ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

後悔を背負って生きるということ

ロゴスの小径へようこそ。

愛犬を失い、動転する私に
友達は

こんなときこそ、哲学的思考が試されるとき

だと言ってくれました。


失った愛犬は
保護犬でしたが、私が引き取らなければ、
他の人が引き取った可能性のある子で
「もし」そうなっていたら、もっと長生きできたかも・・・と
言う私に

哲学的に考えれば、
「もし」は、ない。
考えてもしかたない

というのです。

本当にその通りです。

しかし、同時に

「犬は、死に目には会えなくてもあなたの愛をわかっていた」とか
「私が、もう一匹の犬の介護に追われているので楽にしようと自ら選んだ」とか
「今でもそばにいる」とか

そういう言葉の全ても否定することになります。


犬を亡くした友達には、私はそんな言葉を贈ります。
けれど

自分自身はどんなに自分をごまかそうとしても

わかっている。


この後悔は
罪は

一生消えない。

自分をごまかせない限り消せない、と。


けれど私は自分をごまかせないのです。

犬が私を楽にしようと自殺した、とは到底思えず
また、むしろそうあって欲しくない。そうであったらよけいに辛いです。


この後悔を
罪を

背負って生きるしかありません。

いい
悪い

ではないんですよね。そうせざるを得ない。


失恋した人に、
早く彼を忘れて、なんて言っても

本人もそれはわかっていたって
すぐにできることではないですよね。

それと同じです。


しかし私は気づくのです。


私にとってこの出来事は
「罰」ではなくなっていることに。



つまり、中途半端なスピを信じていたころだったら

犬は私を理解して自殺した

ということを信じたかわりに

こうなったのはなんらかの罰だ

と思っていたに違いないということです。



こんな不幸が自分に起きるのは

初詣を怠ったからだ
神様に感謝しなかったからだ
汚い言葉を吐いたからだ
誰かを憎んだからだ
嫉妬したからだ

とかね。



自分のせいにしたはずです。
しかも神にすがる以外救いようのない。

先日も書いたように、
そうすることで神を信じるしかない、という
宗教が生き残るための手段としての教義なんですけどね。


いまも、自分の罪を背負っています。
それは

介護の犬で手いっぱいで
もう一匹の犬のケアが足りなかった

という罪。

それは背負っています。
それはなかったことにできません。


私が殺したも同然、といえば

そんなこと言ったら犬が悲しむ

と友人は言うのですが


悲しみません。
もう彼女はこの世にいないので。
そしてそこまで複雑な人間の言葉を
犬は理解できないので。


感情は、ある種の匂いを伴うそうで、
犬はそれをかぎわけるといわれています。
それは科学的にあり得ますので理解できます。



私は自分を
甘い言葉でごまかせないので

あとの人生背負って生きます。
犬たちに謝りながら
後悔しながら生きます。


辛いです。
哲学で人は幸せにはなれない、とは
こういうことです。

でも他を選べないのだから
覚悟するしかありません。


こういう思考で
救われる人がいるかもしれない・・・
ごく少数派でしょうけれどw


そういう誰かに届けば、いいな・・・





いかがでしたでしょうか。

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