ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

奴隷か自由か。

ロゴスの小径へようこそ。


あなたは何かの「奴隷」になっていませんか。

そもそも奴隷の定義とは
自分で考えももたずに、言われたままに命令を聞くことです。
神の思し召しの通り、自分で考えもせずに
教義のままに生きたりすること・・・
そもそも、それを「奴隷」と呼びます。

とはいえ

神は実はそんな教義を決めていません。
決めたのは人間です。当たり前ですが。

人間はなぜ人間の決めた意味のないルールを
まもっているのか?と神は不思議がっているという
話もあるくらいですw

神、とは人間とは意思疎通もできないような
至高の存在だそうです。

いちいち人間に、●●をしてはいけない、

とか言ったりしないわけです。



・・・
話を戻しますと
自分で考えもせずに、誰かの、何かのいいなりになることを
奴隷と言います。


先日、義母のむちゃぶりを無視することを決めて
長年かぶってきた「よい嫁」の仮面をぶち壊したw
私ですが

友人たちに話すと、

それがいいよ!そうすべきだよ!

と言ってくれるのと裏腹に

彼女たちはそれをしないのが不思議です。


年に数回しか会わないし
孫にあわせてあげたいし・・・

などなど

いろいろ言い分はあるようですが

とはいえ
積極的に関わりたくないのが本音、というのは
複数の友達たちから聞く話です。


私もつい先日までは
面倒だけどしかたないよね〜と思ってきました。が

それは私がいままで義母との接点がほとんどなく
プレゼントを贈りあったり
ケーキを焼いてもらったりという
「いい場面」でしか接点をもってこなかったからでした。

そうではない状況というのは
人生にはかならず出会う場面であり

そこに至って私は
したくないことはしません、と宣言したわけです。

(とはいえツレが自分の親になにかをしてあげるのを
止めることはもちろんしません)


考えたら、なぜそこまでして
したくもないことをしなくてはいけないのでしょう?


これを突き詰めて考えてみました。

別に姑の話ではなくても、


したくないことをなぜかしなくてはいけない、という場面であれば
同じだと思いますので

一緒に思考してみてくださいね。


あ、ちなみに「姑の奴隷」なんて短絡的な話ではないですよww




さて
これを仕事に置き換えて考えてみれば

そりゃあしたくもないことをしないといけないこともあります。
けれどその対価はもらえるわけで。


でも、お金ももらえないのに
なぜ気を使わなくてはいけないのか?


昔は
お嫁に行った先の家に、お姑さんはいるわけで
機嫌をそこねたら家を追い出されるので必死だったわけで

今と違って、「出戻り」であることは
非常に不名誉なことだったようですし

実家に帰っても兄嫁がいたりして
自分の居場所がなかったりしてね。


そんなことの名残でしょうか。
一緒に暮らしもしない、金銭的な支援を受けているわけでもない姑に
過度な気をつかうのが当たり前、とされているのは。


ところで
それをやめたらどういう弊害がでるのでしょうか?

結局、よくない嫁だと言われるのが怖い。
こんな嫁とは離縁しろ、とか息子に言うかもしれないし。


つまり突き詰めてみると
離婚が怖いわけですね。


なぜ離婚が怖いのか。

「亭主元気で留守がいい」

状態にも関わらず?w



それは

生活ができなくなるからですよねえ。

家を追い出されたら
行くところもありません。



つまりあなたは
自立できないから
魂を売って奴隷となっているんですねえ・・・。


子供がいるから?
実家に帰れないから??


私の友人で、その条件で
1歳と3歳の子供を抱えて離婚した人がいます。
しかし実家には、折り合いの悪い実のお父さんが
亡くなるまで10年以上も戻らずに
一人で子育てをしてました。

そう、世間にはそんな条件でも
自力で生きている人はたくさんいます。


それが いい のか 悪い のかは別として


できる人はできている。


奴隷 の 反対は 自由 です。

その友人は自由を選んだわけです。

しかし
自由、というと聞こえはいいですが
リスクが伴います。

奴隷でいれば自由はなくても
食事は与えられます。働かせるのに必要最低限な。


けれど
自由になるなら

その代償に

仕事を見つけるなり
お金持ちの実家の帰るなり

子供を自分だけで育てるなり
次の男をみつけるなり

とにかくそのリスクを背負い
それらを乗り越えて生きていくしかありません。


それができる勇気がないとか
面倒でできないとかで

チャレンジもせずに奴隷になっているんですねえ・・・
もっとも近年では、定年離婚、なんてありますから
機会を待っている人もいるのかもしれませんw



ともあれ
糸をたぐっていくように
思考をつきつめると、結局自立できないために
奴隷でいることに甘んじているようです。

もちろん、同じ状況でもそれが幸せである人もいるので
そういう場合は奴隷状態ではないです。



ちなみに実際
離婚するのかしないのかはまたちょっと別の話です。


例えばひどいパワハラやセクハラにあいながらも

その仕事を絶対に辞められない、というのと

実はいつでも辞めることができるけれど、
もう少し我慢してみよっかな、というのでは

心の状態は全く違いますよね。


実家がお金持ちだとか
スキルをもっているとか
美人であるとか
若いとか

そういうのがある人とない人でも
違いますよね。



「不公平」ですか?


ええ、もちろんですとも!


けれど、
そんなの不公平だ、と言ってみたところで
何も解消しませんがw


なので、奴隷状態になってしまうかどうかは
誰しも均一ではなく、その人の条件にもよるわけです。


こんなふうに考えると
たいていのことが、ここに行きつきます。


自力で生きる


という当たり前の、
そして実践している人がたくさんいるそのことが


できるかどうか

というだけ。


それができないなら
奴隷になるしかないわけです。


繰り返しますが

自分で判断をしない、言われたままに行動するのを
奴隷 といいます。


(つまり判断し、自分でその道を喜んで選んでいる人は
奴隷ではありません)


自分を奴隷にしない方法は
自分が決めるしかないんですね。
自分がどう生きてきたか、で決まるわけです。


いまさらもう遅い、ですか?
それは残念ですねえ

奴隷でいたくないために
仕事を続けたり
自分の容姿や教養に気を使ったりしてきた人との
差はもう埋まらないかもしれませんねえ・・でも

その分楽に生きてきたのですから
奴隷の楽さを享受するのもまた一興かもしれません。

もしくは
人生はやり直しがきかないので
今からできることを模索するしかありませんね。


なんだか主婦目線の例になってしまいましたが

男性でも同じです。

同じ会社に同じ立場で仕事をしてお給料も同じでも
奴隷でいるのか自由で選んでそこに立っているのか。

成功哲学の本を見るとたいてい書いてあることですが

お金をいくら稼いでも貯めても、
人は不安をぬぐえないそうです。

それよりも、
いつでも稼げる(自立できる)自分を育てておく

というのが大事なんだと。


リスクを伴う「自由」か
最低限の餌を与えられる「奴隷」か

選ぶのは自分自身ですね。

(誤解がありそうなのでしつこく繰り返しますが、
まったく同じ状況であっても、自分で選んでそこにいるのかどうかがポイントなので
この状況=奴隷 この状況=自由 という定義はありません)




自分の意に反することをしなくてはいけないとき
その理由がなんなのかを掘り下げて考えてみると

原因がはっきりしてきます。

たいていがこの奴隷か自由か、に関わってくると思うので
ぜひ試してみてください。



いかがでしたでしょうか。

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