ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

「哲学」とは何か。

ロゴスの小径へようこそ。

哲学的な人

とかよく言いますが
物静かな人なんかを想像しますよねw

でも哲学とは何か、には明確な定義があります。

哲学とは

知を愛すること。
つまり、物ごとの真実や本質を知りたがってしまう性格
ということになります。

え!それだけ??

そうです。それだけ。

大昔は、だから自然がほとんど思考の対象でした。
雷は神の怒りだ、

というのを誰もが信じていたときに

雷が起こる条件を考え、
もしかしたら電気なんじゃないか?とか
考えてしまう人です。
科学者も元は哲学から発しているわけです。

ちなみに、今の私たちの世界の成りたちは
物質は原子が寄り集まってできていて
原子には核があって
最近では、その核にもまたもっと小さな物質に
分けられると判明していますが

その組み合わせの違いで
木だったり、金属だったり、となるわけですが

これはもう紀元前の哲学者によって
想像されていました。
想像でそこまでわかっていた、ってすごいですよね。

科学が発達した昨今では
いろいろなことがわかってきたので
哲学のテーマのほとんどが

なぜ生きているのか、なぜ死ぬのか、
どこから生まれてどこへいくのか

というあたりになってきていますが

でも世の中のほとんどの人は、自分の生活を
疑うことなく、ありのままだと信じて生きていて
疑ったりはしません。

生きている不思議も
死んだらどこにいくかも

考えずに日常に埋もれています。

哲学的な人、とは
すべてを疑い、

これってどうなの?と考えてしまう人です。
そういう人はとても少ないそうです。

偉いということでもありません。
なぜ生きているのかなんて
考えても考えなくても同じように生きて
同じように死ぬだけです。

そんなことをいちいち考えなくてもいいのです。

でも考えてしまう。
どうしても気になる。

それが哲学的な人です。

先日話した くまもん のキャラにしても
かわいい!好き!

ではなく

売れているな、
なんでだろう
なぜ皆好きなんだろう

と考えて
いちいち調べてしまうわけですw

ものごとには理由がある(と信じて)
それを探してしまうのです。

反対に何も疑わないで信じることを
「信仰」といいます。

宗教を信じる人に、
神様っているの?じゃあ証明して、といっても
いない証明をいくらつきつけても無駄です。

そこには、無条件で信じる
という根底があるからです。

無条件で信じる、ができていない宗教家の人は
むしろ気の毒な気がします・・・
幸せになるための宗教なのに
信じるという根底がないなら
幸せにはなれないのに・・・。

その、不幸な人たち。

そう!それがあなたですよ!!!

ええええーーーー????
びっくりしました????

今はやりのなんちゃってスピリチュアル。

ポジティブになれば幸せになる
神社では感謝だけ言うとしあわせになる
ありがとうと言えば幸せになる
心がきれいなら幸せになる
朝日を浴びると幸せになる
満月の夜財布を振ると金持ちになる
心の底から確信すれば願いが叶う

やってみた、つもり。
でもおかしい。自分の願いは叶っていない。
信じて、ちゃんとやったのに。
信じる力が足りないのかな

神様に見放されたのかな
まわりのスピな人は成功してるのに・・・


上記のような荒唐無稽なwことを
根拠もなく信じてしまう人がスピな人たちです。

成功哲学では、信じれば願いが叶う、とか言っていますが
キチンと読めば、その根拠が書かれています。
(でも、書かれていないなんちゃって成功哲学スピ風味、も
でまわっていますので注意ですw)

根拠もなく、信じられない。
でも幸せになりたいから信じたふり・・・
ふり、で騙すのは自分自身。


ね。神様を無条件に信じない
信者と同じ。
幸せになれないんですよ。
それじゃ。

そこで無理に信じようとしても無理なんです。

だってなぜ満月の夜に財布を振ると
お金持ちになれるのか、

その理由をあなたは考えてしまうから。
納得がいく理由がないのに
恥ずかしくて財布なんか振れないから。

スピリチュアルで幸せになれなかったような気がする、あなた。

あなたは真実を知りたい人。
根拠を、理由を、
例えそれが存在しなくても
追ってしまう人。

神様を信じられないなら
宗教は止めた方がいいです。
心の底から信じている人にだけ恩恵はあるのですから。

でも
既存の宗教が唱える神様像でなくても

自分の神様は設定できます。
例えば
宇宙はどうやってできたのか。

神が創ったのかもしれないし
むしろ創った人が神なのかもしれない。
それは宇宙人かもしれないし
自然そのものが神と言えるかもしれない。
彼を、クリエイターと呼ぶこともあります。

哲学では、
哲学での神、と呼びます。

神さまみたいな超越的ななにかが
あるかないかは
まだわかっていません。

まあ、でも
そういうことすら考えずに

ありがとう、と言えば
幸せになる、とか
信じて生きている人がほとんどなわけで、
それは悪いことではありません。

出来る人はむしろ幸せです。

それができないなら
思考するしかない。

可能な限り客観的にみた、真実を。

ちなみに
それをしてしまう人とできない人は
おもしろいくらいに分かれています。

例えば
身内の不幸があると神社にいってはいけない、とかね。

なんでだろう、と調べると
まあなんのことはないんですがw

普通は調べもせずに
その通りに行動しますよね。

お葬式のあとの塩とか。

あれも最近は意味がないこと、
そんな風習は昔はなかったことなどから
廃止されてきています。

ちょっと調べれば真実がわかる。

神社での結婚式とかお葬式も
ごくごく近年始まりました。
明治維新のあとですね。
結婚式は昭和初期です。

なのに、歴史が・・・とか
古式ゆかしき・・・とか

話している人の多いこと!
まあ、昭和初期、でも古式、と呼ぶと言えば呼びますが

神社での結婚式もお葬式も
お賽銭の激減から生まれた行事です。

そういうのをね、
ネットでもいいからちょっと調べればすぐにわかりますよね。

それを調べてしまうのが
哲学してしまう人、ですw

と思うと

あれ、私は違うかも・・・って方も
いらっしゃると思いますw
いいんです、それが普通ですww

学友に、言葉の語源を追求してしまう
(というかその道のプロですが)方がいます。
なにげなく何も考えずに使っている言葉

それもひとつひとつに意味があるわけです。
そういうのも気になっちゃうんですよね。

最近の若者の言葉の乱れが・・・とか思う時
哲学的な人は
ちょっと前の日本語を調べてしまうのです。
すると、
時代時代で言葉は変わる物であり

若者の言葉の乱れ、といっても
じゃあどこまで遡れば正式な日本語なのか?

そういうことまで考えてしまうわけです。

すると
だんだん語れなくなってしまいます。
何を語っても、たいていのことは
思い込みでしかないので。

だから哲学する人は言葉が減ってしまうんですよね。
こんな私でも激減していますからw

哲学、とは
知を愛すること。

それに喜びを感じてしまう人のこと。
いつまでも勉強したくなってしまう人は
そういう人が多いです。


いかがでしたでしょうか。
今日は実は久々に酔っていますwので
乱文が酷いかもしれません(-_-;)

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