ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

哲学ってなんだろう?

ロゴスの小径へようこそ。

哲学する、ってそもそもなんでしょうね?
最近「退屈」について二つの本を読みました。(正確には一冊読みかけ)

人間はそもそも根底の部分で退屈しているというテーゼ。

私は退屈なんかしていない、と思います?

退屈するような人は友達もいないし向上心もないし
仕事もやりがいがないような仕事をして
だらだら時間を過ごすダメな人、見たいに思ったりしません?

私はそう思っていました。

だからずっと時間を分刻みに刻んで予定を入れるように過ごし
常に勉強し、常に何かを目指して生きてきたように思います。

しかしそれでも
心の真ん中に空洞があるような何か虚しさを感じて生きてきました。

それを恋や仕事で埋めることは一時的には出来るのですが
すぐに飽きてしまいます。
つまりそれは退屈しているわけです。

退屈論ではハイデガーが有名です。

楽しいはずのパーリィwで
何もかもが充実しているような気がするのにどこか退屈している自分に気づいたりすること、
ありませんか?

無いのならいいんです。
それは幸せだと思います。

人間には根拠のない退屈が根底に横たわっていて
その問題はかなり古い哲学者からも指摘されてきました。

歴史的に見るとどうも1600年あたりが転換期だったようです。
それまでは、退屈とは貴族の証でした。

そうですよね、平民は日々の仕事、暮らしに忙しくて
退屈なんか感じる余裕がなかったのです。

一般市民の暮らしにだんだん余裕が出てきて現代に至っているのですが
そんななかで、貴族だけのものだった「暇」「退屈」が我々庶民にも広がっていきます。

そもそも貴族は、古くから退屈を紛らわすための知的遊びを発展させてきました。
それが文化ともいえますが

例えば日本なら 和歌や茶道や・・・

現代においても、たしなんでいる人しか楽しめませんよね。

庶民はたしなんでいないので、退屈を紛らわす術を知りません。

そこにつけ込んだのが資本主義ですね。

退屈を紛らわすために文化・・・しかし知的遊びには一定の訓練が必要です。
食べる楽しささえ、子供時代に舌を肥やしておかないと
味がわからない大人になってジャンクフードだけ食べていれば満足、ということに
なってしまいますから

本当の意味で退屈を紛らわすのは少しお勉強が必要なわけです。

でも、一般庶民はそんなことしたくない。

なので手っ取り早く、資本主義は「退屈」を紛らわす「刺激」を
売り物にしています。

それまでいろいろな「経験」が人生の退屈を紛らわすことだったはずなのに

今は自分ではやりたくない、

人のやったことに「いいね!」したりwetやテレビで刺激を受けたり
そうして退屈を紛らわすためにお金を使っています。

スポーツはしないのに、テレビで観戦して
あんなスイングじゃだめだ、とか走り込みが足りないからへばるんだ、とか言うだけで
退屈を紛らわせるのだから楽なもんですw

歌手の歌だけならまだしも、その歌手が食事をしたり旅をしたりするシーンをテレビで見て
人生をすり減らして生きているわけですw
まあそれが本当に楽しければいいんです、もちろん。

しかしそれはいつか飽きてしまう。
学生時代に夢中になった芸能人、とか
いつの間にか飽きちゃいましたよねえ・・・w

飽きた隙間にはiPhoneがどんどんバージョンアップして売り出されたり

私たちはそこで何を買っているのか?
その考察がこちら

面白かったです。哲学を知らない人にも読みやすいです。
倫理学の本なので、どうすれば退屈は解消されるのかというアイディア・・・というか、
本を読むことが退屈解消に繋がらざるを得ないような作りになっています。

現代は、文化を知らずに手軽に手に入れられる刺激で退屈を埋めている。

だからすぐに飽きて、

流行のものはあっという間に忘れ去られますよね。

でもそれでもいいとも言えます。

VRとか技術がどんどん発達して
退屈をどんどんお手軽に安く埋めてくれて生きて死ぬ。

それを虚しい、と決めることは本来できません。

いいじゃん毎日が楽しく埋まっていけば。そう思います。

私は一時、ニート(あ、まあ専業主婦ともいいますが・・・w)をして
毎日ゲームしたりアニメみたり映画みたりして過ごしていた時期がありました。

最初は楽だし楽しいし。

でも1年で飽きました・・・。

現代では最新のゲームとかなら飽きないんですかね?

