ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

自分への偽善

ロゴスの小径へようこそ。

人に責任をなすりつける、ってとても卑劣ですね。
でもそれは表立って、お前のせいだ!というのとは少し違います。

であれば反論の余地もあるわけで。

そうではなく人に責任をなすりつける人がいます。
そして、その被害にあうと、とてもとても傷つけられます。


どういうことかというと


これはずっと前から考えていたことなのですが、
友人の言葉でそうだったのか!と気づいたことなのですが
(Hちゃんありがとう)


責任を人になすりつける人は
自分でも実はそれと気づかずにやっているのです。

そして人に加害者意識を植え付ける。


例えば

会社帰りの飲み会で

その場にたまたまいた気の合うメンバーで
ちょい飲んでこっか?と

いえ、学校帰りでもなんでもいいんですがw


でもそのほんの少し前、
実は一人の人とわかれたばかりだったりして。

しかもその人を、皆そんなに快く思っているわけではなく
それはうっすらわかってるんだけど

表立ってあの人嫌だよねーとか、仲間外れにしているわけでもなく。


そんなときはたいてい誰もがうっすら空気を呼んで
そのままなんとなくその一人を呼び戻したりしなかったりますが


そんな中でこう言ってしまう人

「ねえ、○○さんも誘わないの?まだその辺にいるよ?」



・・・楽しい気分もだいなしです。

その彼女が、いわゆる「天然」だったり
○○さんのことを彼女だけが好きだったりするのであれば

まあしかたない・・・と思えるのですが



そうではなく
彼女が確信犯な場合です。


彼女は「いい人」なのでしょうか?
いえ。単に自分が「他人にひどいこと」をするのが嫌なのです。

「皆仲良くすべき」という刷り込まれた常識に則り

そう言うのです。



しかし、誰も彼を呼ぼうとは言いません。
それくらいなら飲みにいかなくてもいいか、という感じだったり。

そうすると

呼び戻そうか、といった彼女以外は全員が

まるで自分が加害者のような思いを「させられる」わけです。


他人を加害者にすることで、彼女は自分だけは「いいひと」の立場を
確保するわけです。



ではここで、「いい人」のはずの彼女に
「私たちは彼とはいかない。あなたが二人でいってあげれば?」
と言ってみるとどうでしょう。


彼女はそれをしないでしょうねー。


誰かに責任を押し付けて自分の偽善を果たしたいだけですから。


他人への偽善って、まだいいと思います私は。
偽善のためであっても、寄付したりすれば
それは誰かのためになりますから。


でも自分をだますための自分への偽善は
まわりを加害者にし、

自分自身も欺いて一生生きることになるんですよね。


まあそれでもいいんですけどw

それに気づかない人には「いい人」と言われて済みますから。


しかし
たいていの人は気づいています。

それを「臭う」とニーチェは言ったのです。
彼の言う「小さい人」とはこういう人間です。



もうずいぶん前に読んだ本ですが
ニーチェを読んでからより腑に落ちた感じです。



いかがでしたでしょうか。
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