ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

考える葦 とは

ロゴスの小径へようこそ。

人生の目的だとか幸福だとか。
仕事とか恋とか友達とか旅行とかお金とか。


そんなことを考える前に
私たちには本来 考えなくてはならないテーマがあります。


それは

私たちが「存在している」ということの意味。
生きる意味ではないし、存在している目的、という意味でもありません。


「ある」ということはどういうことかということです。


空が青い、ということや
自分がいる、ということ
考えたりすること

そういう全てを私たちは

当然「ある」ものとして認識していますよね。

しかしそれはとても漠然としたものです。


デカルトの言うように、夢かもしれない、とか
そういう話でなくても

「ある」とはどういうことか
私たちは説明できずにいるのです。


「ある」と「ない」を考えれば
「ある」 が何か簡単にわかると思いますか?

しかし「ない」という認識をするには
「ある」というのが何かを知る必要があります。

「ある」を認識して初めて「ない」という状況が理解できるのですが
そうなると既に「ない」という状態はなくなってしまいますよね。


とすると
「ある」とは何なのか。
定義できないのに、なぜ私たちはそれを漠然と
理解しているのか。


もちろんそんなこと考えなくても生きていけるので
ある時期から哲学でも
「とりあえず、ある、存在している、ということは
感覚的にも間違いはないのだから、「ある」としておこう」

と決めて

それ以上、その部分は保留にして

そのほかのことを考えてきたのです。


しかしそこは本来
人間にとって、もっとも重要な問い。


私たちは根なし草のように
どこから来てどこへ行くのかも知らずに
なぜこの世に自分が いるのかも知らずに
ただ生きています。

生まれて
食べて息をして
それができなくなったら死ぬだけ。

まるで沼辺の葦と変わりません。



けれど私たちには考える力がある。

もちろん答えは出ないのです。

存在とは何か、とか考えても
幸せにもなれないしお金も貯まりません。


しかし考えるという行為だけが
人間を人間たらしめているのです。


これが、「人間は考える葦である」ということなのですが。


思考を止めた時
人間は単なる 葦と変わらなくなりますね。

糞袋、なんて言い方もありますw

皮の中に食べたものを詰め込んで出すだけ。


けれどそうならいのは
神様が人類の目的を・・・ではなくって!!!w

思考ができるからです。


とはいえ
答えは出ないのはわかっています。

答えが出ないのに考えるなんてバカバカしい。
時間の無駄!なので

考える人はとても少ない・・・けれど


どうしても考えずにはいられない。
そういう人が哲学体質なわけです。


これから年内は
存在について思考します。


人生に何の役にも立たないことでしょう。

けれど
こうしたら幸せになれますとか

そういう、根底を見ないで
わからない部分にふたをした上から
無理に何かを盛り付けたような言葉は

結局問題解決してくれたようにみえて
すぐにまたもやもやは始まりますよねw


子供時代
宇宙についてばかり考えてしまう子がたまにいます。

私もそうでした。

宇宙の先は何があるのか。
ずっとずっと空間の広がるその向こうにはまだ空間がある。
終わりがない、ってどういうことなのかという不思議。

そんなこと考えても
答えはでないし全く意味がありません。

そんな時間で勉強したり友達と遊んだりテレビ見たりした方が
よほど有意義なのかもしれません。

けれど考えずにはいられない。というか
気付くと考えてしまっている。


そういうこと、ありませんでしたか?


その時のあなたは

考える葦

であったんです。


私もこれからまた考えてみたいと思います。
存在とは何か、という
永遠の人類の課題を



いかがでしたでしょうか。
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