数年前犬の介護で仕事以外はいっさい外出できなかった時期に
やはりゲームとアニメを見まくっていましたが(好きなんですねw)

飽きましたね・・・すぐに。

幸運なことにその後哲学と出会い
残りの人生はそれを学んだりしているうちに終わりそうなので
退屈しそうにありませんがw

しかし思想の底に深く潜ると、
そもそも人間は

退屈だから戦争をし
退屈だから結婚し
退屈だから子孫をつくる

とも言える、というところに行きつきます。
これは今読みかけの哲学書。読了したらまた書きたいと思います。

しかしそんな根っこの部分を考えることに意味はありません。

人間がなぜ存在するのかというような問いに答えはなく
それを気にせず

文化を学ぶことで退屈が埋まる、とした方が
生きていくうえでより「幸せ」になれると思います。

それでもその根っこの部分がどうしても気になるし
そこを考えているほうがむしろ落ち着くというごく少数の人は
哲学してしまうんでしょうね・・・。

『哲学的な問題の特徴は、方向を決定するものが何か欠けているということ』
ラース・スヴェンセン

どう生きればいいか、より幸せか、というようなことを人は求めるのに
その方向を決定するものが欠けていると思われるものが哲学的な問題の特徴だというのです。

同じ宗教とか、そういう枠内では決めることができます。

倫理学的には
「方向なんてない、人それぞれ」と言えます。大事なことです。
これを認めないと戦争になります。

哲学は何をしているかというと
方向を探しているのです。あると信じて。でもそれは欠けていて、無いものなんだとわかってもいるのです。

なぜすべては「無い」のではなく「存在」しているのか?

というような考えても答えのないことを探してしまうのです。

そこに「神様」を代入できれば幸せだったのですけれど・・・。


この話、通じそうで通じないんですよね・・・

私の先生の著書にも

そういう絶望した人と語り合うことが人生の楽しみ(とは書かれていませんでしたが、意味合いとしてはそういう感じで)とあって共感しました。

とはいえ、絶望した!と悲惨に生きているわけではありませんw

この世の全てはある意味無意味であると思えるからこそ

遊ぶように生きることもまた可能になるからです。(そういう人たちにとっては)


いかがでしたでしょうか。
共感が少ないのは承知の上w

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「人生の目的」

ロゴスの小径へようこそ。

最近、言葉で泣けたことありますか?

ここのところ、山内志朗先生の著書を拝読しています。
(先生 付なのは、私の大学の先生だからです)

私は数年前哲学と出会い

「真理」らしきものを追求し
心の空洞は埋まるのではないのかと

哲学を学んできました。

そして、世界のある意味「真理」ともいえる、「イデア」のようなものは

世界にはないのだと知りました。

そんなものは世界にはない。
神様を信仰していれば、神様が真理です。

でも無宗教の人には真理がわからない。

それを科学だと

今はまだ解明されていないけれど、科学が今後「全てを」解明していくのだと
無邪気に信じられていればよかったのですが
しかしそれを信じると、
自分が人生の目的を持てなかったり、そこに到達できないのは

