ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

「自分の意見」をわかっていますか?

ロゴスの小径へようこそ。

フランスのテロで世間は騒然としていますね・・・。
悲しい出来事に心が痛みますし
遠い国の関係ない出来事、と言い切れない世界情勢です。

最寄駅のロータリーも電飾がトリコロールカラーになり、
日本もテロに屈しないよう武器を持とう!と演説していました。
怖いです・・・。


さてfacebookをされている方はご存知と思いますが
自分のプロフィールの写真をトリコロールカラーにできる機能が
昨日はFBにできていました。
フランスに哀悼の意を表明するための機能だったのですが

その是非について
様々な意見が飛び交っています。



とはいえ
ロゴスの小径では、その是非を問うのではなく
もっと根本的な問題について考えたいと思います。



ですので、
トリコロールカラーというのはあくまでも例です。

私が考えたいのは


トリコロールカラーに変えるかどうかを
本人がキチンと吟味して決断したかどうかです。



例えリスク(機能を採用した人は情報を収集されて困ったことになるという話も出回っています)を負ってでも
トリコロールカラーにした、という人もいます。


反対に、自分で考え、その意志でしなかった人もいます。


それはどちらも正しいと思っています。




けれど、

そこまで考えずに
皆がやってるから、とか

ちょっと「いいね!」という軽い気持ちだったり

反対に
よくわからないからやめとこう、というものだったり


まわりの空気を読んで決めたり


そんな人もいたはずです。




そして最も気になるのは

自分で決めた、と思い込んでいる人、

しかしその理由を実は言えない人だと思っています。


理由は言えるよ、と言うかもしれません。

けれど
理由があるのならある程度の知識はあるはずです。

きちんとそれを「自分に」論理的に説明できますか?

(自分に、というのは他人に自分の意見を言うのが良い、
という意味でお話ししているのではないからです)



なぜそんなことを思うの?
深く考えすぎ!と思いますか?



しかし

自分で決断する癖をつけないと

自分の意見を、自分で知らないまま生きることになってしまうのです。


FBでプロフの色を変えるかどうかの小さな決断であれば
そこまで深く考えなくてもいいとも思えるかもしれません。


けれど、
それを「小さな決断」とするのであれば


それすらできないのに、どうして「大きな決断」が
できるのでしょう?


人生には当然、自分なりの大きな決断を
する時がありますよね。



そういう時、

ちょうど●●がこう言ったから、
ちょうど●●の日だから、
占いでこうだから、
引き寄せだから


とか


テレビでちょっと聞きかじったり
仲のいい人の話していた話だったり


そういうのに左右されて
自分で決断したつもりでいる



そんな決断のしかた、していませんか?



私は正直、以前はそれに近かったです。

それは

自分の中の情報や感情だけで決断していたということです。





つまり


自分で決める


とは、自分の頭の中の情報や感情だけで決めることではないのです。


可能な限り情報を集め吟味して
それで決めるのが決断です。


できる限りやったうえではじめて、

あとは運を天に任せるのです。



お医者さんを決めるときも

本当に安易に決めて、出された薬を調べもせずに飲んでしまうような人が多いですが


自分で決める、自分の意見を持つ、ということに気をつけて
いろいろ調べれば


どの医師を選ぶのか、
どの薬を選ぶのか、によって
ものすごいリスクを背負っていることがわかるはずです。


何も調べず
自分の中の知識だけで決めようとするから

リスクがあることすらわからないままに
決断しちゃうんですよね・・・

それで、自分で決めた気になっている・・・


怖いですよ、これ、すごく。


だって運を天に任せなくても
十分そのときの自分により良い道を
選べたかもしれないんですから。


まだ、自分で決められない、と気づいている方がマシです。



もちろん平凡な一人の市民が
知り得る情報には限りがあります。


それでも


自分で何かを決めなくてはいけない時が
人生には絶対にあります。


そしてその決断は

普段から深く考えることや行動(知ること)することをしないでいると

突然にはできないし、方法もわからないということになります。



私は何かを決めるとき常に自分に問います。

それを、私は本当にしたいのか?と。


この癖はニーチェから来ています。

ニーチェに問われているような気がするのです。


それは、誰かの言うことの猿まねではないのか?
まわりの評判のためではないのか?


と。


ニーチェを知らなければそう問うことはなかったので

やはり歴史に名を残しているような人の思想には
触れておくべきだと

改めて思いました。





いかがでしたでしょうか。


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