ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

他人から見た「自分」

ロゴスの小径へようこそ

今日、仕事で出会ったばかりの方々に
「瑠璃さんワールドがありますよねえ!」

と言っていただけました。

ずごく意外・・・

世界を持っちゃってる人って確かにいますが、
自分はそういうのが無いと本気で思っていますし
それが何かもわからないというか。

実は、作家活動を始めてから
そんな感じに言われることが増えました。

私ったらまわりにどういう人だと
思われているんでしょうね?

どちらにしてもおもしろいな、と思いました。

自分の知らない自分を見るようで。

ところで友人は
いつも頼りなく、危なげで、そして
優しくてなんでも悩みを聞く人のように見られるそうで
本当の自分じゃない!と
いつも悩んでいます。

本当の自分、ってなんだろう・・・

この場合は、それって

「なりたい自分」とか「こう見られたい自分」
なのではないでしょうか。

たとえば
いつも頼りなく、危なげで、そして
優しくてなんでも悩みを聞く人のように見られるのであれば
それがその人、と言うことになるのではないでしょうか。

あ、ちなみに
良い、悪いではありません。

まわりにどう見られようと自分はこうだ、
というのはあってもいいと思います。

でも、それを主張しだすと

なりたい自分、こう見られたい自分、になってしまうような
気がします。

彼女の場合は
本当は自分は優しくなくて、むしろ切れ者、ということに
なりますが

そうまわりに認識されない。

まわりに認識されなくても、
自分は優しくなくてむしろ切れ者だ、と
勝手に思っている分にはそれがその人自身と
言えるでしょう。
自分は自分が作る(演じる)のですから。

でも、
私は優しくない、でも切れ者なの!!と
主張しだすと

それは「周りからそう見て欲しい」ということに
一気に成り下がります。

周りからどう見られたいか、にあわせて
まわりは自分をみてくれません。

そもそも自分自身も、まわりの人を
その人がどう感じて欲しいか、ではなく
自分がそう感じたままにみているのですから。

私は最近、
自分が思っている自分と、
まわりが思っている自分との差が
おもしろくてしかたありません。
それがどんな評価であれ。

だって自分って自分では本当はわからない。
こうありたい、という部分しかわからない。

だからまわりは自分の鏡なんです。

もしくは
自分が、●●な人に見られたい
と思うのであればそうふるまえばいいだけの話。
さっきの例だと、
優しくない、でも切れ者、にふるまえばいいと
言うことになりますよね。

そういえば
子供の頃から 「優しくない」と親に言われて
ずっとやさしい人になるのを心掛けてきたおかげでw

優しい、と言われる機会が増えていました。

最近そう言われなくなったなあw

自分てホントはこういう人なの、と
必死にアピールする人が
意外にも多いな、と思います。
そういえば昔は自分もそうだったかも・・・。

それは
ほんとにそういう人、なのではなく
そうなりたい自分、である場合が多いので

なりたい自分、というのを認識するには
いいヒントになるかもしれません。

いかがでしたでしょうか。
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