自分が欠けているから
努力が足りないから

とかそういう結論にたどり着いてしまいます。

科学とは一種の宗教だと教えてくれたのは父で
その意味は当時はわからなかったのですが
二年前科学哲学を学んでやっと気づいたわけです。

そしてさらに世界の虚しさを知ってしまった。

世界に真理はない。

ないのに探したくなる。

人は何のために生きているのか
なぜ存在しているのか。

無いと知りつつ、イデアを探す。
哲学者たちの本に
自分の納得するイデアであればそれでいいやと思いつつ


話を戻し

山内先生の著書の存在を知ったのは

たまたま参加した西田哲学についての哲学カフェで
とある大学の先生に、

私の考えている話をすると、山内先生がいらっしゃるじゃないですか

と教わったから。

正直中世キリスト教に興味ないしーー
スコラ哲学について知っていることなんか
私のほんの少しの哲学の知識の中の、そのまたほんのほんの少し

大学の講義でもスコラについて習ったことは今のところないし。

けれど
先生の著書を読んで

私は今朝カフェで泣きましたよ。


「幸せなはずなのに、なぜか虚しい」

このブログの紹介にもそう書いていますし
ずっとそう思ってきました。

けれど、

それは幸せなんかじゃないということ。

そもそも「幸せ」の定義を間違っていたということ


そして

世界には真理はない。それはそうなのだけど

だから虚しさに落ち込むのではなく

では
この世界で自分はどう生きるかというふうに

視点を変えればいいということ。


たった一つの答えでは世界は捉えられないというのは
東洋の思想です。空の思想とか。

そこは薄ぼんやりやっと気づいた昨今だったのですが。


私の哲学の知識はまだまだまだまだまだまだですが

こんな道があったんだ!


まあ、それを単純に世界は自分が思う通りに生きればいい!と
科学を信じるように
信じられる自分ならよかったんだけど、

だとしたらそもそも哲学なんかに迷い込むこともなかったわけでw

その思想は
ドイツ観念論やフランスの哲学思想に繋がっていくという意味も

先日先生の講義に参加して気づきました。

私の頭の中にある知識は

飛び飛びの知識だったんだ・・・



人生の目的なんて

そもそも、ない。

ないけれど
作ることはできるわけです。

でも人生の目的は自分で作ればいい!と単純に信じられた人なら

やはり哲学には迷い込みませんw
それは一種の信仰だから。

信仰とは理由なく信じること(だそうです)。

信仰の持てない人は

そうするしかないんだということを

論理的にも
ある意味科学的にも

自分で本当に納得できる形で知る必要がある。

自分でいくら単純に

今日からこんな風に生きよう、とか決めても
目的に向かって真っすぐ進もうとか決めても

その根底の部分に
信仰か
論理的な納得か

せめてどちらかがないなら

実行できるわけがない。


哲学を学ぶある意味虚しさを伴う行為。
もちろん宗教に帰依できない(できる宗教がいまのところない)以上

虚しさはやはり死ぬまで続きますが

一度きりの人生を思い切り生きようと
そう思えるような思想に触れて

私は泣けてしまいました。

その虚しさまで言い当てられていたことも余計に心が揺れました。


またもや乱文ですね・・・汗

説明したいことがいっぱいいっぱいあって
もはや説明は難しいことに気づきました・・・

次回から中学生くらいの子に向けて書いてみたいなと思っています。
中学生、このブログにたどり着かないかなw

大人の方でも気づきがあると思います。
私の言うことは本や講座からのご紹介なので
私の発案じゃないですよw
だからこそ、気づきがある、だなんて自信をもってご紹介できるのです。興奮すると乱文ですがw

今日も最後までお読みくださってありがとうございました。

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思い通りの人生を

ロゴスの小径へようこそ。

今日は愛犬の49日です。
仏教を信仰しているわけではないですが

人生で49日を数える経験はそうないので
やはり意識してしまいますね。

愛犬がいなくなって
私の人生は「自由」になりました。

もちろん自由の定義はいろいろありすぎて「」付にするしかありませんがw


私を縛っていたのはもちろん犬ではありません。

私自身です。

つまり人は自分の思い通りの人生を生きているのだそうです。


人生なんか、思い通りにいかない!!!!と

思ったりもしますよね。
もちろんそれは正しいのですが

ある側面でみれば、人生は思い通りに「しか」生きられないものです。


例えば、この世は死後天国に行くための修行の場だ

と考える人にとって人生とは「修行」です。


そんな風に
人生をどう捉えているかによって、その人の人生が決まるわけです。
決まる、とはその人にとって、という意味です。
つまり決まる、というよりは自分で決めるわけですね。

