ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

決断時の脳の働き

ロゴスの小径へようこそ。

自分が迷っているとき、こんなことがありませんか。

初めて見た(聞いた)ときは
いいな!とか嫌だな!とかいう第一印象はある。

でも、そこから理性的にいろいろ考えだす。
例えば


フルタイムの仕事がしたい!
→しかし見つからない。
→他にしたいこともあるし、フルタイムの仕事はやめよう。

みたいな。

カッコいいし素敵な人!
→しかし振り向いてくれない。
→カッコいいけど、浮気性っぽいからやめとこう。

実際人には、パッと見た時いいな、と思ったり嫌悪感を持ったり
そのカンみたいなものは
だいたいは合っていると言われています。
これを脳の働きの、システム1と呼びます。

こんな仕事したい!とか
この人いいな!とか。




しかし同時に第一印象で何もかも決めてしまうことは
非情に危険だそうです。


お金が儲かる!うれしい!
→いや待てよ、詐欺じゃない?
→振り込むのはやめておこう


というように。

このじっくり考える働きをシステム2と呼ぶそうです。


ではすべてシステム2で考えて決めれば安全じゃない?と思いますが

システム2は、システム1ができないことや、あるいはシステム1をしたいがだめの
「言い訳」になってしまうそうです。


素敵な人、なら好きになってがんばる!

でいいはずですが、

ふられたらどうしよう、とか
カッコ悪い、とか
自分には無理、とか


そういう思考が働いて

「浮気性っぽいからやめたほうがいい」と
結論を出して自分を騙してしまうそうです。



私はいろいろ揺れつつも

今までのような仕方で仕事をするのをやめよう、と
ある程度答えを出したつもりでした。

しかしここにきてまた
今と同じような仕事のオファーがきてしまったのです。

そこで私が考えるのは

確かに一番やりたい仕事とは言えないけど、
でも安定するし 

とか

このまま決まれば年末年始気持ちが落ち着くなあ

とか

つまり自分へのいいわけです。

もちろん反対のケースでも同じです。


仕事のオファーを待っているのに
全然こない。

つまらない仕事をするくらいなら
このまま不安定なフリーの仕事をした方がいい!

とかね。


こうして言い訳をしているうちに
自分が本当は何を欲していたのかが
わからなくなってしまうそうです。


転職も恋もw

だんだんはっきりしない期間が増えると
システム2が働いて

本当は自分がどうしたいのかわからなくなってきますね・・・
今の私のようにw


自分の第一印象、ピンときたこと

そういうのはメモっておく(ブログでもSNSでも)といいように思います。


あとから後付で自分に言い訳した分を
差し引いて考えなくては。


私は最近一日中、自分の言い訳を聞いているような気がします。
最初の自分の希望、思いは
なんだったのかな・・・


依田ですが転職活動にあたり、
いろんな偶然が重なっています。
でも結果自分の思うように進まないなら

単なる思い込みでしかないのでw

結果がどうなるにせよ、後日まとめてご報告させていただきます。


とりあえず今日の「引き寄せ」(もはや死語?w)は
たまたまワンフレーズだけ聞いたテレビで

「やりたくもない仕事をして一生生きていくなら
就職なんか決まらない方がマシかもしれない」

でした。
富裕層の会話ですねえw
しかしタイムリーw



いかがでしたでしょうか。


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癒しの場所

ロゴスの小径へようこそ。

自分にとっての癒しの場所というのは
とても必要なものだと考えています。

私の場合はほぼ場所は問わず、朝のカフェなのですが

本当に弱っているときはw
読書にも集中できませんし

カフェにいてもスマホばかりいじることになり落ち着きません。

そんなときは私の場合は神社です。

そんなわけで今朝、産土神社へ行ってきました。

ちなみに産土神社というのは自分がお宮参りをした神社と考えるのが
一般的なようです。

生まれた場所の近くだとか
いろいろな説もありますが

だとしたらほとんどが産婦人科の近くの神社ということに
なりますね。

また母親が実家に戻ってその近くの産婦人科というのが
一般的だとすると

自分が住んでいる区域の神社とは少し違うことになります。


が!!!!!!!


ぶっちゃけそんなこと気にするのはなんというか、
アレですw

だって厳密に、と考えていくと

そもそも厳密という定義がないんですから。

産婦人科もない時代に考えられたものですし

そのまたもっと昔は神社なんてなかったんです。

その原型と言えるものはありましたが
もともと日本の神様はその場所に「おろす」、つまり
お呼びするものだったのです。

まあもっと遡れば類人猿ですし?

さらに魚?ミジンコ???w


なわけで、
定義なんかあってないようなものです。

あったとしてもちょっと調べるといろいろな説があって
定まっていません。


・・・あ、話がそれましたw


そんなわけで
私の認定w産土神社さんへ


最後に行ったのは今年のお正月です。

あんなにしょっちゅう入り浸っていたのにw


人間とは現金なもので、
自分にたいした悩みがなくなると
行かなくなってしまうんですねえ〜〜〜!!

宗教団体に属していない信心の限界でしょうかw


転職という出来事をきっかけに
人生プランの見直し中な自分はいまとても不安定で

そういうとき、哲学的な思考はもちろん役になってはいるのですが

やはり未来への不安は
理論ではわかっていても
感情のコントロールは難しいものです。


だからこういうときに
何かしら人為の越えたものに
接したくなるのかもしれません。

日本人は宗教に帰依していない人も多いでしょうから

そういうとき神社はとても便利です。

どんな宗教を持っていようがいまいが

無料で中に入れちゃいますからねw



おみくじ引いたら小吉で
もうすぐこの冬のような状態から抜け出せるそうですw

まあ、別に神様が書いたわけじゃないですよ?おみくじってw

海外で印刷されているそうですしね。


でも、
ちょっとうれしい、ちょっと気分が上がるこの感じ。


これは理論では得られない感覚なんですよねえ・・・。


これから半年。
私はいろんなことにチャレンジしたり準備したりするつもりです。

春の前の冬ごもりのような?

しばし忘れていた

理論ではなく「感じる」ということ


そこを大事にしたいと考えています。


いかがでしたでしょうか。

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笑うこと

ロゴスの小径へようこそ。

絶賛就活中!の私ですがw

就活経験のある方ならお判りの通り

感情、というか気分の浮き沈みがけっこう激しいです。


という自分を見つめるようになれたのは
哲学を学び出したおかげで

これができないとただただ苦しいという事態になりがちなのですが。


例えば昨日と今日。
休みの日なので、実際の就活はいっさい進んでいません。

にもかかわらず

今日はやや落ち気味です。

というのも
旧知の友人と会い夢についてとことん話をしたからです。

夢について話したのに気分が落ちる、ってどうなの?という感じですがw


結局確固たる夢がない、というか

仕事しないで好きなことだけするというのがむしろ夢でありw


これになりたい!というような(実際できるかどうかは別として)


そういう願望がないんですよね・・・
昔は確かにあったのに。

これが年をとるということかもよ、と笑いあったのですが



ともあれ
これいいかも、と思ったことに今月はチャレンジしようと決めたので
あれこれ実際活動できそうなことを

その道に詳しい友人に相談したわけですが


聞いた情報をもとにあれこれ検索するも


無理!!!!!w


いや、ここで無理、と決めるから夢は叶わない、とか言いますがw


その「無理」がどう無理かというと


それができっこない、という無理以前に


そこまで情熱をかけられない、という意味での「無理」で


それじゃあ無理だろ!というようなwww




先ほど気分落ちた、的なことを書きましたが


しかし友達と
無理であることをげらげら笑って
かなり楽しい時間を過ごし


なんというか


笑うことって大事だなあと改めて思った次第です。

これは、少し前から自分のテーマになっています。


世界情勢を思うと
対話でどうにかなりそうもないし

とはいえ圧力でもどうにもならない。


こんな状況で唯一世界を救えるのは

「笑い」ではないでしょうか。



もし一触即発の開戦状態で

同時に両者がお腹を抱えて笑えるようなことがあったら

戦争どころじゃないですよねw


発射ボタンすら押せませんw


こういう状況で、笑えるかどうかって
とても大事なことのように思います。


友人は教育関連の仕事をしているのですが

子どもたちと一緒に笑えるかどうかというのが
重要なポイントになることもあるそうです。



まあ、もっと自分だけの話でもいいのですが


今日落ち込んでる〜!と一歩引いて自分を見ることができて
それを友達と(自分一人でももちろん!)笑えることって


重要な気がします。




さて
実は今日二つの道について友達と話をしました。

ひとつの道は、自分にはハードルが高いということに気づきました。
情熱という意味でも。


もうひとつの道は

私の人生の最後の「夢」
正確にはそのカケラ、のようなもの。


その道はさらに困難な道なのですが

失敗してもいいじゃん、と思えるようにするには

それを支える仕事が必要・・・つまり

芸人が売れるようになるまで居酒屋でバイトする、みたいな??w



つい先ほど北野武さんがテレビで
自殺願望の若者についてコメントされていました。


人生はわからないし、うまく行かないからおもしろいとも言えるんだ。
大事なことは、それを友達と笑い飛ばせるかというところだ、

というような。



最近、笑っていますか?



