ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

「自己満足」とは

ロゴスの小径へようこそ。

今日は大学のレポートをまとめました。
たいして興味のなかったはずのテーマも
課題という形ですと、学ばざるを得なく

学んでみるとそこで一気に視界が広がります。
好きなことだけを学んでいたらこうはなりません。

やはり哲学も、独学だけでは見解が広がるには限界がありますね。
(本当の頭のいい人であれば独学でももちろん可能ですが)


天気のいい休日。
あちこちにお出かけの友達たちの報告を見ては
介護でどこにもいけない私はうらやましくもある半面

しかし

勉強をして得た知識や思考を思う時

自分をより満足させるのは後者だなあとつくづく思いました。


もちろんいまさら勉強なんかしてどうなるの?
旅行行った方が、友達と遊んだ方が楽しいよ、という意見が大半であり
私も数年前まではそう思っていました。


けれど今は人になんと言われようとも
自分が満足するのは、自分の知識が増えることです。

うん、自己満足でいいんです。


・・・とここまでは普通のブログw


哲学ブログはここからがテーマです。


自己満足でいい、と思ったときにふと考える。

そもそも「自己満足」ってなんだ?と。


言葉の正しい意味を広辞苑で調べると、
案の定

自分自身または自分の行為に、みずから満足すること。

であり

私たちが一般的に考える

「あの人ジコマンだよね〜」みたいな
皮肉を含んだ意味とは違うようです。

(まあ、類義語ではあるようですが)


では、
自分自身や行為に満足する、ってなんでしょうね?


他人の目なんか気にせず
自分のしたことや自分に満足すること
それが幸せ

な〜〜〜〜んて
最近よく言われてますが
笑っちゃいますね。


耳触りのよい、
なんかそれらしく納得できるようであって

実はつきつめて考えると
わけのわからない言葉ってたいてい
定義があいまいです。


この場合
「自分」の定義がなされていません。


そもそも自分を意識するには
他者が必要です。


もしこの世に存在するのが自分だけだったら
自分は自分だと認識できません。

他者がいて比較することで初めて
自分との違いを知り、自分の存在を知るわけです。

人間は社会的な生き物であり
他者との関わりがないと生きていけませんから

他者の目にどう映るかという意識は常にあり

自分が満足するには
「他者の目からみた自分」に満足する必要があるわけです。

他者から見た自分、とは言っても
他者の心は知りえないので(言葉では何と言われても)
やはり自分で考えたものになってしまうので

結局、自分のなかにある「それ」は
自分自身、ではなく
他者の立場に立ってみた「自分」の姿になります。

ここ、わかりにくいんですよねえ・・
自分のなかの他者、という考え。

自分は自分なのですが、
自分はどういう人間か、と考えてみるとき
自分であって自分ではない、他者の目になっているということです。

ちなみに今日やっと私はここのあたりが理解できたようなのですが。


しかし
他者からみた自分、というのが実は自分を構成している以上

自分とは本来 空虚なものです。
「自分自身」なんかないとも言えます。
(お腹が空いたので食べたら満足した、というのは直接自分自身なのですが)

だから心には常に空洞があるわけです。


自分を自分で触ってみると、
触られる自分、と触る自分、が同時に感じられますよね。

どちらが自分なのか、と考えると
とても不思議な感覚に襲われます。
哲学ではよく例に出されるのですが。



さて今日は
自分自身を満足させてあげられたでしょうか。



いかがでしたでしょうか。
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