ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

心の動揺を抑える方法

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ロゴスの小径へようこそ
あなたは「哲学体質」?

さて今日は昨日の続きです。
古代の哲学の数派が考えていた幸せの定義。

それは心の動揺がない状態こそ快であり、善であり、幸福であるとしたもの。

ではそれをどうやって成し得ようとしたのでしょうか。

哲学はこの時代のあと時を減るごとに複雑化して、
この説にピンとこない人もいらしゃるかもしれません。
近代では古代の哲学の考えの一つとして脚光はあまり浴びずにきたのですが、
ここ数年で見直されて来たそうで、私はそれがわかる気がするんです。

だって、以前も書きましたが、起きる事柄自体には善悪は無いわけです。
つまり人間が自分でいいとか悪いとか勝手に決めて思い込んだ、
「思いなし」の世界でものを見て一喜一憂しているのです。

運命の出会い!ソウルメイト!とテンションをあげたものの、
実は居心地が良い相手ではなかったと気づき今度は違う人にいって見たり(笑)
人間関係に心が傷つくことは誰もが経験します。
恋なんかまさに、一喜一憂のジェットコースター(笑)

人生は心穏やかに過ごせれば、それだけで幸せになれる、という感じは
心が傷ついている時ほど理解できるかもしれません。

では実際どうすればいいのか?

そもそも人の心はなぜそんなに動揺するのか。
要因は様々かもしれませんが、以下はその大きな一つだと考えられます。

自分の意見を持ちなさい、と言われて育った弊害もあるのかもしれませんが
私たちは自分の意見だと「思い込んだ」ものを発信する。
でもそれは、いろいろな先入観から来ているものであるお話は以前させていただきました。

にもかかわらず、それがまるで自分の意見のように思い込み、
真偽もあやふやなままに情報発信します。
この思い込みをドグマ、ドクサといいます。

そしてそれを批判されたとき、人は「自分を否定」されたと思い込み傷つくのです。

例えそれが、好きなテレビ一つでさえ、面白い、と話したときに
「え?あのドラマがおもしろいの?」と言われると
傷ついたり、ちょっと腹が立ったりしませんか?

メールをしたのに返事がこない。
それだけでメールが来るまでイライラしたり。
お昼休みなんだから返事ができるはず、とまで勝手に計算してみたり(笑)
メールをしたら返事が来る、返事したいはずだ、という自分のドグマが作るイライラ。

例えば身の回りの無関係な人に腹を立てたり。
「あの学生はなぜ老人に席を譲らないんだ!」
その学生が体調が悪くてどうしても立てない可能性を
なぜ考えないのでしょう?
そもそも、「席を譲ってあげなさい」と言えない時点で
それに腹を立てられる権利があるのでしょうか?
言えないなら判断も控えるべきではないでしょうか?

そんな勝手な自己判断は実はたくさんたくさんあります。

高校生のスカートが短い!と腹をたてたり。
自分の娘ならいざ知らず、いいじゃないですか他人のことなんて。

そもそもそれが悪いことだと誰が決めたのですか?
一昔前は、スカートが長い、が悪いことだったわけで、
そこをどう論理的に彼女に語るつもりですか?
それは実は嫉妬の裏返しではないですか?

そういう目でふと周りを見回すと、
会社であの子だけがランチに一緒に来ない。
飲み会に来ない。
仕事の手順がおかしい。

いいじゃないですか、もちろんそれが作業に影響するなら改善すべきですが、
どういうやり方をしようが本人がやりやすい方法で作業すればいいわけですし、
そもそもそれを指摘するのは上司の仕事です。

もちろん、自分の意見を言うべき時も現実にはたくさんあります。
仕事の会議で意見を求められているのに黙っているわけにはいきません。

私たちは、毎日自分の意見を言わざるを得ないことに囲まれています。
そして腹をたてたり、気に病んだり。

だったらせめて本来自分に関係ないことで、
人を、事柄を判断してドクサ(自己主張)を持つのは余計な荷物のように思いませんか?


とはいえいきなり、意見を控えよう、としてもなかなかできません。
なので、立ち止まってみるのです。
それが本当に正しいと言えるのか。

例えば私はテレビをほとんど見ないので芸能界に驚くほど疎いです。
「えーー!あの人を知らないの?」といわれる事が非常に多いです。
オリンピックもいっさい見ません。

でも知らなくても問題なく生きています(笑)

それは、「えーーー!プラトンも知らないの?」と言うのと実は同じ。
もちろんこちらも正しくありません。
プラトンを知らなくても生きていけるのですから
どちらが正しいかは、冷静に考えれば判断できませんよね。

そこに判断を下す。
プラトンも知らないから恥ずかしい
AKBの誰誰を知らないから恥ずかしい

思うのはもちろん勝手ですが、
「オリンピック観たほうがいいよ」
と主張するのは正しい事なのでしょうか??

自分は好きなんだ、という話くらいに留めたほうがいいような気がしませんか?

PCが普及しnet社会になった現代を、
「人間は自然のままがいい。よくない傾向だ」と言う友人がいます。

しかし、その反面、net社会の恩恵も彼女は受けています。
受けざるを得ないのです。
でも、どうしてもそれが許せずそういう生活を送っている集団もありますよね。
であれば、主張も可能だとは思いますが。

正しいとも、正しくないとも言えないのに
人工頭脳はよくない!と主張し、少なからずも腹を立てる姿を見ると、
疲れないのかなあと思ってしまいます。
開発者でさえ倫理的見地の発言は控えているのに。

学者は「正しい」「正しくない」を簡単には口にしません。
それは、判断に至るまでには検証が必要だとわかっているからです。

古代の哲学では、全てのものを疑うと、判断ができなくなる、といいます。

それが本当に正しいのかどうかいったん立ち止まって考えてみる。
余計な判断は保留する。

それを現代に落とし込んでみましたが、
きっとこれをベースにしてみると、もっといい例を皆さんは思いつくかもしれません。
思いつかれたらぜひ教えてください。
もっと簡単な例もあるはずです。

ともあれ、
判断することをやめると、何にでも口を出したくなる悪い癖が(笑)
激減します。

あの人は正しい、あの人は間違っている。

噂話などでも、判断をしがちですが、本当によく考えてみると
どちらとも言えない場合がほとんどです。

それでも人には相性がありますし、
意地悪されたらやはりキライ!だと思いますから
そこまで無動揺でいられるほどデキタ人間ならいいのですが(笑)
せめてそうでない場合だけでも、つまり自分にあまり関係が無い場合は
判断を保留にしてみませんか?
保留にするためには考えてみるのです。
本当に「その主張が正しいのか」を。

少し立ち止まるだけで、判断はできないものだ、と気づくことが
たくさんあります。

私の場合は始めは慣れなくて過渡期もありましたが、
数日ですぐに慣れて、心が穏やかになれました。
思えば、人や事物を思い込みで判断している自分に
本当は気づいていて、心が傷ついていたのかもしれません。

根拠の無いドクサ(自己主張)にまみれた現代だからこそ、
古代哲学が再び脚光を浴びだしたのかもしれませんね。


いかがでしたでしょうか。

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