ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

それは本当にしたいこと?

ロゴスの小径へようこそ。

前にも書いたエピソードなのですが、
去年で一番腹が立って
今でも思い出すたびに腹が立つ出来事を
吐き出させていただきますw

怒るだけでなく、それについて思考してみました。
というのも、似たような事例を中島義道氏が書かれていたからです。



私は理不尽に時間を拘束されるのが大嫌いです。

とある時間制限のあるケーキ屋さんで、
その日誕生日の人がいると
ハッピーバースデーを皆で歌いましょう、という
儀式?があって

それが嫌いでなりませんでした。

店員が歌って、頼まれもしないのに
一緒に拍手をしたりすると、
なんかこういうのもちょっといいよね、と思えますが

わざわざアナウンスをして
時間制限の枠から数分を奪い、
歌ってください、と言われるわけです。

私は歌いません。
無視して食べてますw

だってバカみたいだし。
歌ってもらっている本人もうれしそうでは
まったくないです。中年女性の多い店なので。

で、まあこれはいいとして

ここで一緒に歌うのが大人、だとか
優しい、だとか
常識、だとか

そんな風に考える欺瞞が
たまらなく嫌いです。

その日同席した友人は優しい人なので
心からその他人を祝いたくて歌い
歌うのが嫌だと言う私に怪訝な目を向けたのでしょう。
であれば いいのです。
歌うのが悪いのではない。

でも、本当にその他人を心から祝いたくてうたったのか????
顔も見えない席から????
本当に???

ソクラテスが言うのは
吟味しない人生など意味はないということ。

ここで本当に心から祝いたい、歌いたいと
吟味したならそうすればいいだけで
悪いことではないのです。

私も吟味し、そして無意味に思えたので
歌わなかった。

しかし
何も考えず

歌ってください
というアナウンスで

薄ら笑いを浮かべて
周りが歌うようにやや小さめの声でなんとなくうたって
拍手をして

それが貴重な人生の数分を奪う。

歌わせる店も店ですが

何も考えずに歌う方も歌う方です。

皆がやっているから

と薄ら笑いする大勢の人たちを見ると
気分が悪かったです。

キレイごとを言えば、
歌われた本人も、そんな風になんとなく歌われるくらいなら
歌ってほしい、なんて思わなかったはずです。
むしろ失礼です。

でも、歌わない私の方が悪いんでしょうね。

友人の発言はあきらかに
そういうものでしたから。

歌うのが「常識」なんでしょう。


いつも言いますが
仕事とか
生きていくうえでの労働は
吟味の間もなく、するしかないことが多いです。

自分が本当にしたいか吟味してみて、
掃除は嫌だからやらない、会社はいかない、子どもの面倒はみない、
ってわけにいきませんよねw

でも、少なくとも労働ではない部分では
吟味できるはず。

吟味しないで生きる、

つまり
自分が本当にしたいことなのかを考えず

奴隷のように歌えと言われたからただ歌うなら
それは人間として自立していません。

でもきっと、こんな風に考える自分よりも
にこにこと他人のために歌う人の方が
「いい人」とされるんでしょうね。

いいんです、私はならず者を目指していますからw


何かの奴隷になるのはやめませんか。
それだけで人生のストレスが激減します。
ただでさえストレスフルな出来事が多いのに

報酬も得れない場面で
自分を殺して薄ら笑いを浮かべるのは
私はやめました。

あ、ちなみに歌った方が利益になるから、とか
そういう吟味があればいいんですよ?
歌うのがいけないのではなく、
自分で選んだ行為なのかどうか、がポイントです。
そもそも歌う、というのは単なる例です。
(わかってくださっているとは思いますが)

この無駄を明日からやめてみよう、と
考えてみると
ちょっとだけ明日が楽しみになってきませんか?
私だけ?w


いかがでしたでしょうか。

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