ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

どう生きるか

ロゴスの小径へようこそ。

君たちはどう生きるか」という本を

ごめんなさい、読んでいないですw
テレビで池上彰さんが紹介しているのをたまたま見ました。
なので、本当の著書の意図はまた違うのかもしれませんが
テレビで見た限りの範囲で考えたことを書いてみたいと思います。

テレビでは
「子どもへの哲学書

として紹介されていました。

エエ話です。
涙出そうです。

しかしこれは

哲学の話ではなく
倫理の話だと思います。

「人間は自分でどう生きるかを決定できる」

著書が書かれていた時代の日本での哲学思想には
あっていると思います。

そしてそれは現代にも引きずられているのですが


実際は世界はそうできていません。

努力すれば誰もが夢を叶えられるのか?
夢が叶わないのは努力が足りないからなのか?

例えば
オリンピック選手の優勝者は本当に「世界一」なのでしょうか?

「オリンピックに出場できる限られた環境を持つ人間の中で」
なのではないでしょうか。

才能があっても家が貧しくゴルフ教室に通えない子供が
世界一になれない場合
それは彼の努力で補えたのでしょうか?

また逆に、どんなに良い環境にあり、自分もそれを目指していても
その才能を持っていないとしたら?

何かの事故に合ったとして
それはその人の努力が足りないからなのでしょうか?

生まれたばかりの子どもが病気になるのは
その人の努力が足りないからですか?


そう考えてみると

人間は自分でどう生きるかを決めることなどほぼできません。

しかし矛盾するようですが
ある意味では、どう生きるかを人間は決めることができます。

それは倫理学の中で、です。

倫理学とは

思想をもつ私たち人間という世界の中を
どう生きるかの方法、と言えるかもしれません。

人間が、生き物が、環境が
どう生きていくのがいいのだろうか、生きやすいのだろうか、と

考えた中でのルールと言えるかもしれません。

例えば浮気をすれば倫理的ではないというのは正しいです。

しかし少し前まで、経済力のある男性がお妾さんを持つのは
日本でも当然のことでした。

人間がより生きやすいように、決めたルールの上で守るのが倫理です。

憲法改正がいつも賛否両論なのは
それを照らす「真の正しさ」というものが存在しないからですよね。

だから皆で擦り合わせて行くしかない。

それは悪いことという意味ではなく
人間が生きる上で必要なことです。


しかしその倫理を、これは哲学だと言ってしまうところに
怖さがあると思います。

哲学とは
真理の探究です。

著書のように、いじめられる子を助けるのが常に正しいのか?

倫理的には正しいのでしょう。

しかし著書では高校生の不良に殴られるといった設定。
現代であれば武器を持っている可能性もあり、死の可能性も否定できませんね。

私だったら学校や警察や、とにかく周りの大人に訴えることを
自分が殴られる勇気の替わりとして提案したいですが・・・。


大人も学ぶべき本だと紹介されていました。

駅で怖いおじさんにからまれた人を見かけたら、助けに出ていく「べき」?


他人の命を、自分の命を捨ててでも助けることが正しいのかどうかは
今でも誰にも決められない難しい問題です。


「どう生きるかを決めることができる」のだというのなら

見て見ぬふりをするのもまた
どう生きるかその人が決めた結論ですよね。

それを誰がどんな責任を負って否定できるというのでしょうか。


著書では「自分で考える」という重要性を説いているようでした。

この話の全てを自分で考えること、それ自体が哲学です。


しかし、「こう行動すべき」という視点でこの著書を見たときそれは
倫理学、もしくは啓蒙ということになります。


親が子供に読ませるべき本、のようにも紹介されていましたが
それにも違和感を覚えました。

その親は実際、そんな行動をしているのでしょうか?

職場でセクハラにあっている女性社員をかばったり?
電車では常にお年寄りに席を譲り?

自分は見て見ぬふりをしつつ
子どもには道徳を守れ、と押し付けるつもりなのでしょうか?

子どもは教育が全てです。

戦前の教育を子どもに施せば
従順な、「大人たちの決める正しいとされたルール」を守る
子どもができあがります。

日本は子どもをどこに向かわせたいんでしょうね・・・?


ということを深読みして
「自分で考える」ことが
大事なことだと思います。

テレビで見たことをそのまま鵜呑みにするのは「啓蒙」です。
自分でどう生きるかを決めていないことになります。


しかし

もうテレビ(テレビでなくても新聞でもネットでも本でもなんでも)の情報は
正しいとは言えないから知識は不要

とするのなら
それもまた「自分で考える」の放棄です。


自分で考えない大人が
どうして子どもに、自分で考えろ、と言えるのでしょうか。

著書の設定だと中学生。
子どもは思うより馬鹿じゃありません。

自分の親が自分で考えて話をしているのか
またそれを自分でも実行しているのか

そんなことくらいは見抜いています。


人間ができるのは、どう生きるか決めることではなく

どう生きるか考えること

なのではないでしょうか。


いかがでしたでしょうか。

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