ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

人間の深淵

ロゴスの小径へようこそ。

人は心に深淵を抱えています。
誰であっても。

心理学系の仕事をしている友人は、
心の深淵は覗かない方がいい、と言いました。
そこを埋める方法は無いからです。

たいていの人はその深淵を見ないように、どころか
そんなものがあるなんて気付かない「ふり」をして生きています。

いえ、その「ふり」をしていることさえ忘れて生きています。
けれど、その「忘れて」いることさえ「ふり」なんです。


このブログの副題にあるように、
心には空洞があるように思えて

楽しい事をしても
そして幸せを感じても

なぜかいつのまにかその空洞に気付いてしまう

それはなんなんだろう、
どうしたら埋まるんだろう

と歩き始めた小径ではありました。


その答えは

忘れている「ふり」をしているということに
気付かないふりをしている、ということにあります。


その深淵の意味は
いろいろ語れますが

言ってしまえば「人は死ぬ」ということです。

あなたも、私も。



私は以前、ここにも書いたと思いますが
死ぬのは怖くはない、と思っていました。

けれどそれは違う。
死ぬのが怖い人ほど、怖くない、と言って自分を欺くそうです。

自分を欺く結果、心に空洞ができるのです。


「死」についてどれだけのことを御存じですか?

身近な方の死を見て
自分にあてはめて想像してみる、というのが
もっとも普通なのではないでしょうか。


けれど

違います。


自分の死と、自分以外の誰かの死は
絶対的に違います。


自分の死は

思い起こしたり
悲しんだり
泣いたりすることも

いえ

経験することすらできないのです。


自分が死んだ、と(死後の世界や霊魂を信じる場合は別ですが)
言うことすら認識できないわけです。



人は
自分が死ぬことをもちろん知っています。

けれど

いつかは死ぬ
けれど今ではない

と誰もが思っているそうです。


死について考えたくないので

人はいろいろなものに興味を向けて
考えなくていいようにして生きています


自分が死んでも
未来の子供たちのために・・・

なんていうのも欺瞞だそうです。


人類のために・・・とかいうのも。

そう考えることで自分の死は
たった一人のものではないと

必死に考えるようにしているわけです。


しかし
人は死ぬ時は一人です。

同時に死ねないし
誰かが身代りになってくれません。
身代りになってくれても
結局いつかは死ぬしかないのですから

死は代行不可能なんです。


とはいえ

そんなふうに考えていてもらちがあきません。


だから人生を、生きている間を
せめて生き生きと生きよう、とする考え方もあるわけです。


しかし

そうして生きても結局死ぬだけです。


結局死ぬだけなのに、必死に生き生きとする意味があるのか???


いえいえ、でもだからって
死んだように生きてもどうせ死ぬ。
だったら好きに生きないと。


・・・という
ループにはまりこみます。


生まれた意味もなく
ある日死ぬだけの生き物。


けれど、それでも
幸せに生きよう
自分で未来を切り開こう

と前向きに顔をあげたとき

ふと足元をみると


そこには

深淵が広がっているのです


生きることに意味はない、
なら意味をもたせよう
もたせても意味はない・・・・


という永遠の繰り返しの問い。


これが「無」とか「空」の精神につながっているわけです。


哲学とは(本当は宗教も)
根本的にはこれです。



これが私たちの空洞、深淵です。


けれどそれがそうだとわかったところで
解決策はありません。

ないんです。


だったら考えてもしかたない。

その通りです。


けれど考えずにはいられない・・・・


そうしてまた深淵へ。




同級生が亡くなりました。
面識はないのですが
年末には飲み会で元気にされていたそうです。
事故でもなくまだ若く
原因はいまのところ不明だそうです。

人は死ぬ。
死んでしまう。


けれど
だからといって
その分自分の生を大事にしよう

とかいって済むのであればいいのですが


やはりそれでは自分を騙しきれません。


深淵を直視して生きるか

忘れた「ふり」をして生きるか


しかしどちらも結局同じ結末に至るのですが・・・。


この永遠の循環から救ってくれるのは実は宗教というか
神だけです。


けれど信じきれないでしょ???

信仰って、自分の子供でさえ神に命じられたら殺すというような
それほどのものです。それを出来る人は限られていますよね。


つまり救いはありません。
神は死んだのですから。


この深淵についてご興味のある方は
ハイデガーの「存在と時間」をおすすめします。



松の内から暗い話ですいませんw

けれど
ここを見ないふりをして生きて行くと
ますます空洞が広がるばかりです。


私はまだ「人の死」は考えられても
自分の死 は、直視できていないように思います。

残されたものとか、この世に未練、とか
そういうレベルだけのものではなくて


自分が世界から消えるということは

世界が消えるということ



ここを徹底的に考えた
私のハイデガー専門の哲学の先生は

しかし
とても明るく楽しそうです。

きっと何かを乗り越えると
あんなふうになるのかな・・・そう「見えるだけ」だとしても
そこに至る道を歩いてみたいと思えます。




いかがでしたでしょうか。
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ずっとブログを更新できずにいましたので、
いまだにこんなにお読みくださる方がまだいらっしゃるとは思ってもみませんでした。
なんだかとてもうれしいです。ありがとうございます。