ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

「神の目」で過去を責めない。

ロゴスの小径へようこそ。

今日は仕事を休みました。
朝、犬の容態がよくなかったので。

とても迷いました、というのも
今日休んだからといって、明日休まずに済むとは限らないわけで
とはいえ、仕事は山積みで本当に休めない状態、

後日なんとしても穴埋めを!と思うけれど、
いつ介護が終わるかはわからないわけで、それも言えないわけです。。。

先代犬が亡くなったとき、私は会社を休みませんでした。
その後悔は本当に酷いもので、いまだに後悔しているのですが

それは、あとになって考えるから
「あの日一日くらい休めたのに」と思ってしまっているわけで

当たり前ですが、当時の自分は、その日がその一日なのかどうか
判断はできなかったんですよね。。。

私たちは、あの時、ああしていれば・・・といつも後悔してしまいますが、
その時は知り得なかったことや
その時はベストだと思って選択したことを

今の目で過去を眺めて判断する・・・
いわゆる
「神の目」、つまり未来を知っているかのようなまなざして
断罪してしまいがちです。

けれどそれはどうしようもなかったことなんですよね・・・。

だから人生の選択は全て「正解」なんだと言われるのです。
だって、選ばなかった方はもう選べないし、
失敗の選択は後の失敗を防ぐ可能性もあるし、
わからない未来のなか、その時の自分がベストを選んだのだから

というか結局
私たちは正解の方しか選べないんですよね。
他方は選べないので知り得ないんですから。

でありつつも
私たちは神の目でもって、過去の選択を断罪し続ける。
あれは失敗だったんだと・・・。

結局、何を選んでも私たちは後悔するのだそうです。

もし、すごくラッキーなことがあって、
すごくいい選択をした!と思えても

もっといい選択があったのではないか?
もっと早く選べたのではないか?

とか

一度はいい選択だと思ったけれど、
やはり後になってみるとビミョーだったなあ・・・とか。


過去を責めてしまうこの心理を
「過去への逆襲」と言いますが

それに陥らないためにできることは
二つだと思います。

ひとつは、どんな選択も「神様の」選択で
自分が選んだわけではないので全て正しい、と思うもの。

本気で宗教に帰依している人であれば・・・
いえそれでも難しいというのは
著名な宗教家の著書を読めばわかりますが。

もう一つは

「納得する選択」を模索する、いえ
選択を納得する、ではないでしょうか。

その選択が「正解」なのかどうかは
知り得ないのですから

納得するしかない。

今の自分が選んだ選択を。


今の自分が納得する選択をする。
選択とは、生きることそのものですから

よい人生だとか正しいとか正解だとか
そんなのは死んだ後に誰かが勝手に呼ぶもの。

自分が納得する人生。
それもまた難しいのかもしれませんが、
目指すのであればそれではないでしょうか。

ところで、「自分が」納得がキモです。
他人の納得では意味がありません。



仕事を休んで覚悟をしましたが、
犬は穏やかに寝ています。

もしかしたら明日は仕事にいっている間に
逝ってしまうかもしれません。

けれど、昼間は穏やかなんだということが確認できましたし
(思えば休日は病院が午前中までなので、昼に無理やり起こして
病院へいっていたのです。だから休日は昼間でも熟睡していなかったようです)

これも「納得」です。

先代犬のとき死を看取れなかった後悔から
引き取った犬でもありました。
その贖罪のために。

でもあの時と違うのは

この「納得」です。

神の目は、持ちえないのですから。



いかがでしたでしょうか。
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