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人生の転機とは

ロゴスの小径へようこそ。

人生の転機が訪れる、というとなんだかドキドキワクワクしますが

実際は、よおし!転機だ!と前向きな行動から始まるものではなく
むしろネガティブなことが始まりが多いのではないでしょうか。

人間は、現状維持をしたがる生き物だそうです。
(その方が安全だから)

今の、満足で満足でしかたないとは言い切れずとも
ある程度の安定を得ている暮らしから抜け出そうとはなかなか思えないのです。

そんな中で「転機」を迎えるというのは
つまりは、無理矢理そういう状況に立たされた時ですよね。

例えば

失恋したとか
急に転勤が決まったとか
意図せず会社を辞めることになったとか
試験に落ちた
病気になった
家族に何らかの問題が起きた

などなどなどなど

そこから多かれ少なかれ人生設計を変える必要を余儀なくされるので
それは「転機」となるわけです。

転機というと、良いイメージですが

デジタル大辞泉によると、 - 転機の用語解説 - 他の状態に転じるきっかけ。

だそうで、
他の状態に転じるだけです。良いか悪いかはその先の自分の判断次第となるわけで。

ともあれ

ピンチがチャンス、なんてよく聞きますが
気休めではなく本当ですね。

自らを奮い立たせ慣れた職場をやめて転職とか
そろそろつきあいも飽きてきたので別れて次の相手を!とか
大人になってから大学へ通うことにする!とかw


自分で転機を作ることはもちろんできますが
ピンチのときは否応なくチャンスです。

ダイエットしたいーしたいーと言うだけでは転機になりませんがw

健康診断で悪い結果が出て医者にダイエットしなさい!と言われたら
やるしかないので転機となり得ますよね。


まあ、そんなわけで私、
転機を迎えております(笑)


思えばこのブログの更新を怠るようになったのは、定職に就くという転機からでした。
それは「安定した」日々ではあり
しかし自分にはまったくもって「退屈な」日々でもありました。

社員になることが決まった時から
まずいな、違うな、でも断ったらこの安定が・・・と
迷いだした自分に気づき

ああ私

このまま老後までこのたいして好きでもない仕事(デザイン)を続けて

本当にしたい何かはそのままに終わるのか

やりたいやりたいというのは簡単だけれど
そして夢を描くのも簡単だけれど

とはいえ今仕事を辞めて
何ができるのか?

などなどなどなどなどなど

これ、仕事に関係ないような皆さんは
パートナーとか考えてみてください。

本当はこういう人と付き合いたかった、結婚したかった

でもいますぐに別れるほど辛いわけでもない

今度こういうことがあったら別れよう、
いい出会いがあれば別れよう、

とそのまま何年もたって人生が終わるわけですw

まあ、もちろんそれもまた悪いわけではないのですが。

しかしそんな時

突然別れを言い渡されたら・・・。


そうです。私、似たようなことがありました。

社員になることが決まっていたのですが
会社の経営不振により、社員になる前に契約終了となってしまったのです。

私一人ではなく、かなりの人数が(社員を含め)
年内に「整理」されてしまうことになったのです。事務所までも!

それを知ったとき私はすぐに次の仕事を探しだしました。

それも・・・
同じような仕事内容で、長期安定な仕事を。

まあ、しょせん主婦の仕事探しと思われるかもしれません。
好きなものを買うことができなくても、住む場所を失うわけではありません。
けれど、仕事をするということは私にとって自分のアイデンティティに関わる問題でもあるのです。

一刻も早く、同じ状態に戻って
同じような暮らしを続けなくては!!!

はじめのうち、久々の職探しは現実の厳しさもあるものの
楽しくもあったのです。

けれど二週間職探しを続けてみて
10件応募してやっと1件決まるかくらいですと派遣会社の営業さんに聞いていたにも関わらず
そこまで応募することさえできなかったのです・・・

そこで私はやっと、時間をとってゆっくり考えてみることにしました。
そして今更気づくのです。
自分がここ数年のこの仕事を安定という名の上の惰性から続けていたに過ぎず
いつでも不満に思っていたことを。

これは転機なんだ。

もしあのままなら私は、迷いつつも社員になっていたでしょう。
そして定年まである意味砂を噛むように
月曜の朝、会社いきたくねえーーー!と思いながら
生きていたのでしょう。

繰り返しますが、それはそれで悪いわけではありません。

けれど、今の私にはその選択肢を選べない以上

これを転機にできるということなのです。

ダイエットしたいと思いつつ、ついつい甘いものを食べてしまう
禁煙したいと思いつつ、ついつい吸ってしまう

でも、目の前にスイーツやたばこがないなら

ついつい ということができないわけですから

転機になり得るわけですよね。


もし人生を変えたいなら、
大事なのは
ここでしっかり自分に向き合うことだと思います。

そうでないと

慌ててコンビニにアイスやたばこを買いにいっておしまい、
同じような仕事を見つけて職についておしまい、

です。

いえ、考えてそれを選ぶならそれはそれでいいのです。

けれど
自分が本当に望むものは、常に探らないと見えないものだったりするのです。

大人になるといろんな事情でw
人は自分を自分にさえ偽りますから。

まあ、自分を一生うまく騙せたらそれもいいのですが

私のブログを読んでくださるな方はたいてい
自分を騙せていない方ですからw


私は
私のしたいことについて本当に考えました。

そして、したいことや夢なんて
実はないなと思いました。

というのも、夢は数年前まであったのですがw
それは夢でしかないことに気づいたからです。

剣を極めて武士道を貫く生き方をしたくてどんなに腕を磨いても
技術もなにもない兵に、鉄砲で打たれたらそれで終わり

というような状況が(歴女の例えって・・・w)あったように

欲しい夢がいまのこの現代で、能力とか運とか以前の問題で
得られないことがある、ということです。

当たり前といえばあまりに当たり前ですが
この変化が数年のスパンで現代は変わるので
案外人は気づかずに昔の夢にしがみついてしまっていたりするのです。

実際5年ぶりに職探しをしてみると
世界が変わっていてびっくりしましたw

世界情勢だってなんだってそうですよね。
5年前にトランプさんが大統領になるだなんて
一般人でなくても思いつかなかったように・・・。

そんなわけで自分が5年前にちょっとやってみたいと思っていたようなことは
もう今では既に実現が難しいものとなっていたりしたわけです。

求人案内を見ると、「3年以内ブランクOK」などがうたい文句になっていたりしますが
つまりは3年もたつと、もう世間の状態もその人の状態も変わっているという意味です。
3年なんかあっという間ですよね。

しかし
もっと考えてみると

世界や自分の状況が変わったからこそできることもたくさんあります。

ともあれ
自分に目を向けることではじめて
いろんなことがわかってくる、そして転機にすることができるのです。


さて

私にとっては大きな大きな人生の岐路です。

人生は生きて死ぬだけです。だからこそ
「好き」をしないでお金だけを稼ぐ人生になんの意味があるのでしょう??

なんなら仕事をしないで(もちろん家事も)生きていくのが
一番幸せともいえるわけですがw
残念ながらマンションのローンもありますしそれはできない状況ですのでw

岐路に立たされ
失うものがなくなったからこそ、目指せるもの。

これがピンチがチャンス、ということですよね。

このお話はリアルタイムで続きます。



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生きることは吟味すること

ロゴスの小径へようこそ


最近、ブログの更新がなかなかできないので
facebookに投稿しています。
どなたでも(登録されていなくても)お読みいただけますので、よかったら覗いてみてくださいね!

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実はここ数日、
とある決断に迫られ岐路に立たされています。

例えてみれば

二人のうちのどちらと結婚しようか迷っている、という感じです。
つまり後戻りはできず、ある程度人生の一端を決めてしまう決断です。

たまたま昨日からソクラテスを再度学んでいるのですが

(そういえばソクラテスの対話方法は最近心理学的手法として脚光を浴びてるんですね、
知りませんでした)


人間が生きていくうえで大事なことは

吟味して生きること


これ、以前も書いた気がしますが

まさにそうですよね。


しかし逆に、

「なるようになる」
「いい方向に自然に引き寄せられる」

とか言うアレもありますが


なるようになる、と
言う資格を持っているのは

やれるだけのことをした人だけだと
ムーミンに出てくるミーも言っていましたw し


私はやれるだけの吟味をまだしていません。

それもしないで
なるようになる

とするのは人生の放棄とも言えますね。


だって、「自由意志」だけが人間の特権ですし

・・・
ちなみにこれ、正確には「ない」とも言えます。
よく、宗教家の人はなんでも神様の言う通りで自由がない、というように
言われていますが、
宗教に関わらず人間には「自由」があるのかどうかというのは
いまだに議論されているほど難しい問題です。

ちなみに生物学的には「ない」とも言えるのが最新の学説です。
(生物学の学説です。宗教学や哲学とは違います)

これを聞くと怒ってしまう人も多いそうですが
なんだかホッとする人もいるそうで、私は後者ですw

この件はそのうちお話しするとして
・・・


自由に自分の人生を決めるというのを放棄して
なるようになる、をベストとして生きるのは

私にはなんだか悲しく思えます。


例えば
二人の人のどちらがいいかを
しっかりリサーチして

深く話もして


あ!一人はすごい借金持ってる人だった!

とか

一人は賢そうに見えたけど、しっかり話すと
何もわかってない人だった!

とか


何かしらわかるかも知れませんよね?


そのうえで自分で判断すればいいわけです。


けれど、なるようになる、常にベストな道に進んでいる「はず」とするなら


何も調べずに、
たまたまその日駅で会ったから、これがお導きだ!とか引き寄せだ!
ってことでw

相手を選んだら、借金ももれなくついてきた・・・


とかねw


でも、なるようになる、常に自分はベストな道、派の人は
はずれの方を選んでも

「これがベストな道だったんだ」

と思うわけですから、
まあそれでいいといえばいい、ということになりますね。


私は、二つの物があったら

どちらを買うか、性能とか値段とかレビューとかしっかり吟味してから
買わないと気が済みません。


迷っていたら友達がたまたま同じのを持っていたので、こっちにする!
これが引き寄せ!

