで自分を騙さなくてもいいのに。
そもそもそんな本心誰にも言わなくていいわけですから
悔しがっていればいいんです。

まあ、それができないから自己欺瞞に陥るわけですが
そこまではまだいい。
他人を傷つけませんから。

問題は
自分の本音を隠すために
わざわざ他人にそれを言い訳し、
自己欺瞞の手伝いをさせようとする事実です。

たいてい人は優しいので
「そうだよね、それは断られてむしろよかったんだよ、
神様のお導きだよ」とか言いますw

あ、話が逸れますが、ちなみに自己欺瞞していない、
くやし〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!と思っている人には
断られてむしろ良かった、神様はもっといいことを
用意しているよ、と慰めるのはアリだと思います。
後づけのスピリチュアルはいつも有効ですから。
実際そうなるんじゃないの案外?と本気で私も思います。

でも
そうでない場合。
本当は悔しいんじゃないの?
そうでないならなぜもう一つの仕事は断らないの?という
疑惑を抱えつつw

彼の企てに手を貸すわけです。
そうだよね、断られてむしろよかったよ


嘘をつくわけです。

心理カウンセラーがお金をもらって
彼の心を慰めるために、そういう言葉を選ぶのとは
訳が違います。

かくて彼は、
いまや自己欺瞞ではなく、他人のお墨付きまでもらって
ひとつの仕事は断られて良かった、となるわけですが

嘘をついたこちらは
なんだかビミョウな心持ち。

心の中では、
いやいやいやいやいやいやいやいや、違うだろ!!!と
ツッコミを入れますw

そして嘘をついた自分を
少なからずも責めます。

ちなみにこういうの、
全く平気でずばっと、

それ、単にくやしいだけじゃない?

と言ってしまう
空気の読めない心の優しくない人もいます。
強者ですね。

本心を言えずに、
そうだよね、と優しくするのは

自分の順番がきたときに
優しくしてほしいからだそうです。
そうだよね、あなたは悪くないよね、と。

強者は自分の順番で慰めて欲しいとは
思っていません。微塵も
なので真実を言います。
嘘をつく方が苦痛なので。
ソクラテスですねーーーこれ!

そして本当は、真実をついてくれる友人の方が
苦言を呈してくれる友人の方が
その人にはプラスになる、というのは
誰にでもわかるわけですが。

そうは言っても
自分が悪いとわかっている、でも慰めて、ってときも
ありますよね。
自分を騙してはいない、でも今日だけは
優しい言葉が欲しいとき。
そういう時は私は前置きします。

本当は悔しいんだけどー、でもいま凹んでるから
慰めて、と。
愚痴なんだけど聞いてー、とかね。
アドバイスはいらない、でも聞いて、慰めて、と。

それはアリだと思います。
本人が自分の本心をきちんとわかっていれば
それでいいんです。
本当に辛いときは慰めてもらって心が安らぐときも
ありますもん。
愚痴ればすっきりすることもありますし、たくさん。

でも自分を欺き
なかったことにして

自分自身を生きないなら
いつまでたっても心の空洞は埋まりっこないですよね。

未だに
結婚を親に反対されて、他の人と結婚したことを、
恨んでいる人もいます。

でも、同じとき、親に反対されて家を出ても
好きな人と結婚した人もいますよね。
明治時代じゃないんだからw

つまりは
親に勘当されてまで貫けなかった自分の意志や、
相手がそこまでしてまで結婚、と思ってくれなかった事実
しかも自分は他の人と結婚したこと
すべてをなかったことにして
何十年もたった今でも、あのとき親が・・・と
親のせいにして生きていく。多分一生抱えて生きていくのでしょうね。

結婚だけじゃないですよ。
進学も仕事もなにもかも

それがなくても成し得た人がいる以上、
全て言い訳ですよね。

そして誰かを恨んで生きる一生、なわけです。

自己欺瞞の犠牲は、
自分自身はもちろん

嘘をつかせた友人にも及びます。
その友人が強者なら
はっきり言ってくれるでしょう。
それ、あなたが悪いんじゃないの?と

あなたに嫌われるのも厭わず、
自分が優しくされないリスクも厭わず。

私はそこに気づいてうんざりしました。
自分に。

そうだよね、よかったんだよね、と口先で
話しているだけの自分。
それは優しさだとか空気を読むだとか
相手を選んで対応してるだとか
思ってきたのです。
思って、自分を欺いてきたのです。
自分の順番で優しくしてもらうために。

ああ吐きそうw

しかし私と言う人間はあまのじゃくなので
ひとたび優しくされるとそれが屈辱だったりもします。

人にやさしくしましょうという
キャンペーンに載せられて人にやさしくする。
だから人にやさしくしてもらえる、けれど

それは嘘だとわかっているわけです。

虚しさの人生の循環の始まりです。

その連鎖を断ち切るべく

それは違う、と指摘する選択を
いまはしています。

彼は怒りますが、もしくは傷つきますが
しったこっちゃないですw
他に、やさしく嘘をついてくれる人をみつければいいと思いますし

かわりに私にやさしくしてくれなくても
全くかまわないです。
それで友達やめたいならそれでもかまわないです。
というのに、やっと気づきました。

強者の言う真実(中島先生の本の内容はまさにそうですよね)は
むしろ厳しくも心地よい。

自分はそれは違うと思う、ときっぱり
言ってくる
もしくはいっさい語らず意味の無い慰めをしない
自分自身を生きているタイプの人たち。

しかしそれで喧嘩になるわけでもなくw
むしろ心地よいわけです。
私も、それをむしろ心地よいと思ってくれる友達だけで
よかったんだった。

なんでこんなに簡単なことに気づかなかったんだろう。

もともと人を傷つけるタイプでした私。
自分では知らずに。空気読めなくてw

あるとき友人に泣かれて
それからものすごく気をつけるようにして生きてしまった。

それから人に「優しい」と言われるようになりました。

生きやすくなった代わりに
なぜだろう、心に空洞ができてしまったのです。

そこから恋を重ね恋で空洞を埋める、
仕事で空洞を埋める、しかし
そんなの一瞬で
すぐに心に穴があきます。

自分を欺く限り、
そしてそういう人に囲まれて満足している限り

自分自身を生きられない。

自分を生きることの方が
人にどうみられるかなんかよりずっとずっと大事なのに。

ちなみに
自己欺瞞に思う「こと」、対象は人それぞれです。

つまり先ほどの例で言うと、
親の言うとおり結婚すればよかった、
けれど自分で選んで強引に結婚してしまった、
だからこれでいいんだと過去の選択を未だに持ち越して
後悔していないふりで自分を騙している人、もいるわけです。

自分を騙すと心に穴が空きます。
人に話さないでもいいんだから
恥ずかしくないですよ、自分の中で
悔しい、とか失敗だ、とか認めていればいいんですから。
そしていったん認めてこそやっと
そこから始められるのですから。

認めない限りずっと自分を騙して生きる一生です。
まあどうせ生きて死ぬだけなので
それでもいいんですけれど

その場合周りを巻き込むのはやめたほうが・・・

いえ、巻き込まれる方が悪いのかw

いかがでしたでしょうか。

最近辛辣な話が続いてるな・・・(^_^;)
そんな私に応援クリック、よろしくお願いいたしますm(__)m


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