ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

「日常」について考える。

ロゴスの小径へようこそ。

木曜は雪が降るとのことで
間に合うように雪用のブーツを発注したのですが
やはり振らないみたい・・・シュン・・

あちこちで雪の被害が出ていて
もちろんお気の毒だし
これ以上の被害が出て欲しくな・・・・

いや、そう書いて
そんなこと考えてないな自分、と思います。

もちろんそどちらかと問われれば被害は出ない方がいいに
決まっていますが

やはりワクワク感を抑えきれません。

東京では雪は、ハレノヒ。
特別な、非日常ですから。



ところで、去年の夏に
一か月の予定で復帰したデザインの仕事。

それが今も続いており、
すっかり日常になってきました。

平日はほぼ毎日、同じことの繰り返し。
スタンプのよう、とはよく言ったものでw
こうして生きるのってなんの意味があるんだろうと
最近よく考えるのですが


デザインは私にとってはもう
スキルアップするような仕事でもなく
かける情熱もないので延長上に目指すものもなく

船底で蟹を加工するのとなんら変わりありません。

その他の時間はほぼ
犬の介護と勉強、ゲーム、そしてこのブログw

で終わりです。

呑みに行くのは皆無、食事にも行きません。
仕事が終われば即帰らないと、犬たちが待っていますので。

つまらなそうです。


ところが
何度考えてみても
この日常をそう悪いと思っていない自分に気づきました。


自分の目的が変わったからだと思います。

以前はデザインやイラストの仕事で成功したかった。
(成功が何か、はおいといて)

その後は、絵で。
デザインは、絵を描いて暮らしたかった自分の
自己欺瞞でしかない、とずっと思ってきたので。

ところが
哲学に出会ってから

私の生活の全ては、
哲学をするためのツール、に変わってしまったような感じ。

つまり
スタンプのような静かな日々も
哲学的思考には最高だし

稼ぐのは哲学を好きに勉強したいから、と
はっきりしている。

そして何より、描くことの意味。

この変化が恐ろしいほど違います。

うまく言えないのですが

多分売れなくても
褒められなくても
それでも描くもの、というか

それでいて今までにないほどの確信があるような・・・。

描きたいものが
どんどん浮かんでしまうのです。
多分思考の数だけ。

おそらくこれからの余生を私は
哲学し
制作して

生きていくんでしょう。

年だからかな、と考えてみますが

いえ、若い頃でも哲学に出会ってしまっていたら
多分こんなように若いうちからなっていた、という
だけの話だったように思います。

哲学者たちはたいてい
そういう時間を持てるお金持ちだったりしたわけでw
仕事をする間もなくwひきこもってひたすら思考したのですから。

スナフキンのを目指して始めた哲学の旅。

先はまだまだですが
本当に私は揺れなくなった。

この揺れない日常、というのを
実はずっと目指していたのかもしれない。


空洞は今はありません。
大学を卒業したらもしかしたらまたぽっかり空くかもしれませんがw


先日、人は寂しいと生きていけない、というフロムの説をご紹介しましたが

人は退屈だと生きていけない、ではないかな、と
ふと思いました。

寂しくても退屈でない何かがあれば
寂しさを感じないですよね。

寂しくなくても退屈な時はあります。
そちらの方が耐え難いw

寂しさを埋める方法はなかなか難しいですが
(人といれば寂しくない、ということでもないので)

退屈しない方法、であれば
探すことはできますもんね。


日常を退屈しないで過ごせるなら

空洞は埋まりますね。飽きるまでかもですがw

とはいえ根源的な虚しさはもちろんあって
そういう意味での空洞は埋まりっこないのですが。


あ、そういえば
変化はなくても穏やかで平凡な日々こそ幸せ、とかいうような
例のアレとは違いますw
それは退屈しそうですしね。


あなたは、退屈せずに、生きていますか?



いかがでしたでしょうか。
更新の励みにしております。よかったら応援クリック、よろしくお願いいたしますm(__)m

人気ブログランキングへ