と思うような人は

双方を比較していないのですから、
どちらを買うことになっても、「ベストな方だった!」と思うわけです。

わかります?このからくり。

しかし
幸福度は同じともいえるので
どちらがいい、とは言えませんけれど。


そんな風に思考することこそが哲学。
それを教えてくれたのがソクラテスです。


ちなみに岐路に立たされていますが、
とりあえず最終決断まではベストを尽くします。

どっちの彼(彼女)がいいのか、
どちらを選ぶのが自分の幸せなのか
決めなくてはいけない期日までぎりぎり吟味したい。

目の前にたまたまあった偶然をベストとして食らいつくのではなく

吟味できるのが人間なのですから。
(とはいえ動物でもそれをしますけれど。)



吟味せずに、どっちに転んでも

これがベストだった、と思うほうが
幸せかもしれませんが


それは吟味して決断した後に
思えば済むことですね。


失敗したように思うけれど、これがむしろ良かったんだ、と。



いかがでしたでしょうか。

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夏の夜の匂い

ロゴスの小径へようこそ。

今日は蒸し暑かったですね。
なんだか空気が夏の匂い。

犬と散歩しながらいろいろなことを走馬灯のようにw
思い出して歩きました。

隣近所のお兄さんやお姉さんたち
弟たちとの
夏の夜の花火

従兄弟の家の夏休み
カナカナの鳴く夕暮れの田んぼの中の道と
雨上がりに見た大きな虹

両親が働いていたので(というかhave beenですがw)
子供時代の思い出はもう亡くなった祖父母の思い出が多いです。

小学校に上がる前は
勉強もしなくてよかったわけでw

弟もまだ小さくて喧嘩にもならなかったので
なんだか楽しい思い出ばかりのような気がします。

小学校二年の時に、家は火事になってしまったので
子供時代の古い家はいまはもうありません。

雨の日に、あの古い家の廊下の外の狭い軒下に一人で出て
祖母にもらったさくらんぼを食べた日のこと。

開けてはいけないと言われていた二階の廊下の奥にある扉は
今にして思えば物置だったわけですがw

当時はそこを開けると、違う部屋があって
違う世界が広がっているんだと信じていました。

従兄弟と一緒に二階の窓から、一階の屋根の上にこっそり出て遊んだこと

父が休日の朝に焼いてくれるホットケーキ


勉強も仕事も恋も交友関係も将来のことも
何もかも考えなくていい時代の
砂糖菓子みたいな甘い思い出。


そういうあれこれを

ちょっと思い出してみてください。

なんだか
思い出したいような
思い出したくないような気がしませんか?



あの時代に帰ってやり直したいわけでは全然ないのです。
それにそう考えることに意味はありません。不可能ですから。

心があたたかくなるような切なくなるようなあの思い出たち。

もう二度と戻ってこない
家族たちと過ごしたあの時間。

思い出は美化されていることもあるでしょう。

そういうことも含めて
もう手には入らない、人生で一番幸福だったと思えるあの日々。

母が飼っていたメダカはあれからどうしたんだっけ

電話のそばに置いてあった大きな桜色の貝殻は?

祖母の背中ですれ違った消防車のサイレン



驚くほどたくさんの断片を思い出すのに

けしてもう掴めない。


そのうえ
自分はいつか死ぬという事実。



そういうとき
私はいつも死にたくなるのです。

そしてモーパッサン
「ある自殺者の手記」を思い出します。


書評などを見ていないので(影響されたくないので)実際はわかりませんが

私にはこの主人公の感情が
わかるような気がしてならないのです。


幸せに暮らしていて
貧乏をしているわけでもない
寂しいわけでもなく
誰かと憎しみ合っているわけでもない

(主人公はむしろお金もちで、家族にも恵まれていたととい設定だったと思います。・・ってずいぶん前に読んだので(汗))

死にたい理由なんか何もないんです。
誰が見ても。

もし実際の話なら、
実は知らないところで不幸だった、とか
お金持ちだからって幸せではないっていういつものアレw な意見も
出そうですが

小説ですので、
彼が不幸な人ではなかったことは前提されています。


そうではなくて

あの戻らない時間を思うとき

戻りたいわけでもない
けれど
戻れないし

しかし失ってしまったあれこれを思うとき

泣きたくなるような
何とも言えない感情になりませんか?
死にたいとまでは思わなくても。


人生自体に本当は意味はなくて
いえ意味を作っても
もうじき死ぬんだと

(ちなみに主人公は50代の男性でした。)

そう思ったときに

泣いて叫ぶわけにもいかず

手を伸ばしてもなにも掴めず


しかしこれから貪欲に何かを掴みたいわけでもなく
もはや何者になりたいわけでもない
子供たちももう一人で生きていけるだろう
買いたいものはそこそこ買えるし
もう欲もない


きっと子供や孫たちと
穏やかに過ごす老後を
あちこちを旅したり
これからやりたい趣味や仕事や何かを見つけたり
楽しいことも考えたりもするでしょう。


けれど一人の夕暮れ時
ふと幼いころのあの夏の夜の匂いを思い出したとき

やりきれないような
どうしようもないような感情が
浮かんでくるのが


私にはわかるような気がするのです。



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自分を見つけるには

ロゴスの小途へようこそ。

自分っていったい何なのか。
自分のことって自分ではわかりにくいですよね。

どうやって自分を知ればいいのか。

その方法は
世界を知ることだそうです。


世界と、自分、って

まったく別のもの、って感じしますよね。

世界という器みたいな「場所」があって

その中に、「自分」というものが存在している、みたいな。

けれど厳密にはそうとは言い切れないのです。


世界がなければ自分は存在しませんよね。

でも、自分がいなくても世界は存在する?


もちろん、他人の死をみるとそんな風に見えます。

けれど、自分が死んだら

自分の見ている、感じている、この世界は存在しません。

(死後の世界が私たちの見ているこの世界と全く同じで、
全く同じ自分が同じところで同じ生活を幽霊みたいにしている、
と定義している人には別ですが。)


自分が消えるということは
世界から自分が消えるということ、でもそれは

自分には知りえません。

そして自分からは
この世界が消える、ということです。

自分と世界は分かちがたくつながっています。


・・・って言われてもピンときませんよね・・・

私もこのことは数年前から
言葉ではわかるけれど、
でもピンときていませんでした。


この約一年、科学哲学を学んで

やっとぼんやりわかってきたのです

「客観的」にみて、世界と自分は別、

世界という背景に 自分という一個の人間がいる

というようにしか思えていなかったのですが


そもそもその「客観的」というのは何か。

自分が死んだら世界は終わりです。

だってもう知りえません。


そして世界がないなら、自分もない。

つまり、「客観的」になんかなれないのです。

だいたい、世界をどう見ているかも
私たちは頭の中に世界を写すように認識していますよね。

見る人によって、同じものも見方が違います。

つまり、厳然たる客観的な、誰がみてもまったく同じもの

なんてありえないのです。


それは「正義」だってそうです。

誰が見ても正しいものが存在しないなんて

子供時代は知りませんでした。



つまり
自分を知るには

世界を知るのがひとつの方法となります。


私はこの3年、世界を少しずつ学びました。

そして

自分を知るのです。

それは、こんな性格だとか

それ以前に


そもそも自分ってなんだ、ということからです。



先日友達に、

なにか面白いことないかな、と言われてハッとしました。


私も同じように生きてきたのです。
つまらない日常をなんとかしたくて
恋をしたり旅行に行ったり。(しかも食べる寝るしゃべるがメインの旅)

でも今は
日々面白いことで満ちています。

それは日々新しい学びがあるからです。

自分が世界を知らなかったことへの驚き。

自分が知っていると思っていた
子供時代に習った知識は今ではもう古かったり(汗


そんなこと知っても意味ない、と思いますよねきっと。

でも

生きて死ぬまでに人間ができることなんか

自分を知るくらいのものです。
つまり世界を知るということです。

こういうのを、子供に教えられたらいいのになと思います。
(自分が、という意味ではなくて)

子供時代にこれを知っていたら世界が広かったはず
つまり自分というものも、もっと大きかったはずです。


世界が、自分が大きければ
日常のどうでもいいことなんか、

ほんっとーーーーーーーーーーーーーーーーーーーにどうでもよくなります。


もちろんどうでもよくないこともたくさんありますがw

どうでもいいことの方が多いくらいです。

自分がつい一年位前まで悩んでいたことなんかを思い出すと

ばかみたい・・・とつくづく思えます。


どこから学んだらいいのかわからない、という方には
歴史から
と言いたいです。

いえ、その前に

歴史とは何か

からです。


知っているようで知らないんですよね・・・。

それを知っている人と知らない人では
話す内容が全く違います。

そしてそれは全ての知識(といっても難しい知識だけでなく)の
基礎にあることなんですよね・・・。


お気に入りのここちよいカフェの本とか
ケーキの本とか

そういうのを
読書にカウントしちゃいけませんw

自分が広がらないので。


そして
あんなに描きたいものがなくなっていた私が

最近は描くもの
というか
描くテーマみたいなものが

掴めてきました。


それは、うまく言えないのですが
自分の核みたいなものです。

たぶん、
自分をみつけたんだと思います。



いかがでしたでしょうか。

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仕事の悩みとは

ロゴスの小径へようこそ。

仕事の悩み、といえば
人間関係が起因していることがほとんどですよね。

まあ、仕事に限らずですが。


人生の悩みの90%は人間関係から、

と、とある人に言われて

その通りだ!!といたく感動したのはつい3年ほど前なのですが



実は現代人の悩みは
それに収まらないそうです。


以前であれば、世界はとても狭いものでした。

平成生まれの皆さんにはピンとこないかもしれませんがw

携帯もない、
特にインターネットのない社会では

その交友関係だけでなく

世界そのものが狭かったのです。


毎日接するのは会社の人だけがほとんど

(実際に会う人は現代でもそうかもしれませんが、
SNSなどで常に誰かしらとつながっていますし

つながっていなくても、情報は得られますよね、簡単に)


