ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

死生観が抜けおちた世代

ロゴスの小径へようこそ。

年末年始で思考時間がぐっと増え、
読書もですが
東大と京大のocw(京大はお試しyoutube)に参加
哲学や宗教学を学び始めました。

日本では1960年代あたりから唯物論化が進み、
「死」みたいなものは無い、かのように扱われてきました。
それまでは、家でお葬式をしたり、が当たり前で
病気や戦争や貧困で死と隣り合わせの世界だったこともあり
人は「死を飼い慣らしていた」そうです。
明日死ぬかもしれない、という事実。

しかし60年代あたりから
それを隠すようになり、死生観についても教育されなくなりました。
学校で、「死とはなにか」を教えてはくれません。


近年ようやく死とは何か、とか
死生観について大学などで教育する機会が増えました。
(小学生から教育も始まっているそうですが、
それを教える世代が、死生観を習わなかった世代にビンゴですから
難しいようです。「いのちのノート」というのも実践されていなかったりするそうです)


つまり、いまの若者は死について、を考えたり
教育をうける場をもっているのです。

病院で延命治療し、最後まであきらめず生きさせる、
また本人も生きたい

という思想から

もっと死を自然に受け入れる、という思想に徐々にシフトしてきているのは
日々のニュースなどからでも読み取れますよね。

ところで私は、この「死についての教育」は
長年成されず、近年やっと始まった、と認識していました。

けれど昔は自然と死が隣り合わせだったことや、
当然のように皆仏教系の宗教を信じたりして
ご先祖様に拝んだりしていたわけで。

つまり、
まるで自分だけは死なないかのように
自分の死について考えないのは
60年代から近年、スピリチュアルが流行りだしたあたりまでの
狭い年代だったということになります。

そうです、おそらくはあなたも。私もその世代です。

死ぬことは怖くない

という人が友人にとても多いです。
もちろん私もそうなのですが

実は怖くない訳がない。よほどすばらしい宗教に帰依して
死後の幸福を確信しているか
死に慣れてしまっている環境にいるか
なにか深い思想があり、達観したかでない限り。

しかし正直、
死が怖くないとさらりと言ってのける彼らが
自分を含め、その域に達しているとは思えないのです。

それは
死について考えていない、
自分は死なない、と思っているから

恐怖感が麻痺しているから
そういう教育を受ける機会がなかったから

ということにごく最近気づきました。

人は死が怖い。
だから襲われることを恐れ、
金銭がなくなることを(=食べれなくなる=死)を恐れるわけです。
病気が怖いのも死に繋がるからです。
死ぬのが怖いから怖くて自殺する人もいる、というくらい怖いのです。
天変地異が怖いのも、死に繋がるからです。

という事実を知りながら

いまだ私は自分が死ぬことに恐怖と言うより
安堵に近いものを感じてしまう。

でもこれは欺瞞です。
怒りを忘れてしまったように
死を考える機会を失ってしまった私たち世代の
欺瞞。

かなりショックでした。
その世代以前の人も、いま大学で学ぶ若者も
皆死について学んでいると言うのに
団塊の世代」とか言いますが
「死生観の無い世代」という世代に自分がいるだけなんだという事実。
そういう事実さえ知らずに生きていたという事実も。

死に向き合う土壌がない時代に

しかしそれでも人は当然知っています。
自分が死ぬことや、死後の世界について考えてしまうことを。

そこで流行ったのがスピリチュアル、
つまり昔はイタコと呼ばれる様な人が見せていた死後の世界を
現代では江原さんなんかがやっている、ということです。

自分が死の間際になって
やはり天国はあるとか信じたくなるのか
すべては無であり、なんの意味もない
喜びもなければ恐怖もない、と思えるのか

それは死の瞬間までに自分の思想をどう育てたかにも
関わってきますね。
何を信じて何を自分の核にしてこれたのか。


今のままでは私たち世代は間違いなく
「死にたくない」
「がんばればもっと生きられる」
「延命し努力することが正しいことだ」
という価値観のまま死を迎えます。
それはどんなに苦しいことか。

