ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

「徳」を高めるには

ロゴスの小径へようこそ。

今日もアリストテレス、ニコマコス倫理学より。
ちなみに学友がこれをふざけて、ニコちゃんマコちゃん、と呼ぶので
本を読むたびにそれが頭に浮かんでしまいます(^_^;)が、
ニコマコス、とはアリストテレスの子供か孫の名前、と言われています。
(諸説あり)

徳の高い人、ってなんだか憧れます。
それは、正義感が強い、とか正しい行いをする人、とか
皆のために尽力する人、とかいい人、とか優しい人、とか
そういう偽善の匂いがぷんぷんする言葉とは違いw

まるで持って生まれた気品のように
その人を印象付けます。

・・・ところで、「徳」ってなんだっけ?

親孝行、だとか
忠誠、だとかのイメージは
江戸時代の日本なりの解釈の儒教からの
いびつな教えで、正しい「徳」の理解とは違います。
そもそも儒教の思想が本来のものとは違っていますし。
ちなみに日本なりの、とは平民を操作するために
便利な部分だけを切り貼りしたもの。
男尊女卑の思想なんかもそうです。

紀元前から徳はこのように定義されていました。

それは

その状況や前提がないと、
これが「徳」である、とは言えない  と。

どうですか!哲学、というか理論は
全く紀元前から変わっていないものなんですね。
それに感動。

ともあれ
徳とは、なにか善きもの、悪徳、という悪しきものの反対であることはわかります。

とはいえ、
例えば快楽を善きもの、とするならば
自分の快楽のままに人を傷つけるのも徳、ということに
なってしまいますから

徳、とはその状況状況での選択である、と言えます。

そしてそこから、本来的にその人に備わったもの、とは
言えないことになりますね。
国によって法律が違うので、悪いこと、とするものも違います。
一夫多妻が罪かそうでないか、は国によって違うわけで
徳が高い人に奥さんが10人いる、というのは日本ではおかしな話になったりもしますよね。

ということは、徳とは、後天的なものです。
つまり親の教育、に関わる部分が大きくなりますね。
幼少時に備わってしまうものなので。

自分の本気の選択ではなく、
まわりがこれがいい、というから とか
こうすればいい人になるから、とか
常識が、とかにあわせる人は
徳が高いのではなく、単にまわりの選択にあわせているというだけの人になります。

まわりが、人を殺せ、それが常識だ、と言えば
殺すことになりますね。

ところで、もっとも意味のないことがある、と
アリストレテスは言います。
それは、

徳が高いとはどういうことか、とか
こうしたら善いことだ(自分にとって)とか
「知っている」だけでは意味がない、ということです。

それを実践しないなら、意味はない、と。

今の政治は悪い、こうすべきだ、と言うのであれば
自分が政治家になるなり、政治家にメールを出すなり
デモに参加したり
なんらかのアクションを起こさないのであれば
それは意味がないこと、となるわけです。

もちろん政治に限らず

例えば、ブログや(ここもですねw)
本などで
こういう生き方いいな、と思っても

ダイエットが体にいい、という原理を知っていても
勉強の重要性を知っていても

何もしないなら、
何も知らない人と全く同じ、ということです。

アリストテレスは哲学をも批判しているのです。
理論をたてたところで、それを実践したり
役にたてられないなら、意味は無い、と。

いい話を聞いた、感動した、だけでは
人生は変わりません。
実際行動をおこさない限りは。

哲学の根幹は、ソクラテスが言うように、
「選択」です。
自分で選択して生きて行かないなら生きる意味はない、とさえ
彼は言います。

徳、とはその状況における選択。
より善く生きるには、知識があるだけでは意味は無く、
実践しないなら、無知と同じ。

いかがでしたでしょうか。

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