そして仕事自体も

パソコンがほぼない時代ですから


(いえ、もちろんありましたが
PCを使用する部署、というのがありました。
その他の人はせいぜいメールチェックするくらいでした。
そのもっと昔はもちろんメールすらありませんでしたw)


手作業の仕事が多く、効率が悪いわけです。

つまり、たくさんの人の仕事のほとんどが
頭を使う仕事ではなく
実作業だったのです。

ファイリングひとつでも、コピーをとってパンチで穴をあけて
ファイルに通して整理、

伝票も手書き、

なんてやってたわけですから。


ですから人と人の能力の差は
まあもちろんありますが

現代ほどではなかったそうです。
言われてみればそうですよね・・・。

私はデザイン業界にいたので
常に創造力を問われてきましたし
能力の差は歴然なので
複雑な思いもしてきたものですw


けれど、半年だけ
一般事務というのをしたことがありました。派遣で。

そのとき、びっくりしました・・・

お給料もたいして変わらないのに
なんて楽なんだ!!!と。

大手の電機会社の営業事務だったのですが

電話を受けて伝票に記入、
それをPC(といってもものすごく簡単なソフトでした・・・)に入力。
あとは電話したりFAXしたりコピーしたり。

一日の仕事はそれだけ。
それでも時には残業するくらいに忙しかったですがw

同じような業務の人がたくさんいました。


能力の差なんて、だから問われないも同然です。

となると、仕事の悩みなんか人間関係くらい、ということになりますね。


まあ、もちろん当時でも
仕事のうんとできる人はそういう次元ではなかったのでしょうけれど。



けれど現代では
どんな仕事にも創造性が必要ですよね。

事務仕事一つでも、
エクセルを駆使して業務時間を短縮させたり


どんな仕事でも、
PCが代わりに作業をしてくれるようになった分、
創造性、というような能力を問われるようになったそうです。


そしてさらに

そういう個人の能力で成功した人、というのを
私たちはネットですぐに見れるようになりましたね。

以前はそういう人は、テレビに出たり新聞に載ったりというような
自分とは違う世界の人でした。

いえそういうメディアに乗らなくても
自分とは接点のない世界の人だったはずです。

それが今では
ブログで読めるようになったり
SNSなどでつながることもできるようになってしまいました。

となると、悩みとは

人間関係だけではすみませんよね。


そうです。
自分の能力の無さを、知ることになってしまったのです。


仕事のストレスとは、
人間関係のストレスだけではなく
自分の能力の理想と現実のギャップも含んでしまうのです。


ネットで、
自宅で好きな仕事をして
成功している人、なんかを見て

自分はそれに及ばない

なんていうのを目のあたりにしてしまうんですね。


現代人はストレスに弱い、なんて言いますが

当然ですね。

人間関係の摩擦だけではなく


自分の能力を自覚しつつ生きることに
なってしまっているのですから。



人間関係のストレスもそんなにないと思っているのに

何か仕事が苦しい方は

自分の能力の問題かもしれません。


自分の能力に合わない仕事をしていると
さまざまな仕事のハードルを越えられません。

ちなみに、
好きだから能力がある、というのではないそうです。

言われてみればそうですよね・・・。

好きだから、能力がなくても
たくさん努力して乗り越える、というようなものも
あるかもしれませんし

能力が発揮できなくても好き、ってあるかもしれません・・・が、
それは趣味の場合。

仕事、であるからには

少ないストレスでお金を得るためには

やはり能力は必要です。


まあ、趣味としての仕事、などもありますから
一概にはいえませんが。



なんだかこうして書くたびに
当たり前じゃん!というような話ばかりなのですが


きちんと考えるとハッとしてしまうんですよね。


他者との比較ではなく、自分の幸せを・・・なんて言いますし
本当に心からそう思います、けれど

他者と比較しやすい時代なんですね、
こうして考えてみると。


自殺者の増加、なんかも
そういうことと関係しているかもしれませんよね・・


というようなことを

今日はいろいろ考えてしまいました。



何かが皆様のなんらかのヒントになればいいなと思います。



いかがでしたでしょうか。

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言霊について

ロゴスの小径へようこそ。

言霊


というと、なんだか不思議な、そして素敵なイメージですね。
日本古来の
日本人ならではの風習というか。

発した言葉はそのまま真実になる

だから人を貶めるような発言は控えて
美しい言葉だけを使う。

なんて美しい習慣でしょう。

歴代の天皇たちが和歌を詠まれるときには
常に日本をほめたたえる和歌を詠まれたそうです。

それは、言葉が真実になるから。

やまとは くにのまほろば たたなづく あおかき やまごもれる やまとし うるわし

本当に美しかったから詠んだのではなく
(まあ、当時はどう考えても本当に美しかったのでしょうけれど・・・)

そうあってほしいという言霊なんですね。


とまあ、ここまではよく聞く話だし
普通の認識はここまでですよね。
私もそう思ってたし。


もちろんシニカルブログ ロゴスの小径はこれでは終わりませんw


まず

言霊は日本独自の日本古来の・・・と言いますが

あなたもそんな言葉を使ったことがあるのではないですか?

それ、何を根拠にしています?


実は、言霊信仰のような信仰は
どこの国にもあるそうです。
私はこれを去年知りました・・・ちょっと調べればそんなこと
簡単にわかることでしょうけれど

日本古来の、とどこかで聞きかじって
それをそのまま自分の言葉として認識しちゃってたんでしょうね・・


言霊信仰のない国を探す方が難しいそうです。
(大学で習いました)

私はこれを知ったときものすごくショックでした。

自分で認識しないで
うっすら聞いた言葉をそのまま信じて生きるなんて
奴隷みたいなもんです。


おまえは奴隷だ。
そういう生まれだ。
だから一生奴隷でいろ、そういうものだ

という言葉を信じて
奴隷として生きていると同じです。

論拠も知らずに

言霊は日本古来の・・・なんてフレーズを使ってたなんて
テレビCMのフレーズをそのまま使って話しているのと同じですね。


とはいえ、
他国と比べて言霊信仰が深く広まっていたのもまた事実のようです。

そのうえさらに

言霊は日本古来の・・・と例のアレを吹き込まれている私たちは
どうなっていると思いますか?


言葉を疑わずに信じる傾向にあるそうです。

自衛隊は軍隊ではない」
と言われれば、軍隊ではないんです。

(ちなみに私の個人的意見とは無関係です。)

日本は戦争を放棄している
と言われれば 放棄しています。

「景気は回復傾向」と言われれば
回復傾向です。

原発は安全安価でクリーンなエネルギーと言われれば
そのとおり。

なんて幸せな国民なんでしょう!!

(もちろん私もそこに含まれていますよ・・・)


頭のいい人、うまく稼いだり 人より抜きんでている人とは
そういうしくみをしってよくも悪くも利用できる人なんですよね・・・。

パナマ文書が発表されて

一部の人が税金を逃れるなんてずるい!

程度に考えていると大間違いです。

(というか、それにさえ興味ないでしょうか?)


人間は平等、といいつつ
実は平等ではない。

株で儲けることができるかどうかは
本人の能力次第、ではなく

そもそもの資本の差が違います

(インサイダーなんかもあるでしょうね・・・と簡単に想像つきますが
ない、と言われるのでない、としてるんでしょうねw)


でもその資本の差は、
持って生まれたものがほとんどですよね。

自分の能力だけで成功した人ももちろんいますよね。
そういう人が取り上げられるので
成功者=能力
と思われていますが

実際はそのほうが少ないのではないでしょうか。


人間は平等だ、というときに

昔と違って現代では

生まれの平等を指しますよね。

華族に生まれた人と平民では人間が違う

なんて今時言いません。

肌の色で、実際には差別はあっても

表向きは ない ということになっています。

生まれで貴賤は本来ありません。



としているので、人間は平等です。


といわれて、それを信じておしまい。


本当に平等でない部分はうまく隠せてしまうわけです。


武器を製造して海外に売っていても
戦争放棄している、といえばそれでOK

言霊万歳ですね!


当然と思い込んでいる言葉を
いったん疑うこと、吟味することから

奴隷状態から抜け出せるのではないでしょうか。


子供があきらかにいたずらをして
それが注意しないと本当にまずいようなことだったりして
(例えば火遊びとか?怪我につながるような)

「あなたがやったの?」ときいて

「やっていない」といえばそれを信じてOK,としませんよね?

まずはいったん吟味しますよね?


