ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

運のいい人は幸福?〜ニコマコス倫理学〜

ロゴスの小径へようこそ

幸運な人は、=幸せな人、なのでしょうか。

アリストテレスはこれをどう考えているかを
私なりに思考します。

紀元前、日本人が稲作を始めた頃
もう哲学の基礎はできあがっていました。
その思想は驚くほど現代と大差ありません。

実際古代人の知能と現代人の知能は大差ないそうです。
人類は進化しているように見えて、
知能があがったわけではないんですねえ・・。

ニコマコス倫理学による、幸せとはなにか。

とはいえ、哲学の定義のような厳密な定義ではありません。
定義しきれるものでもなく、
私たちが、そんなもんだな、と認識できればよし、と
しています。
(そんな断り書きも、現代と大差ないですよねえ!)

運のいい人が幸せ、
だから幸運を引き寄せる。
自分は運がいいから幸せ、
というようななんちゃってスピリチュアル思想全盛期ですがw

もし、幸運な人が幸せ、であるとすれば
それはどのタイミングでその人を(自分自身をでもいいですが)評価したらいいのでしょう?

例えば天職が見つかった!その職につけた!
なんて幸運なんだ!

とした数年後

実はあれは自分には違う仕事だった、と
職を変えたり、むしろあれがなければ
自分はもっと成功していたのに、とか

それがきっかけで人生転落にむかったりしたら

それは不運だった、ということになりますよね。

ところがその後それをきっかけに出会った人と恋に墜ちて
やはり運がいい、幸せ

でも離婚することになり、不運

とか

いい人生を送ってきたのに、最後の死にざまが不幸だから
不幸だとか

幸福なだけの人生を送った人が、死後、
その人の子孫が例えば酷い犯罪を犯したら
その人は幸福なのか不幸なのか??

などと考えだしたらきりがないほど

その人の運不運、幸不幸は
いつ判断したらいいのかわからない、ということに
なります。

やはり、運不運、は幸不幸、に影響はするものの、
幸せかどうかそのものではないようです。

アリストテレスは言います。
卓越性こそが幸せである、と。

卓越性、についてはちょっと深いのでまだ理解しきれている自信がないのですが、
今の時点では

卓越性は、持続性でもある、というあたりから
捉えてみようと思います。

つまり、一生を通して続けるような何かをもっている人こそが
幸せだとアリストテレスは定義します。

一生続けたいような何か。
例え幸運なことがあっても不運なことがあっても
彼は不屈の精神でそれを続けます。
もちろん幸運なことは、その活動を助けるでしょう。
でも、不運なことがあったからといって
それをやめるでしょうか?

例えばマザー・テレサが一生をかけて続けた活動。
運のいいことも、悪いこともあったでしょう。
けれど彼女はそんなことに左右されず
その活動を続けました。
人を救うことが彼女の幸せだったからです。
運不運は関係ありません。
もちろん運がいいことに多大な寄付が集まる、などあれば
その活動はやりやすいものとなったと思います。
でも不運にも寄付がなかった、としても
彼女はその活動をやめないですよね。

もちろん他人のために人生を捧げるもの、でなくても
いいのです。

自分の人生をかけて、一生続けるもの、
しかも卓越性・・・徳、と訳されることもありますが、
徳、に対する日本人の概念もそもそも間違っているので理解が難しいところです・・・
ソクラテスの言葉、より善く生きる、に近い漢字でしょうか。

書道家が一生をかけて、継続して書を追求する。
しかも、常に技術の向上、思想の向上をめざしながら。

と、そんなイメージでしょうか。

その書道家の家が火事になったら不運
賞を取れば幸運。

けれど、彼にとってはそういう運不運ではなく、
書を追求する、という行為を持っている、ということ自体が
彼を幸せにしている、ということです。

もっと一般的な例を考えると・・・

一生健康に気遣う人が、
不運なことに何かの病気になっても
その人は健康を気遣うことをやめないでしょう。

「こんなことがありました。
運がいい!」

みたいなブログをよく見かけるし、
自分も「いいこと」を数えてブログにアップしよう、
と思ったこともありましたが

すぐに虚しくなってやめましたw

その「いいこと」が本当の幸運に向かっているかどうかは、
それが起きた時にはわかりませんから。

まあ、それでもそれがどんな結果になっても
常に
自分て運がいい!と幸せな気持ちになれていれば
それはそれでいいのですが

なんだか私も、アリストテレスの言うように
運不運に関係なく、一生をかける何かを持っている人、こそが
幸せに思えてならないのです。

ちなみに先日お話しした、
いろんなチャンネルをもつ、とは
その時々の楽しいことをして人生を埋めることではありません。
まあ、それで楽しい一生ならもちろんそれでいいのですが。
快楽で埋める一生に虚しさを感じないなら
それが本気で一番幸せなことだと思いますし。

でもそれをしてきて埋まらない心の空洞に気づいたからこそ
このブログをお読みくださっているんだと思いますので

いろんなチャンネルひとつひとつに
卓説性がないと、もちろん埋まりませんよ。
でも、難しいことではないんです。

自分は一生この仕事をしよう、という卓越性だけではなく

フットサルが好きでしかたないからそれをずっと続けよう、とか
旅行で世界中を旅しよう、とか
そのためには語学を習おうとか
趣味ではあるけれど一生ピアノの腕を鍛える、とか
一生恋をしよう、そのためにはきれいでいよう、とか

なーーんでもいいんです。
そういうものをひとつ持っている人は幸せ、

そして私的には、
現代はいろんな選択肢があるので、
それをいくつか持っていると相乗効果でいい結果があると考える、
ということです。

いろんなチャンネルなんだから
今日はすべきことをしない、というのではなく
選択肢の中から、今日やりたいすべきことをする、
という意味です。

いかがでしたでしょうか。
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