それに、医療側の体制もです。

病人の心のケアまではできない、

などと言っていられるのはいままでの世代。

今の医師は、死に向かうひとにどう接するのかの
レクチャーを学んでいます。
長生きさせるだけが医療ではなく

最後はホスピスのような心のケアをしてくれる場で
痛みを緩和し、死を迎え入れる機会を作る

という方向に進んでいます。

最後までがんばる、延命させる、
医者の仕事はあくまでも実質的な医療

などと考えてしまうのは
私たちがその世代だからです。
悲しい世代だったんですね・・・。


で、私はといえば
先ほども書きましたが

そんなことさえ知らずにいた自分、ということに
驚かされます。

そして
いろんな人がいろんなところで
公共でも、個人的にでも話したり書いたりする

自分が教え込まれただけの常識
であるだけの「自分の意見」

を目にしたり聞くたびに


うわあ・・・

と思えてしまう。
ちょっと調べればそれが過ちであることは、すぐにわかるのに・・・

でも
もちろん指摘はしません。
自分だっていまだにそういうこともあり、
以前はもっとひどかったはずで
それを指摘しないで
生暖かい目でw見てスルーしてくれた人が
大勢いるでしょうから・・・
(と友人に言われて気づいたのですがw)


というか、指摘しても通じないし面倒だし
そこまでしてやる義理もないので
スルーされた、が正しいのかもしれません。

へたに指摘してうるさい危ない理屈っぽい変な人、で終わるのも
目に見えていますし。

と思うと、
私の人生で、なぜか急に接点がなくなってしまった友人、
なんかは
私の馬鹿さ加減に愛想をつかして離れて行ったんだろうな・・・と
思えてしまう昨今ですが。


私きっと
これからどんどん嫌な奴になっていくんでしょうね・・・
えらそーになに語ってんだよ、的な。で友達もだんだん減るw

でも逆に
それでも真実を知りたいと思えてしまう

幸せよりも真実を知ることを求めてしまう人には
私の言葉はおもしろがってもらえるかもしれない、と
期待してw

ちなみに
もちろん私が真実を知っている、とかそんなじゃないですよ。
ただリアルタイムで学んでいるので、その情報をシェアしているだけで、
私が語ることはほぼ勉強のフィードバックであるというだけです。

もっともっと学んで、
そしてそこから自分なりの哲学を確立していくつもりです。
それはお金になるわけでもないし
誰かのためにもならないけれど、

私が死ぬとき

おもしろい人生だったな!さあもう一度!と
(なんの引用かわかります?!w)

言えるような人生にするための道です。


ところでもう少しでお休みも終わりですが
もちろん休みが終わるのは寂しいですけれど
以前のようにああーー仕事いやだ!とか休みもっと!!とか
思わなくなっていることに驚きました。

今の仕事が楽しいから、というのでもなく

なんといか、
そういうことはどうでもいいことというか・・・。

羨ましいと思っていた
FBなんかにアップされる旅行や食べ物や飲み会の写真も
なんというかどーーーーーーでもいい!w
単純に情報としてありがたい場合以外はw

言ってしまえば初詣もいっていません。明日いかねばですが
多分いかなくても問題ないです。

毎年お正月に買っていた桜も
今年は買いませんでした。
癒される反面、昔から切り花が苦手でした。
キレイゴトかもですが、
命を切り取って飾ると言う感覚が。

食べる、なら当然アリですけれど。

きっと自分を本当に癒すものは
切り花や食べ物や旅行とかそういうものじゃないと
知ってしまったからでしょうか・・・
(もしくは自然の中にひたるように生きる、ならステキ)

だんだん世捨て人みたいになってくなきっとw

ああこれきっと、だんだん身軽になっていく、ということと
同じ気がします。

そしてそれに比例するように
日々が恐ろしく充実しているのです。最近。
無駄に過ごしたと後悔するような時間が皆無です。

もちろん虚しさの裏返しですが。



いかがでしたでしょうか。

こんな私をおもしろがってくれたらすごくすごくうれしい。
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