それと同じように
自分の言葉も吟味してみると

案外 子供レベルの言葉しか
使えていないことに気づきます。

言葉、って単なる言葉ですが

でもそれが人間を作っているものともいえるのです。

言葉とは、真理でもあるのです。
それは、ロゴスというものです。


いかがでしたでしょうか。
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パナマ文書の哲学的思考についてご興味のある方は
私の先生のブログをお勧めします。


こんな見方があったのか!!と。
税金払わないでずるい、程度の私とは違いますw

そこで語られるのは、人間の格差は人間が作るという問題です。

心をコントロールする3つの方法・2

ロゴスの小径へようこそ。

さて今日は
心をセルフコントロールする
3つの方法の続きです。

大学できちんと習った内容ですのでご安心ください。

ところで、情報が正確かどうかの判断は
難しいものですが

ひとつは有料である

ということが判断になると想います。
有料メルマガ、だけでなく
本を買うとか大学です習うとかね。

これについてはまた書きますが、
メディアなどの無料の情報は
常にアヤスィーと思って確認した方がいいです。

というか、スポンサーがいる、というのはどういうことか
ちょっと考えればわかりますよね。



さて
心を強くするには
自分の心をコントロールできればいい
その方法のひとつは学問、
世界を知るということでした。

心が弱いあなたへ
心をコントロールする3つの方法

ほかにも方法が2つあります。

それは、瞑想と、道を究めること、だそうです。

瞑想は宗教家の方でしたら
方法はさまざまでも、たとえば祈るとか
お経を一心不乱に唱えるとかで
触れると思いますし

宗教に関係なく
現代では脳科学的にも、瞑想の効果が
よくうたわれていますよね。

しかし瞑想は、
本気で行う場合は
キチンとした先生につかないと危険だそうです。

α波が、とかそういう科学的な利点は
つまり、物理的な利点はわかっていても

人間は機械ではないので

測定だけでは得られない影響も有り得ます。

具体的には、

心?が、どこかにいってしまって
帰ってこれなくなってしまうそうです。

原因は説明できませんが
実際そういう事例があるので
一般人にはおすすめしないというのが

宗教学の先生の教えでしたので
十分お気をつけください。


ひとりでできる簡単瞑想としては、

繰り返しの、頭を使わない単純作業がいいそうです。

例えば繰り返し床をみがく、などの
掃除など!

だからお寺など宗教の場では
掃除が修行になるそうです。
瞑想の実践の場なんですね。

無心に掃除をしたあと、気持ちがすっきりするのは
きれいになるからだけではなく
その行為そのものに、心をクリアにする瞑想の要素があったからですね。

写経とか
編み物なんかもこの類ではないでしょうか。

工場の、頭を使わないタイプの生産ラインなんかも近いらしいです。

繰り返しの作業でアタマがぼーっとしてくる、
それでいて冴えている、みたいな。

ちなみにこれを目指して
単純作業の、テンキーのみの数字打ち込みバイトというのをしたことがありますが

私は眠くなっちゃって無理でした(笑)

向き不向きがあるようです(^-^;


さてもう一つは

道を極めること。

弓道、茶道とか、道がついているとわかりやすいですが

もちろん道がついていなくてもいろいろありますね。


例えばスポーツ選手など

本当に道を究めると、野球選手はボールが止まって見える、なんて
逸話もありますが

なんとなく想像はつきますよね。

登山なんかもそうなのではないでしょうか。


そして個人的には
芸術一般もそうなのではないかと感じています。

描いているとき、
もちろん頭を使うことが実は多いのですが

ぼーっと作業しているときもあります。

例えば地塗りといって
下地となる絵具など一色を
紙の上にまず塗ったりすることがあるのですが、
そういうときや

うまく言えないのですが

ぼーっとしつつも集中している、むしろ頭は冴えている、というような

状態になるんです。


単純作業でも、本当はそうですよね。
掃除でも、編み物でも、
ぼーーっとしていると実際はちゃんと終わらないですよねw
そもそも手が止まりますw



これら三つの方法で
自分に合ったものを極めていく過程で

心の平穏が得られるということになります。

究極的に究めれば、「悟った」とか「解脱」となるそうですが
実際悟りを開いているのは人類史上、仏陀だけですから

一般人である私たちは
当然無理ですがw



この三つの方法に共通していることってわかりますか?


人間て、常にいろんなことを考えてしまっているのですが
95%は過去のことを考えているといわれています。

考えてもしかたない過去を
それが楽しいならまだしも

後悔したり
つらいことを何度も頭で反復したりすることで、

悲しみや
心をさらに揺らしているのです。

その状態から少しでも脳を開放できれば
ストレスが軽減されるそうです。

それには、
なにも考えない、という状態が効果的だそうで。

でも、ぼけーーーっとしているだけだと
結局気づくと何かしら考えてしまっているんです。
意識してみてください。
ほんと、どうしようもないことや
昔のことなんかを
ぼーーーっと考えてたりしますからw



ちなみに、
たまーーに思い出して掃除に集中、したくらいでは

ちょっとそのときすっきりするかもしれませんが
たいした変化はないですよね。

だからこそ、お寺では毎日毎日修行として掃除するわけで。


やはり私には
世界を学ぶこと、が一番楽に思えますw


世界は
自分の思った通りで「あるべき」と思うと
生きにくくなるんですよねー。

世界は徹底的に不平等にできていますし
そこを認めないと
摩擦が起きます。

とはいえ、程度はあれ、ある意味それは
「あきらめ」のようなものを含まざるを得ません。

それが心の平穏につながっていることも
確かだと思います。

「大人になる」という感じでしょうか。

なので、それは虚しいとも言えると
私は考えます。

喧嘩になるから言わずに黙っていよう、と考えたりね。

純粋な子供時代は
そのまま即喧嘩、怒りをぶつける
(仲直りも簡単と言えますが)
自分の思ったことを通そうとする

まわりとの摩擦はあるでしょうけれど、
「純粋」「自分に正直」といえば、確かにその通りです。

それはどちらがいい、とは実際は決められないものですよね。


テレビで、熊本の被災地を不躾に取材して中継した、というようなことに
非難が集まっているのを最近facebookなどで目にしました。

そういうのを見ると、本当に腹立たしいと思うし
ひどいと思うし

そこに怒りのコメントを寄せている人も多かったです。

しかし、
被災されたご当人は別として

実際私たちができることは
テレビってひどいよねと、情報のままに怒ってコメントすることより

そのテレビを見ないことが一番です。
(ワイドショー仕立てのテレビ番組でなくても
情報は得られますから)

だって、テレビってなんのために無料なんだと思いますか?

広告を見せるためですよね。だから視聴率が重要なわけで。

広告を出すのは、企業です。

つまり、テレビに視聴率のために、あんなことをやらせているのは
スポンサーと

テレビを見てしまう市民
ということになりませんか?

ワイドショーのような番組を
ひどい!といって怒る。

でもテレビは見る。
スポンサーの製品は買う。

視聴率は得られて、製品も売れるのですから

マスコミ側は問題ない、ということになります。

ひどい番組だ、といってうわさが広まることで
むしろ注目があつまって
視聴率が伸びる、ということもあることです。


・・・というように
世界の本当のところ(さぐっていけばもっともっと深いし、
いろんな問題が出てきます。もちろん私の知識なんかものすごく浅い、一部でしかありません)
を見て、言動できるのか

自分の思ったそのままの世界(テレビをみて、こうなっているんだとそのまま飲み込んで
怒ってコメントしてしまうような)が
本当の世界だと思い込んで生きるか。

ひどい!!と心を揺らすだけ揺らして
結局視聴率にも貢献、売り上げにも貢献

それよりも
テレビはみない、スポンサーの製品も買わない。
その分のお金を寄付にまわす

というような冷静な判断が
知識があればできる、ということですよね。

(これはひとつの例であって、なんでもそうです)



いかがでしたでしょうか。

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心をコントロールする3つの方法

ロゴスの小径へようこそ。

心が弱い
すぐに心が揺れてしまって
自分でコントロールできない。
心を強くしたい。


祈ったり
決心したり

何度も繰り返したもののw
効かなかった方へ


具体的にどうすればいいのかの
3つ方法があります。

安心してください。(笑)
ちゃんと大学の講義で習ったものです。

一般人が勝手に私はこう思います、と言ってもね・・・
まあそれで効果があった!という方はそれでいいと思います。

そういう方は、このカルトなブログは(笑)
そもそも読まれないですよね(笑)


さて
心を強くする、とはつまり
自分の心をコントロールできるということですよね。


どんなに祈っても
決断してノートに書いても(笑)

世界が変わる訳がありません。
まあそういう立場の人なら別ですが。
国家の未来を左右できるような。


世界が簡単に変わらないとすれば、自分が変わるしかありません。


えーまたそれ?

いろんなところで読むけど、
自分を変える!って決めても変わらないし・・・

ですよねーー!
私もでしたw


で、実践版 自分を変える、つまり
セルフコントロールできる自分になる方法です。

三つあります。

一つ目は昨日お話した、

知識を身につける

心が弱いあなたへ


ということです。

繰り返しになりますが、知識とは、お勉強ではありません。
自分が、こうだったらいいのにと思う世界と、
いま、生きている
現実の世界は違います。

学ぶのは現実を知る、ということです。

もちろん、世界を変えたい、と思うのは正しいと思いますし、
願わずにはいられないし
人間の努力で実現することもあります。

でもそのためにも、 
現状を正確に把握することが必要です。

それは何でもそうですよね。

現状を正しく理解してこそ
対処法が見つかるわけで。

そして現状を知るには
知識が必要ですよね。まずはそこからです。

そうそう、昨日書き忘れた事が!

