ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

今日、楽しみましたか?

ロゴスの小径へようこそ。

今日は久々に上野公園へいって
お気に入りのレストランでまったり過ごして
不忍池を散歩してきました。

同行の友人に言われて気づいたのですが

疲れていたみたいです。私。

数年ぶりのフルタイムの仕事に、
身体は疲れています、それはわかっています。
だから基本週末は友達と会ってもあまり遠くに出かけずにゆっくり過ごすのを
心がけていたのですが

緑の中気の置けない友達とぼっと過ごすと

ああ自分って疲れていたんだな、と。

それは体を休めただけでは休まらない
心の疲れ。
仕事が楽しいかどうかに関わらず
疲れはたまりますね。特に都会に住んでいると
緑をずっと見ていないことに気づきました。

さて
今日あった友人も都会っ子で
田舎暮らしが夢でした。

それはもう具体的に計画されており
家族は説得済み、
毎月のように引っ越し先に行き友達を作り
物件を見に行き

でも、来春までまだ東京でやるべきことがあって
その時を待っていたのですが

今日会ったら・・・

なんか、引っ越さなくてもいいかという気持ちになった、

と。

びっくりしました。
あんなに着々と計画し、決心は揺らがなそうだったのに・・・

もちろん悪いことではないですよ。
やめてはいけないような事柄でもないですし。


つまり
私がそこで思ったのは


なんにせよ

人は変わる

ということです。

私がずっと封印していた小説を読むことを再開し
昔のように楽しめなくなっていたことに愕然としたように

友人もまた

変わった

もし既にその夢をかなえていたら
どんなにか幸せに過ごせたことでしょう。
(例え期間限定であったとしても)


青い鳥がいつも逃げてしまうのは
これなのかもしれません。

幸せは今掴まえないと
逃げてしまう。

もちろん、いますぐ叶えられない夢もたくさんあります。

でも、できることもたくさんありますよね。

最近、この話ばかりですがw


アリストテレスの幸福についての思考。
人はいつをもって「幸福」とするのか。

もし、ずっと大成功ばかりの幸せな人生を送ったとしても
最後に悲惨な死を遂げたら
その人は不幸と呼ばれるのか

もしくは死後その子孫が犯罪を犯せば
やはりその人の幸福だった一生は不幸だと言われてしまうのか

おかしいですよね。
人は死の間際(死後までも!)に
その人の人生の幸福度をトータルではかり
決定されるわけではないのですから

逆に、
死ぬときに幸せならそれで他の人生はどうでもいい、と
どうしていえるのでしょうね?
死ぬときに幸せだと言うために
生きているわけじゃないんですよね。

もちろん、そうして生きたいなら
そうしてもいいんですよ、つまり

生きたいように生きる、というだけです。

今日、楽しみましたか?
明日のための勉強であっても
仕事であっても
遊びであってもなんでもいい。


「自分の限界がどこまでかを知るために
僕は生きてるわけじゃない」

この歌詞の意味、とても深かったんですね。

私たちが生きているのは
たったいま、この時のために。

今日、楽しみましたか?


いかがでしたでしょうか。



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