ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

哲学ってなんだろう?

ロゴスの小径へようこそ。

哲学する、ってそもそもなんでしょうね?
最近「退屈」について二つの本を読みました。(正確には一冊読みかけ)

人間はそもそも根底の部分で退屈しているというテーゼ。

私は退屈なんかしていない、と思います?

退屈するような人は友達もいないし向上心もないし
仕事もやりがいがないような仕事をして
だらだら時間を過ごすダメな人、見たいに思ったりしません?

私はそう思っていました。

だからずっと時間を分刻みに刻んで予定を入れるように過ごし
常に勉強し、常に何かを目指して生きてきたように思います。

しかしそれでも
心の真ん中に空洞があるような何か虚しさを感じて生きてきました。

それを恋や仕事で埋めることは一時的には出来るのですが
すぐに飽きてしまいます。
つまりそれは退屈しているわけです。

退屈論ではハイデガーが有名です。

楽しいはずのパーリィwで
何もかもが充実しているような気がするのにどこか退屈している自分に気づいたりすること、
ありませんか?

無いのならいいんです。
それは幸せだと思います。

人間には根拠のない退屈が根底に横たわっていて
その問題はかなり古い哲学者からも指摘されてきました。

歴史的に見るとどうも1600年あたりが転換期だったようです。
それまでは、退屈とは貴族の証でした。

そうですよね、平民は日々の仕事、暮らしに忙しくて
退屈なんか感じる余裕がなかったのです。

一般市民の暮らしにだんだん余裕が出てきて現代に至っているのですが
そんななかで、貴族だけのものだった「暇」「退屈」が我々庶民にも広がっていきます。

そもそも貴族は、古くから退屈を紛らわすための知的遊びを発展させてきました。
それが文化ともいえますが

例えば日本なら 和歌や茶道や・・・

現代においても、たしなんでいる人しか楽しめませんよね。

庶民はたしなんでいないので、退屈を紛らわす術を知りません。

そこにつけ込んだのが資本主義ですね。

退屈を紛らわすために文化・・・しかし知的遊びには一定の訓練が必要です。
食べる楽しささえ、子供時代に舌を肥やしておかないと
味がわからない大人になってジャンクフードだけ食べていれば満足、ということに
なってしまいますから

本当の意味で退屈を紛らわすのは少しお勉強が必要なわけです。

でも、一般庶民はそんなことしたくない。

なので手っ取り早く、資本主義は「退屈」を紛らわす「刺激」を
売り物にしています。

それまでいろいろな「経験」が人生の退屈を紛らわすことだったはずなのに

今は自分ではやりたくない、

人のやったことに「いいね!」したりwetやテレビで刺激を受けたり
そうして退屈を紛らわすためにお金を使っています。

スポーツはしないのに、テレビで観戦して
あんなスイングじゃだめだ、とか走り込みが足りないからへばるんだ、とか言うだけで
退屈を紛らわせるのだから楽なもんですw

歌手の歌だけならまだしも、その歌手が食事をしたり旅をしたりするシーンをテレビで見て
人生をすり減らして生きているわけですw
まあそれが本当に楽しければいいんです、もちろん。

しかしそれはいつか飽きてしまう。
学生時代に夢中になった芸能人、とか
いつの間にか飽きちゃいましたよねえ・・・w

飽きた隙間にはiPhoneがどんどんバージョンアップして売り出されたり

私たちはそこで何を買っているのか?
その考察がこちら

面白かったです。哲学を知らない人にも読みやすいです。
倫理学の本なので、どうすれば退屈は解消されるのかというアイディア・・・というか、
本を読むことが退屈解消に繋がらざるを得ないような作りになっています。

現代は、文化を知らずに手軽に手に入れられる刺激で退屈を埋めている。

だからすぐに飽きて、

流行のものはあっという間に忘れ去られますよね。

でもそれでもいいとも言えます。

VRとか技術がどんどん発達して
退屈をどんどんお手軽に安く埋めてくれて生きて死ぬ。

それを虚しい、と決めることは本来できません。

いいじゃん毎日が楽しく埋まっていけば。そう思います。

私は一時、ニート(あ、まあ専業主婦ともいいますが・・・w)をして
毎日ゲームしたりアニメみたり映画みたりして過ごしていた時期がありました。

最初は楽だし楽しいし。

でも1年で飽きました・・・。

現代では最新のゲームとかなら飽きないんですかね?

数年前犬の介護で仕事以外はいっさい外出できなかった時期に
やはりゲームとアニメを見まくっていましたが(好きなんですねw)

飽きましたね・・・すぐに。

幸運なことにその後哲学と出会い
残りの人生はそれを学んだりしているうちに終わりそうなので
退屈しそうにありませんがw

しかし思想の底に深く潜ると、
そもそも人間は

退屈だから戦争をし
退屈だから結婚し
退屈だから子孫をつくる

とも言える、というところに行きつきます。
これは今読みかけの哲学書。読了したらまた書きたいと思います。

しかしそんな根っこの部分を考えることに意味はありません。

人間がなぜ存在するのかというような問いに答えはなく
それを気にせず

文化を学ぶことで退屈が埋まる、とした方が
生きていくうえでより「幸せ」になれると思います。

それでもその根っこの部分がどうしても気になるし
そこを考えているほうがむしろ落ち着くというごく少数の人は
哲学してしまうんでしょうね・・・。

『哲学的な問題の特徴は、方向を決定するものが何か欠けているということ』
ラース・スヴェンセン

どう生きればいいか、より幸せか、というようなことを人は求めるのに
その方向を決定するものが欠けていると思われるものが哲学的な問題の特徴だというのです。

同じ宗教とか、そういう枠内では決めることができます。

倫理学的には
「方向なんてない、人それぞれ」と言えます。大事なことです。
これを認めないと戦争になります。

哲学は何をしているかというと
方向を探しているのです。あると信じて。でもそれは欠けていて、無いものなんだとわかってもいるのです。

なぜすべては「無い」のではなく「存在」しているのか?

というような考えても答えのないことを探してしまうのです。

そこに「神様」を代入できれば幸せだったのですけれど・・・。


この話、通じそうで通じないんですよね・・・

私の先生の著書にも

そういう絶望した人と語り合うことが人生の楽しみ(とは書かれていませんでしたが、意味合いとしてはそういう感じで)とあって共感しました。

とはいえ、絶望した!と悲惨に生きているわけではありませんw

この世の全てはある意味無意味であると思えるからこそ

遊ぶように生きることもまた可能になるからです。(そういう人たちにとっては)


いかがでしたでしょうか。
共感が少ないのは承知の上w

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