ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

死について考える。

ロゴスの小径へようこそ。

連休は体調を崩しました。
胃が空っぽなのに、水を飲んでも吐く。
薬を飲んでも吐く。
どこが痛いのか具合が悪いのかわからないのに
とにかくどうしようもなく

一人の部屋で
あーあー叫ぶしかない。

数分寝ては辛さに目覚め、の繰り返し
(その後薬が飲めて少し落ち着くと、痛みは婦人系のものと判明しました)
どこか具体的にイタイ、というのがないので
よけいに辛いのです。
全身がきしむような感じでした。胃液も吐きつくして
水を飲みたくても水道までも動けない状態でした。

救急車をいつ呼ぶか、しかし犬たちの面倒を誰がみてくれるのか

そんな思いがぐるぐる頭をまわり
限界まで耐えてしまいましたが

何か酷い病気だったらあのまま逝くのかな・・・
救急車を呼べば助かったのに、と
言われてしまうのかな・・・。


先代の犬が、最後
あーあー
泣いていたのを思い出します。
苦しかったんだろうか・・・

赤ちゃんが辛くてあーあー泣くのは
成す術もなくどうしようもないからなんだろうか・・・

こんなに辛いなら死んでしまいたい

もちろん、本当に病気やけがの方には申し訳ないのですが
その刹那
そう思ってしまいました。

このまま死んだら・・・

それもいっか、と。

ちなみに外で同じような状態になったときは
そんなふうに思えないので
自宅のベッドの中という環境が
そう思わせてくれたのかもしれません。

最後に会いたい人も
最後に欲しいものも食べたいものも(てか食べれないしw)
何もなかった

母の顔が少し浮かびましたがそれだけでした。

もしかしたら
穏やかな最後なら、最後にあれが食べたいとか
誰かに会いたいとかそうなるのかな・・・。

よく聞く言葉のようですが、
「痛いのがあまりに辛くて死んだ方がマシ」と言う言葉を聞いたのは
小学生くらいの時で、母からでした。
衝撃的でした。

生きているのが最上で、
生きていさえすればなんだっていい、と思っていたし
いまだに世間はそんな風にできています。
だから延命治療とかあるんですよね。
問題になってきていますが。

死んだ方がマシなことがある、というのは
私になぜか安堵感をくれました。

ああそうか、
この世で死が一番辛いものだと思ってきたのに
そうではないんだ、と・・・。

もちろん周りは悲しいです。
でも
本人にとっては・・・。


亡くなる人が一番辛いのは、
例えば幼い子供を残して、と
そういう場合だそうです。

気持ちはわかりますよね・・・
自分が死にゆく怖さもですが、
残していく者への未練と言うより無念というか・・・。

年をとれば子どもも大きくなりますし
親も看取れば
自分が逝く怖さは半減するのかもしれません。


人は死について考えるのを忌み嫌います。
まるで考えたが最後、死んでしまうかのように。
その風潮が薄れ、近年は
先に遺影を撮影したりお墓を用意する人・遺書を書く人も増えているそうですが、
それもごくごく一部だそうです。

考えたからって死にませんよ。
考えたからって宝くじが当たらないように。

哲学とは結局
死について考える学問です。

そこから全ての学問が派生しています。
死にたくないから、の医療。
死にたくないから、の物理。

その他政治も経済も戦争も何もかもが結局
いかに死から目を逸らすか、や
死から遠ざかるか、が根底にあります。

人は死にたくない。
けれど結局死ぬ。

それも明日かも知れない。

言葉ではそうわかっていても、
病気をするまでその事実を見ないように生きています。

もちろん
思考を始めて日の浅い私にはまだ何も語れませんが

やはり

いつか必ず死ぬのだから
好きに生きよう

ということに尽きます。

これを、言葉だけでなく本当の意味で心の底から
取り組むと
無いはずの人生の意味が見えてきます。



いかがでしたでしょうか。


週明け早々こんな話題のロゴスの小径。
更新の励みにしております。応援クリック、よろしくお願いいたしますm(__)m


人気ブログランキングへ