ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

本当の「絶望」とは。

ロゴスの小径へようこそ。

あなたは自分に絶望したことがありますか?
「そんなのあるわけない、自分、大好き★」ですか?

絶望、とまではいかなくても
自分にがっかりすることはあるのではないでしょうか。

ない、と言い張り自己欺瞞を貫いてもいいのですがw
それこそまさに「絶望」の始まりなんですけどね・・・。


ハイデガーは言います。

人は死に至る病にかかっていると。


それは

自己が自己である責任を放棄してしまう

という「本当の絶望」。


自己が自己である責任を放棄するとは
どういうことでしょうか。


私が哲学と出会って感じることは
いつも書きますが


「自分を生きる」ということ。
それ以外に生きる意味なんかないんだということ。

難しいですけれどね。

でも、自己が自己である責任を放棄しない、とは
そういうことなのではないか、と
うっすら感じています。


さて人間の生き方には二種類があるそうです。

ひとつは

感性的な生き方。


これは、日々の表層的な快楽を求めて生きる生き方。

毎日が楽しく、気分が気持ちよければそれでいい。
他者との深いつながりは求めず
先のことは考えない。

(私、これだったなあ・・・)


しかしこれは絶望へとつながる生き方です。

なぜなら

こういう、自分の「外側」にあるものに
没頭する生き方は

常に外側からの刺激が必要になってくるからです。

自分を飾るブランド物を欲しがったり
富や名誉や
階級や世間体や

そういうものこそが自分の価値を決めるものとなり

結局は自分自身をコントロールできなくなり
心の不安定を招きます。

流行のものに自己判断なく流されたり。
自分自身にとっての人生や、自分の価値を
自分で決めることができないのです。

好きな服を着ているつもりで、
単に流行りの服を着ているだけ。

人にどんな目で見られようと自分の着たい服を着る、
ということはありません。

サッカーが流行ればサッカー、
パンケーキが流行ればパンケーキ、
スピリチュアルが流行ればスピリチュアル。


そんなふうに
自分がどう生きるかを自分で決められないことこそ

本当の絶望と言うそうです。

だって自分を生きられないまま一生を終えるんですよ?

たった一度きりの生なのに
誰かが決めた誰かの意思に流されるように生きるなんて。



しかし
人はそれにうっすら気付いているそうです。

けれど
そこに気付かないふりをして
さらに外側からの刺激に埋没することで
生きていくことができるので

どんどん自己を見失っていくそうです。


これこそ、自己が自己である責任を放棄した状態です。

自分が自分自身を選ばない状態。

これこそが絶望であり、

死に至る病です。



なんだか現代日本、大丈夫か?と言われる理由が
わかるような気がしますね・・・。




ちなみにもう一つの生き方は
倫理的な生き方、まあこのあたりは
キリスト教にかかわってくるのですが
それはハイデガーの場合。
宗教がすたれた今では

自分で自分を選びながら生きる、ということ
になるそうです。


当たり前で簡単なようで

とても難しい生き方です。

自分で自分の責任をもって自分であるべく
生きていくということです。


自分で、自分にとって何が正しいのかを
選びとりながら生きていく、ということです。


それができないまま
自分を見失って絶望の状態で、
しかしそれに気付かないふりをしたまま生きると

結局価値を自分の外に求めることになります。

いまの自分は本当の自分じゃない、
夢をかなえた自分が本当の自分

とか思いつつ一生を終えたり

歌手の追っかけをしてみたり
ブランドで身を固め見栄を張って生きてみたり。

それこそ
自分が自分であることの責任を放棄した絶望した状態です。


昨日も書きましたが結局

こうありたい自分、に向かって
今の自分、を内包しつつ
実際に向かっていくしかありません。




とか書いてみましたが

実際いまの私では
まだまだ人目を気にして生きています。
つまり絶望を生きています。


それに
結局人は死んでしまうので

好きに生きればいい、とも思えたりしています。

歌手の追っかけで終える一生でも
いいじゃないですか。
自分の絶望に目をそむけて
流されるように終える一生であっても

人にとやかく言われる筋合いはありませんから。


まあ、実際はそれが進むと
社会が荒れていきます。


自分の責任を放棄するわけですから、

悪いのは常に社会、
悪いのは自分ではない

という構図ができあがります。


自分が幸せでないのは社会のせい。
子供時代のトラウマのせい。


だから自分は悪くない。

だから同じように人を傷つけてもいい。


これが犯罪の多い社会をつくっていくそうです。




ところで犬を失ってから
私は毎日何時間も
死んでしまった犬に似た犬の里親募集を
探してしまっています。

いま引き取ることは難しいのにも関わらず、です。
涙をぼろぼろ流しながら。


ハイデガーを再読し、
結局私も死に至る病にかかっていたことに気付きました。


それは、価値を自分の外に見いだす、という
依存 です。

犬がいるから
どこにもいけない、
あれができない、これもできない、

自分で自分の道を決めなくて済んでいたのです。


子供に依存する親、というのも結局
そういうものだそうです。

家族がいるから●●できない、なんていうのも
そうですね。


(もちろん子供がいても犬がいても
自分で自分の責任をもって生きている人もいます
ちなみに保護犬については
自分ができることを続けていくつもりです。
たまにきれいごとだとか自慢だとか言われてしまいますが
全くどうでもいいです。)


自分が自分であるために
自分の道を選び取りながら生きる。

犬のことを積極的に考えるのは
それからにするつもりです。


ちなみに先ほども言いましたが


自分自身を生きなくても
一生感性的に自分をごまかしつつ生きても
それはその人の人生なので

いいと思っています。

哲学とは、そんなふうに相対的にものごとを解決しては
いけない、と言いますが

正直
そんなふうに他人を評価するほど
他人に興味がないのが本音です。

ただし
自分は自分を生きたい。


心の空洞は
それでしか埋めることができないのです。




いかがでしたでしょうか。

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