ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

他人の眼差しへの恐怖

ロゴスの小径へようこそ。

何か失敗をしたとき。
失敗しなくても自分のいまの立場や
人生を顧みたとき。

他人の評価を気にするなといっても
気になりますよね。

そもそも気にしないで生きている人はほとんどいません。
「他人がどう思おうと気にしない」と言っている時点で
気にしているわけですからw

ちなみに他人の言葉を気にしない人、なら
ありえますね。

この差、わかりますか?

言葉(ロゴス)はその真意は実は読み取れないのですがw
聞けばその通り、だと思えばいいわけです。
つまりは

好きだと言われれば好きなんだろうなと思うし
キライだと言われれば嫌われていると思えばいいわけで

何を言われようが気にしない人
と言うのは稀にいます。まあ、これは性格ではなくて脳の問題だったり
するのですが。
(現代ではコミュニケーションが取れない、として問題視される場合もありますが、
そういう人はたいてい知能がものすごく高かったりします。)

言葉を気にしない「ようにしている」人なら
もっといますね。


さてしかし
他人の眼差しを気にしないで済む人はほぼいません。
なぜなら

他人の眼差しとは、自分の中にあるからです。

人は常に他人の眼差しで自分を見ます。
しかし他人と違って自分ですから
心の中までわかってしまうわけですね。

口ではなんとでも言えますが
実は自分が嘘をついたり見栄をはったりしているのがわかり
それを羞恥に感じてしまったりするのです。

他人の眼差しはだから常に
恐怖であり羞恥です。

気にしないようにはできても、
気にしないでいられるわけがありません。

(なお、他人の気持ちを推し量れない脳の症状もあります。
この場合も知能は高かったりするのですが)

念のため申しますと、
脳の症状、とはスペクトラムになっています。
つまり病気の人とそうでない人がいるわけではなく
さまざまな段階があるという意味で
私たちもどこかに所属しているわけです。


他人の眼差し、とは
自分の中で設定したもの。

それを気にするのはバカバカしいとも言えますが

例えば
とても恥ずかしいことを考えた時、
こんなこと考えて恥ずかしい!と思う自分とは、
他人の眼差しでもって自分を見ているということなのです。


世界は自分だけでしか知り得ない。
自分の感覚だけが全て

でありつつも

私たちは自分を他人のようにみることもできる。
鏡に映った自分を評価するように。

右手で自分の左手を触ったとき
触る、という自分の中だけにある感覚と同時に
触られる、という他人からの行為も同時に
感じているわけです。

難しいでしょうか。

しかし哲学のもっとも重要な部分といえます。
ご興味のある方はハイデガーやメルロ・ポンティがお勧めです。

ところで、画家はなぜ自画像を描くか。

自分の内面を外に出している、
なんてうわべの説明をする人も多いですがwww

それは違います。

内面をそのまま外に出す、ことは
しかし他人の眼差しでもってみた自分でもあるわけです。

他人?自分?

ここを掘り下げていくことで、どんどん深い思考に堕ち込むのと
そこから真実の自分をあぶりだす行為に向かうわけです、という
説明を知らなくても画家は自然にそれをしています。

自分はこういう人だとアピールしているわけではなく
またそう感じる自画像は
他人の向けての自分、でしかありません。

そういえば
内面を外に出している、とか評価のしてしまう人の知識が浅いこともありますが
そうとしかとれない、深く追求できていない自画像であった、ということも
ありえますねw

太っているな、
年老いているな、
禿げているな、

などを直視しつつ
自分の中をも直視する必要がある。

心が弱い人がそれをすると
死にたくなります・・・
ひまわりの画家のように。

哲学するということは
自分てなんだろうと、真摯に向き合うこと
につきます。

それを見ないふりをして生きているのが
普通の人(いい意味で。健常者と言ってもいいかもしれません)
です。

見ないふりができないのが哲学してしまう人。


いかがでしたでしょうか。
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