知識を得ると、人と話すことがむしろ減る理由として
反論や指摘が面倒になることと、
相手の話を聞く方が楽しいし勉強になること
をあげましたが、

一番は
自分の無知に気づくからです。

人は自分の思い込みで
意見を話します。

けれど、自分の知識なんかたいしたことないと気づくと

語れなくなります。

下手に話した自分の言葉。
よくよく考えると何の根拠もない
自己主張だったりします。

自分でも驚くほどですよ。意識してみるとわかります。
それまで、どれだけ自分がいい加減に言葉を使っていたかということが。

きちんと話をしようとすると、
本当に言葉を選ぶことになって
軽はずみに語れなくなります。

このあたり、プラトン
ソクラテスの弁明』

を読まれることをお勧めします。

私が初めてキチンと読んだ哲学書です。

(ちなみに、解説本だけ読むことにあまり意味はないです。
大学でレポート書くには必要ですが(笑) )

私はそれで世界が変わったなー。 
メカラウロコ、ほんとに出ました(笑)




さて、
だけど学問はどーーーーしても無理、という方。
安心してくださいw
あと二つ方法があります。


それは、瞑想と、道を究めること、です。(道、すなわち 弓道、とか茶道、書道とかですね)

この二つについての詳細は
明日以降(以降、ってあたりが保険w)
詳細をお話しします。

とはいっても
お寺に瞑想しにいったり
弓道始めないといけないわけではないのでご安心くださいw
(もちろんそれでもいいのですが)


この話、
実はなんどかここに書いています。

もし、前も読んだっけ!

でも何もしてなかった!!という方

わかっていてたまに意識しつつも理由があって
敢えて何もしなかった、なら別ですが


忘れてた・・・

というような方は、多分この先ももう無理だと思いますw
読んだときだけなんかいいような気がする!で
終わり。

決めたらやる、が実行できない方には
向かないと思います。

そういう方は、むしろスピ☆ な方法で
祈ったり紙に書いて持ち歩いたり・・・の
例の方法がいいと思いますよ。


それすら面倒、というのなら
今のままでいいと思います。

というのも、

心がジェットコースターのように

喧嘩したてとか
失恋したてみたいなねw

そんな風に揺れてしまう人は

忘れようとしても忘れられません。

常に自分が辛くて
次々 心理学の本とか
成功哲学の本とか読んじゃうんですからw

そういう方にこそ、
効果があると思います。

そして
そうではなく、忘れてしまうような方は

そこまで気にしなくていいと思います。

心が揺れたことすら
忘れてしまうということですから
そんなにつらくないんだと思いますよ。

心を揺らして生きることが悪いこと、ではありません。

めいっぱい
人よりもたくさん

喜んで
悲しんで

自分の知っている世界をありのままの世界だと思い込んで

心を揺さぶって生きることこそ、
生きる、ということ、とも(ある意味)言えるのですから。

安心してください。
ものを知らなくても、誰もそれをいちいち指摘したりしません。
(身をもって実証済み・・・涙)


・・・
まあ、私はヤですけどw


いかがでしたでしょうか。


どう考えても少数派ブログですので(^-^;
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心が弱いあなたへ

ロゴスの小径へようこそ。

心はいろんなことで傷つきますよね。

昔の私はガラスのハートでしたw


人の言葉にビクビクしていたように思います。
(まあ、そうは見えなかったと思いますが(^-^; )

気の強さは弱い心の裏返し、とよく言いますが

私自身もそうだったような気がします。


私はおしゃべりを自負しておりますが

それも自分の言動をかばう言い訳をしていたような気が
今はしています。

沈黙は金、といいますが

なぜ人は黙っていられるのかが不思議でした。
議論になれば自分の意見を通すように発言しないと気が済まないし

人と会えば話を聞くよりも話すほうが断然多かったし
聞いてばかりだと損をしたような気持にすらなったものですw

考えてみればそれも
自分の非を認めたくない、自分の正しさを訴えないと気が済まない、の
裏返しだったんだなと今は思います。


・・・これ↑、本当に自分だろうか?( ;∀;)


ブログは、

わざわざ友達を捕まえて聞いてもらうのは申し訳ないような話も
気軽に書けるし
書けばすっきり頭も気分もまとまることがあるので好きなのですが


たまにくるひどいコメントが怖くて
その度に心を傷つけたりね・・・

スピリチュアルブログ書いてた頃は
変な人がコメント書いてきて怖かったなあ・・・違う意味でw


自分の意見を否定されるのが怖かったんでしょうね・・・。
でも言いたいから書いちゃうしw


そんな私がここ数年

本当に強くなったな・・・と思います。自分比ですがw


なぜ強くなったのか。

それは学んだからです。


学んだのはもちろん、小手先の心理学じゃないですよw


心を常に傷つけて
人間関係で悩んでいた頃は

人とうまくつきあう方法系の本を
やたら読んでいました。

でも、読んだときはうまくいくような気がしても

結局同じなんですよね・・・変わらない。
まあ、当たり前ですね。

心理学の手法は、その根底にあるものを知ったうえでないと
使えないと言ってもいいです。一時しのぎでしかない。

心理学を勉強しています、なんて言う人が

いや、どうみてもあなた自身が悩み抱えまくりジャン・・・
なんてパターン、多いですよねえ・・・w



あ、話逸れましたw



4年前、大学に編入
たくさんのことを学んできました。


それは多分まだまだ浅いけれど、でも広く。


学んだのは、世界のことです。人間も含めてね。

この世界は、どういうふうにできているのか。


科学的にもですが
経済的にも、政治的にも、心理学的にも、歴史的にも。

人間が作る、この世界とはなにか。

それを認識するとはどういうことか。


そのベースが哲学なんです。
(哲学は、昔は科学も政治も心理学も歴史も宗教も全て含んでいました。
それが分岐して、今の各学問になっているのです)


そういうことを、リアル大学時代にw
ちゃんと学んで気づいている頭のいい人もいますよね。

いえ、大学に行かなくても
書物などから十分学べます。

14歳あたりから世界のことを理解できるようになるそうですので

(自分でそれが哲学という分野だと理解していなくても)


若いころから心の強い人は
そういう人なのかもしれません。


ところで、心が強い、とは
何かひどい言葉を言われたら、同じような言葉をさっと返したり
傷つけられたらその分言い返したり


というものではありません。

恐らく自分はそれだったんだな、と今は思います。

けれどそれは虚勢にすぎません。



世界を学ぶと

人の言葉が理解できるようになるんです。


理解というのは、
内容がわかるようになるという意味の他に

この人の話していることは何の根拠もないことだとか
理論が破たんしてるな

とか

そういうこともわかるようになるということです。



一番多いな、と感じるのは

人は単なる「思い込み」で意見をしてくることや、


根拠のない自分の意見を押し付けてくることが多い

ということです。


例えばこのブログも、
始めたばかりの頃


ニーチェの言葉の定義として
これはこういう意味です、

と書いても


自分はそう思いません、それはおかしい

みたいにコメントくださった方もいらっしゃいましたね・・・


いや、自分がどう思おうが勝手ですが

ニーチェが言った言葉を説明しただけで私の意見ではないし
その説明が間違っている、という意見ならまだしも・・・。



案外多いですよ、こういうの。


自分がこう思うというのは勝手ですが、

言葉の定義として語っているような話に
自分の意見を押し付けてくるのは


これは米というもので日本人の主食と言われています、と説明しているのに対して


いや違う、自分はラーメンが主食だ!
だから日本人の主食はラーメンだ!


と言っているのと同じです。


いや、私がラーメンを否定しているのではなくて
日本人の主食は米でしょう、パンが増えた昨今だとはいえ。

その一般論が通じないという感じですね。


こういう言葉は、どんなに強く言われても
論破できますよね。

統計では日本人の何パーセントが米を主食にしている、
だから主食は米なんだよ、でも
ラーメンもおいしいよね


と大人の対応ができてしまうわけです。

なんなら、

あなたがラーメンだと言う根拠を理論的に話してください


と意地悪してもいいですよねw



もう一つは思い込みです。


テレビでみたような情報をそのまま信じて思い込むわけです。


例えば、私の大学の先生が、
何度もブータンに足を運びフィールドワークをされてきて

現地のお話しなどをお聞きできたのですが


テレビでよく見る、あの美しい民族衣装。


あれ、普段から着ているわけではないそうですw
取材用なんですって。

テレビなんかが来た時には、着用することになっているそうです。



そんな事実はちょっと調べればわかることです。

けれど、

「それはおかしい!あの国は、世界一幸せな国民なんだよ!」と

学術的な根拠どころか、
自分が見たことさえないのに

テレビやnetの情報だけを鵜呑みにして
それを真実だと思い込み

更にそれを自分の意見、自分の見聞だと思い込んで
主張してきたりする人です。


これも驚くほど多いですよ。


テレビのCMなんかもねー、
もちろんやらせというか、そもそもCMですから!w

仕込みはあるわけですよ。

無い方がおかしいです。

にもかかわらず、

あれは本物だ!と感動してたりね・・・
まあ感動するのは勝手ですが、


あれは本物だ!と根拠ない主張・・・


やらせの根拠はちょっと調べれば出てきますよ。
というか、スポンサーや代理店側も
そもそもそれを隠蔽しているわけではありませんからw


自分の思い込みと
根拠のない意見の押し付け


声高に叫ぶ人の話の内容はほとんどがこれです。


でもねー、
こうして人の話がある意味理解できるようになると


反駁も簡単なんですが
(あ、そういう人への、ってだけですよ(^-^; )


