ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

人は自分を忘れたい

ロゴスの小径へようこそ。

人は時として自分を忘れたくなるそうです。

そんな時どうするかと言うと

旅行に行ったり
お酒を飲んだり
映画を観たり
漫画を読んだり
仮装をしたりw

自分というものから離れて一息つきたくなるそうです。

ちなみに、普段の仕事の疲れや日常の生活から一時逃れたい、
というのであれば
そんな程度で済みますが

(それが証拠にまた日常に戻ってきますから)

もっと根幹的な、「自分」というものを忘れたいと

我を忘れるまで泥酔したり
「クスリ」みたいなものに手を出すことに
なってしまうそうです。

ゲームの世界に没頭して戻ってこれなくなる、
というのもそうですね。

どんなに楽しそうに装っても
また自分自身をも楽しい、と騙しても

自分を忘れたいサインが出ていたら
いまの自分を変えるしかないですね。


ところで、最近よく「幸せは今そこにある自分自身だった」
的なフレーズが気になります。

日常の何気ない毎日。
この日々こそが「幸せ」なんだと。

確かにそうです。

特に、体調を崩すようになってからは
普通に体調がいいというだけでもう幸せな気持ちに
なれるようになりました。
幸せ安いです!w


でも、ですよ?

だから、頭痛のしない毎日を送っているあなたは
幸せなんだ、と言われても

どうでしょう。

同意できます???


「今の自分こそが幸せ」というのを正しい、と定義してみましょう。

すると、

今のこの状態、

ええっ??これが幸せ???うっそー

というそれ、それこそが幸せという状態だったということになります。


つまり言葉の定義の問題ですね。


自分の夢が叶ったら幸せ、というようなそれは

訪れないかもしれないw幸せなので

それを幸せと呼ぶのをやめましょうよ、というだけの
言い換えだけとも言えるわけです。


自分より不幸な人を見て
幸せだと思いなさいとか

そういう原理もまた不思議ですね。


だって、幸せとは、自分が決めるもの

と言っておいて

いまのありのままのあなたが幸せなんです、と決めつけられても・・・。




幸せは自分で決めるもの


言われて決める幸せなんか、
自分の決めた幸せではないです。


自分で決めた幸せは、誰に何を言われなくても
とっくに自分で決めています。
実現していようがいまいが。


幸せだと呪文を唱えながら
自分を忘れる行動をしているなら

それはどうなんでしょう。幸せなんでしょうか。


でも、それでも自分で幸せだ、と言うのであれば
やはりその人の幸せであって
周りは何も言えないということになりますがw


反面、
人間は自分だけで幸せの定義を決めることはできません。

つまり
「評価を得たら幸せ」というように
自分の幸せには他人の評価がつきものなのです。

他人の評価なんか関係ない、と思っても

例えば「成功した」と言われるような人は
他人の評価を得た人々ですよね。

お金だって基本的に評価で得られるものです。


となると、
幸せは自分で決める、というのは

なんというあいまいな定義であることか!!




そうです。
ここまで見てきたように、

幸せはこういうものだ、という確固たる定義はないんです。

だからこそ


やっぱり自分で決めるしかないんです。

話が循環しちゃいましたねえw


けれど
ほとんどの本質的な話は
こんなふうに循環してしまうものなんです。

だからこそ、考えても無駄、と言われてしまうわけなんですが

それでも考えた方がいいように
私には思えてなりません。


それは人生の前半を
なーーーーーんにも考えずに生きてきてしまったからこそw

そう思えているのです。



いかがでしたでしょうか。

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