むしろ何も言えなくなるんです。

だって説明面倒だしw

解説してあげる義理もないし。


沈黙になってしまうのは、そういう理由からと、


あともう一つ。

この世に「正しいこと」なんてないんだと言うこと。


自分が正しい、と思うことはあっても。


だから
人の話に反論する、ってよほどの根拠がないとできません。

自然語れなくなります。

それに


自分の話をしても、自分の知識は広がりませんよね。
確認にはなっても。


人の話を聞くと
自分の知らない世界が広がります。

それはとーーーーっても楽しいこと。


くだらねえ会社の愚痴であっても
ある意味おもしろいですよ。

いえ、話の内容はつまんないですがw


この人はいったい何を主張しているんだろう、と思って話を聞くと
それはそれで面白かったりします。

それに対して意見もアドバイスもないですけどねw
言ってもたいてい

「でも・・・」と言う言葉が帰ってきて終わりですからw


って、なんか自分て嫌な奴、って感じですがw


心が弱い
傷つきやすい

と思う方は


知識を学ぶといいです。

それはある意味簡単です。



心を奮い立たせて強くなりなさい、とか


私は強い、と唱えれば叶うとか


そっちの方が難しいですよw


知識は誰にでも学べますから。


理論立てて、

マスコミの聞きかじりではない
思い込みではない
話ができる人は実は案外少ないです。


そういう話ができない人に何を言われても
心は傷つかないですよ。

言い返してあげる気力もなくします。


きちんと議論できる人は
それが議論であり、感情的なものとは別物であることを
ちゃんと理解していますから

お互い意見というか認識が違うことがあっても
話し合いができます。
それはとても楽しいもので


必死に自分の正当性を説得するように話すのとは
大違いです。


こんなことを今更知るなんて・・・
人生無駄にしてきた期間のなんと長かったことか・・・汗


しかし、それでも

遅まきながらも気づけてよかった・・・と思います。



知識を学ぶコツは、

最初は浅く広く、です。


知識、というと暗記、お勉強、みたいに思ってしまうかもしれませんが、
そうではないですよ?


いったん自分の思い込みを捨てて、
世間では何が正解、とされているのか

というあたりを学ぶという意味です。


知らないから、怖い。
知らないから、誰かに何かを言われるときちんと反論できなくて
怖いだけなんです。




いかがでしたでしょうか。


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人間は、モノじゃない?

ロゴスの小径へようこそ。

生物と、モノは違う!
人間はモノなんかじゃない!

陳腐な漫画のセリフのようですがw
案外単純にそう考えている人が多いですね、って
私もそうだったんですがww

もちろん、人間とは何か、を物理だけでは説明できません。

魂だか心だかなんだかわかりませんが、
そういうものが無いとは思えませんよね。


けれど。

人工の臓器がどんどん開発されていったら?

人間の脳だけを、機械の体に入れてみたら?

いま現在の科学では無理でも、
いづれは可能になるように思えませんか?

いえ、脳でさえ

さまざまな記憶を保存できたら?
それも、「まるで生身の人間の脳のように」
一部忘れたり、誇張されたり、というようにプログラミングして
保存したら??


人工知能などがいろいろ議論される昨今ですが、
いったいどこまでが「人間」なのでしょう。

私たちがモノを見るとき、
それは光が電気信号になって脳に伝わり、
そして脳内で像を再生しているんですよね。

それはどう考えても機械にもできそうです。

悲しみや喜びなどは動物特有、とも言えますが

しかし

例えば「悲しくて涙がでる」というようなときってどういう反応なのかご存知ですか?

悲しさを感じる→脳が涙を出すように命令する→涙が出る

と思いませんか?私はそう思っていました。
しかし脳科学のクラスで知ったのです。

実際は、ほんの少しだけ、
体の方が早いそうです。つまり

涙が出る→脳が悲しいんだと理解する→悲しい

なんですって!!!

つまり、体の反応の方が脳よりも先なんです。(科学的に実証されています)

機械の体に入ったとして、
機械的に涙を出せば
悲しい、と感じてしまうわけです。


となると、

やはり生物と物理の境目はあいまいです。

繰り返しますが、
だからといって全て物理では説明はできませんよ?
それは現代の科学でもそうです。

(ただしこの先はわかりませんが)

人間とは何だ、何のために生きているんだというのは

実は遺伝子を運ぶ入れ物に過ぎないのでは?という説もあります。

というと怒っちゃう人もいるのでそれが面白いですがw
それを理論的に反論することもできないのにw

だとしたら、入れ物は機械でもいいということになりますね。


ドリーを創れてしまった時から
原理的には人間も創れてしまうわけですから

クローンでもいいかもしれません。機械よりもコスト安いかも?w


こういう時代だからこそ、
倫理が大事なんだそうです。

人間が、未来を考えて決めていくんです。

今もそうだ、と思いますか?
まあ、そうなのかもしれませんが

いま世界は経済が未来を決めていますよね。
戦争ですら
宗教ですら
経済で説明できますから。

経済、ってでもなんなんでしょうね・・・

人間が自分たちで作った印刷物や金属や
地球の希少な石を奪い合う活動

と、究極的に言えなくもないです。

そう考えるとなんだか虚しくなりますよね。

倫理が世界を、人間の未来を決めていけるようになれば
虚しさは少しは和らぎそうですが

宗教戦争がなくならない時点で
それは無理な気がします。

こういう話をするとドン引きされる昨今ですがw

少なくとも、上司の愚痴を延々と話すようなことが
くだらないことに思えることは間違いないですw
(GW中、ランチで隣の席の女の子が、二時間近く会社の愚痴を・・・すごかったw)


相変わらず、スピ系のカテゴリにいていいのだろうかというブログですがw
(というかセルフコントロール自体、お手軽スピでは難しいと思います。
私は幸せ!と自己暗示かけるのにも限界がありますよw)

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自分を超える。

ロゴスの小径へようこそ。

大学の
私のニーチェの先生が急逝されてから
なんだかニーチェに触れるのが辛いと言うか。

そんなこともあり
科学哲学を中心に学んでいますが
最近またニーチェに心が戻ってきました。

科学哲学で考えることは
大きく分けると三つ。
簡単に(そしてわかりやすく、大げさに)言うと

世界とは、どうあるか(なんなのか)
世界とは どうあると考えられるのか
世界とは どうあるべきか

というようなことです。

世界とはどうあるか、は

そのまんま、

この世界、というものとはいったい何なんだという問いです。
人間とか全てを含めて。

私たちは、自分がいなくても
「世界」という入れ物というか、背景みたいなものがあると
信じています。
しかしそれは本当でしょうか?

自分が死んでも世界はそのままそこに存在する

と 言うことさえ

私たちにはできません。
だって死んでしまうんですからw

誰一人、それを証明できないですよね。

屁理屈みたいですが、しかし厳密にいえばそうなります。


よく、臨死体験、とか言って
トンネルを通ると花畑が・・・なんていいますが

あれは脳に酸素が行かなくなると
見てしまう現象とも近年言われていますし

そもそもどんなに死にかけても、
戻ってきて生きている人は科学的・哲学的定義では「死んでいません」。

死んだ人は戻ってこないのです。

となると、

二番目の
世界はどうあると考えられるか、つまり

私たちはどう世界を認識しているのか

を考えるしかなくなりますよね。



そして三番目の
世界はどうあるべきか。

これは倫理の問題です。

まあ、その元は知識、ということになりますが

つまり


世界はものすごく残酷で不平等なもので
人間は戦争で殺しあう愚かな生き物だと私たちが認識しているとして
それが世界の、ある意味本当の姿だとして


けれど、

世界は平等で、皆が愛し合うべきだ、

とする考えもできるわけです。

そしてそこに向かうのがベストとも言えるのかもしれませんが


どうあるべきだ、という定義もまた難しく
人や国によって違うので

そこでまた戦争になっちゃうわけですねw


戦争して殺しあう虚しい生き物。

これっていったいなんなの、
なんのために世界なんかあって人間なんかいるんだ?ということになると


1番目の、世界とはなんなのか

に戻ってしまうわけです。


そうです。これは哲学の根底の問い。
つまり答えはありません。

人間の意志の力で、3の、倫理を実現できそうなものですが

実際できていないのが世界なので
今後もできないでしょうね。

もちろんそれでも努力は必要だと思いますけれど。



さてそんな風に考えていると
結局は、
人間は短い一生を何かをして生きるしかない。

何か、とは人それぞれでいいのですが

ニーチェ
自分を超えて生きろ、と言うわけです。

とはいえ、
ニーチェの文章自体は
そんな生ぬるいものではなくw

ほとんどの人間はそれができずに
そこから目を背けて生きている、ということになります。
自分がいかに、生きる価値もないような生き方をしているか
読むたびに身につまされます。

が、ものすごく
一般市民(ニーチェ言うところの末人)に引き寄せて考えると


例えば陶芸家が
ものすごい練習と経験を積んで
その道を極めている、とか

ああ言うのに似ている気がします。

お金を稼ぐためなら、そこそこのものが作れればそれでいいはずなのに

自分が気に入らないと、
たたき割っちゃったりしてねw

そもそも、それが売れている人とは限りませんし。

でも、自分の納得したものでないと
我慢できないわけです。


それは他のことでも同じです。
スポーツだってそういう側面があるでしょうし

なにかの修行、ってそういうイメージですよね。

おいしいラーメンを作るための本気のスープづくり、なんかも
そんなような気がします。

勉強もそうかもしれません。


そうなると、なんでもいいような気がしてしまいますが
なんでもいいんですw

ただし、そこに必要なのは
「本気度」だと思います。


本気で、自分の限界を超えるような何かに
打ち込んでいるのか。

それが自分を超えていくということで
人間が生きる意味です。

他人がどう見るかとか
他人の評価とか
そんなものはどうでもいいし、後でいいんです。

まずは自分が超えられるのかどうか。


最近、制作を再開して
やっとその意味がわかるような気がしてきました。

以前は明らかに
他人の目(個展しようかな?人に見せたい、先生に褒められるように描こう、
公募に出そうかな?出したら入選するかな?などなど)とか
売れるだろうか、とか売れるように描こうだとか

そういうことを考えずにはいられませんでした。

純粋に絵を自分なりに追求していくことは
もちろんしていたはずなのですが

やはり、大学で学んでいる間は先生の目を意識しますし
私は社会に出てからずっとデザインやイラストの仕事をしていますから

それは人に見せる、見てもらうが大前提のものですので

自分なりに追求、というあたりが
難しかったように思います。


それに、今は昔と違って
「展覧会で賞をとれば画家になって有名になれる」的なルートは
少なくても日本にはありませんw

そのルートも、なくはないのですが、
どこの大学を出て、何先生の下で学び、
先生と同じ会に入って・・・というような

政治家みたいなwルートを経ないと得られないものです。

純粋に絵が上手ければ優勝する、というわけではないのは
フランダースの犬の時代から変わりませんw

まあ、そんな事実も私は
つい数年前に知ったのですがw


となると

何のために描くのか?

は、

自分を乗り越えるため

になってきます。

私にはそれがつまらないものに思えて
売れるような絵(イラスト)を描いてきたわけですが

売れるように、と描く時点でもうそれは
仕事です。

仕事であれば純粋に追及はできなくなります。当たり前ですよね。
追求するのは利益、になるわけですから。


まあ、それもあって昔から
芸術家は家がお金持ちでないと成り立たなかったわけです。
道楽ですねw 哲学だってそうですw


そうなると、描くことはもう楽しいことではなくなります。


まあ他にもさまざまな要因から描くことを中断してしまい

つい先日まで、もう描かなくてもあとの人生は哲学や読書で埋めるだけで
埋まっちゃうし幸せだからいっかー

なんて思っていたくらいです。


しかし先日
何を描いているのかに

やっと気づけました。


そして
自分を超える、その何かをつかむためには
妥協、なんてありえないんだと言うことや

人に見てもらうとか評価とか
そんなことはものすごく言ってみればどうでもいいことだった、

ということにも
今更ながら気づいたわけです。ああハズカシイ・・・

そんなものは、できちゃったものを
見せるなんなりすればいいんです。

見せるためのものを創る、と思った時点で
それはもう 純粋な芸術とはどこか違うものが混ざりこみます。


先日も書きました、大学の先生がくれた言葉。

もう一つあります。


もう描くのはやめるかもしれない、その価値を見いだせない、
と言った私に


では、あなたが美を求めているカどうか、ではなく

美の方があなたを求めているのか、を意識して描いてみなさい


と。



私は私の中にある、美を試す。

自分が満足いく作品が描けないなら
私の中に ミューズの女神はいなかった、ということになります。

それならもう描くことはやめて、
他人の素晴らしい作品を鑑賞した方がよほどいい、ということになります。


ちなみに
自分の趣味で、好きで描いていればいい

と割り切って描いている人は、そのままでいいんですよ?


週末の日曜の同僚との野球を楽しみにしている人は

プロの試験を受けるために猛練習を摘んだりしなくてもいいわけですw



そういった意味では、哲学他の学問が
私にはそうです。
別に死ぬほど追求して大学教授になろうとは(なれるかどうかは別の話ですがw)
全く微塵も思いません。

つまり、趣味程度で幸せなので、これでいい、ということになります。


そうではなくて、
自分を超えていくもの、というのを
自分の中に見つけて、それを超えようとすることだけが

突き詰めると「無」であるこの世界での

生きる意味

ということになります。


たまに、大成功したアイドルとかが、
そのままそこにいれば誰が見ても幸せなのに

急に職を変えたりして、人に忘れ去られていく、って
あるじゃないですか。

ああいうことなんだろうなと思います。

人がどう評価して、
どんなに称賛されても

自分だけはわかるはずです。
それが、自分を超えていくためのものかどうかが。

だから、成功していても
そこに留まることに意味を見いだせなくなっちゃうんでしょうね・・・。

もちろん、俳優として一生追求する、というように
それがその人の道である場合もあるので、
どちらか正しいというわけではないと思いますが。


お金につながるかどうか
人に褒められるかどうか

を基準に考えると
それは掴めないような気がします。

(もちろんそうなった方がいいに決まってはいますが、
それは後になってついてくるおまけみたいなもの、と言う感じがします。)


ちょっと話したいことがいくつか入り込んでしまいましたが
またおいおいテーマ別に思考してみたいと思います。

うーん、なんだかこのGWで自分がまた変わったなあ・・・


いかがでしたでしょうか。

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「嬉しいこと」を創り出す

ロゴスの小径へようこそ。

「幸せ」になりたい。

誰もがそう望みますよね。
もちろん私もです。

けれど、「幸せ」っていったい何でしょう?

それは人によって違うもの、と言葉で言うのはものすごく簡単ですが
実際突き詰めると、幸せ、とはものすごく難しい定義です。

誰かの幸せ=自分の幸せ

とは限らないですし

今日幸せなことが、
明日も同じように幸せとは限りませんよね。

今日は暑くてアイスがおいしくて幸せ〜〜!
でも
明日は寒かったら、アイスを食べても幸せな気持ちになれないかもしれませんし

一緒にいるだけで幸せ、
だったはずが、何年か経つと・・・(笑)


先日大学時代の先生にお会いしたとき、
良いお言葉をいただきました。

幸せを見つけるのではなく、
「嬉しいこと」を見つけるといい と。

なーるーほーどーー!

と思いました。

嬉しいことがあれば、=幸せ、とも言えますし。


しかしここで うれしい、という言葉が気になります。

嬉しい、とは楽しい、とは違うのか?


調べてみると、嬉しいというのは、

自分が望んだことが期待通りになったときに使うというニュアンスがあるようです。

試験に合格して嬉しい であって
試験に合格して楽しい ではないですよね。

それは試験に合格することを望んで期待し、その通りになったからです。

普段ふつうに使っているはずの日本語も、定義を考えてみると難しいものです。


そう考えてみると、
嬉しい=願いが叶う=幸せ
とも言えますよね。

幸せ探しは難しい気がしますが、
嬉しい、を探すのは毎日できそうです。


そしてちょっと気づいたんですが

嬉しい

にも、サイズがありますよねw

今日は電車で座れて嬉しい

程度の嬉しい、もあれば

国家試験に受かって嬉しい

もあるわけですし。


考えてみると、嬉しい の度合いは

頑張った
もしくは

期待の大きさに寄るような気がします。

どれだけ自分がそれを欲しているかの度合い、

とも考えられそうです。



更に、

電車で座れて嬉しい、とか
プレゼントをもらえて嬉しい

のように、他人に寄るようなものと


国家試験に受かって嬉しい

のように、自分で作ることができる 嬉しい

があるように思います。


他人次第な前者と違って、
後者の 嬉しい は、自分で創り出せる 嬉しい ですから

ある意味確実ですよね。

もちろん内容はなんでもいいわけで、

今日の卵焼きはうまく焼けて嬉しい、の小さな嬉しいもあれば
仕事でいいアイディアが生まれて嬉しい、の嬉しいもありますし


もちろん、宝くじが一億当たって嬉しい

もありますが、それを創り出すのは自分の力とは言い難いですから

自力で創れる嬉しい、を確保しておくと
日々が楽しく過ごせるようになってくるのではないでしょうか。


まあそれはつまり、
日々なんらかの努力をした結果、ということに
繋がってくるわけですが。


もっと細かく分析していくと
もっと細かく、嬉しい、について思いつくと思います。


そんなこと考えてもしかたない、
ただ嬉しいと感じればいい

と言えばまあそうなんですが

こうして理論立てて考えていくと

普段、

嬉しいことないかなー
幸せになりたいなーと漠然と思って生きるより

積極的に 嬉しい を、
ひいては「幸せ」と感じる時間を

手に入れることができるように思いませんか?


・・・というように

思考の「方法」を考えるのが「哲学する」ということです。

哲学なんか意味ない、とまったく哲学を知らない人にはw
よく言われたりしますが


本当は生きることそのもののベースになることなんですよね・・・。


以前も書きましたが

失恋して、くやしくて相手を責めて泣いて叫んでも
相手は戻ってこない、どころがドン引きですw

戻ってきて欲しいなら
違う方法を探すべきですよね。
もちろん媚びるという意味ではなく。
(まあ、媚びて戻る程度の相手であればそれでもいいのですが・・・)


そんなわけでこのGW

ずっと手を出せなかった、制作の再開を
果たしました。

制作することは、なんというか
努力だけではできない部分ももちろんあるのですが

しかしやはり努力です。
気分が乗らないとか遊びたいとか他のことをしたいとか

そういう全てを横において
制作を無理にでも始めるのは、やはり努力です。


そうすると、日々の嬉しいことが、
格段に増えました。

それは、誰かに見てほしいとかそういう次元の嬉しさではなく

思い通りに描けた、という嬉しさです。

思い通りに、といっても、
描きたい完成図があって、それを再現すればできる、というようなものではないんです。
PCで描けばそれに近いかもしれませんが。

なんとなくこんな感じが欲しい〜〜

というような漠然とした、自分でもはっきりわからないような「美」を
とことん追求していくと

それが引き出せることがあるんです。
例え作品の中の、3cm四方の部分的なものであったとしても

それは目を離せないような自然の美のような
そういう美です。

それを創り出せてしまうわけです。

その嬉しさは、言葉では語れないような嬉しさです。



明日からまた仕事ですが

日々、何かしらの「嬉しい」を創り出せると

五月病をうまく回避できるのではないでしょうかw



いかがでしたでしょうか。

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