人生はつまらない
意味が無い

と思う人の人生はその通りのものです。

私も以前はそれに近かったですね・・・

人生とは死を迎えるまで我慢するもの

いえ、楽しいんですよ
けっこう恵まれた人生だと思っています。

けれど

人生には意味がなく目的もないと思っていたので
ある意味虚しいわけです。

仕事の成功だとか
自分の成長だとか
そういう自分なりの目的をもって
イキイキと生きている人がうさん臭い、じゃなかったw
うらやましい、と本当に思うわけですが


けれど犬の病死という私にとっては大きな出来事が

私に気づかせてくれたことは

自分の人生をどう生きたいかは
自分で決めるのだということ。

つまり

辛い出来事や苦しいことは誰にでもあって
避けられません。

けれど
それをどう受け止めるかは人それぞれ。

試練を自分の成長の養分だと思える人にとっては
それは養分なんでしょう。

人間関係のストレスの大きい人にとっては
人にどう思われるかがその人の人生なんでしょう


オリンピックなんか見てると
スキーのジャンプとかあんなに高いところから滑るなんて
怖くて絶対やりたくないです。寒いし。
メダルもいらないからやりたくないです。

でも

当事者にとってはそれは人生の全てなんだと思います。

もちろん私にとっての人生の全てとも言えなくもない(弱っ!!w)ことはあります。

でもそれは他人にとってはどうでもいいことだったりもします。

そもそも哲学でチマチマと細かいことを深く深く考えるなんて
どうでもいい人にはどうでもいいことです。



そんな風に
自分の人生をどう生きるかは自分が決めるのです。


自分が決めて自分で生きる。
それが世阿弥の言うような「花」ということの意味ではないでしょうか、とちょっと考えています。

自分の人生を生きるのに

「でも子供がいるから」とか「犬がいるから」とか「お金がないから」とか
そういう言い訳は全て不要です。

言い訳した段階でもう既に

言い訳するのが人生、になっていますから

その人の思い通りの人生=言い訳

ということになりますねw


変えられないものは変えられないのですから

そこからどう生きるか、ということを真剣に考えるということをしないと
自分が本当にどう生きたいかがわからないなら

それを目指すことも難しいですよね。


もちろん自然体でそれをやっている人もいますけれどね。
例えば・・・

寅さんとか?!w


人がどう思うかとか関係ないわけです。

まあ、
自然体でそれができない「常識人」の私たちは


考えるわけです。どう生きたいのかを。


私は決めています。

私は風に吹かれる雲のように生きるのです。


予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず・・・


旅するように生きるつもりです。


この世とは
お釈迦様があの世から遊びに、観光に来ている場所なんだそうです。

だからあなたも私も、お釈迦様なんだそうですよw

ひろさちやさんの本にありました)


死して他の世界に行くまでに
この世界を遊ぼう

風に吹かれるままに
したいことをしてしたいところに行こう


そう決めました。

それは実際旅行にも行きますが、旅行というだけの意味ではありません。

小さいことですが例えば


今日は会社が暇だったので早退しました。
そして図書館に行って、週末講座を申し込んだ哲学の先生の著書を借りてきました。

会社が暇でも誰も早退なんかしません。
会社に印象も悪いですし
結果的には稼ぎも減ります。

でも

私はその時したいと思ったことをしようと
そう決めたわけです。

もちろん何がしたいか、何ができるのかは人それぞれですが。


うーん、文章にすると難しいですね。

そしてこうしてチマチマと文章を書きつつ理論導き出そうとしているあたり私は

まだまだ風に吹かれるようには生きてはいなくて

ロゴスの小径の迷路の中にいるんだと思いますw


いえ多分一生抜けれないと思います、ここからは。

しかしそれもまた私の思い通りの人生の中に織り込み済みです。



理論ばかり追いかけてきたここ数年。
週末は大学の先生の講義です。スコラ哲学です。

楽しみ!!!

お金がかかるな、とか
時間が、とか
難しいかな、とか

そういう全てを乗り越えるちょっとした努力というか勇気もまた
長年犬の介護(先代、先々代とずっと介護をしてきました)をしてきて
気軽に出かけることに慣れていない私には

自分の本当に生きたかった人生を生きる一歩になっています。

風に吹かれる雲みたいに
自分の「好き」に押されて流れてみよう。

心の空洞を埋めるには

ロゴスの小径へようこそ。

心の空洞を埋める方法を探すために
主に哲学から学んだ知識を消化しご紹介するために
立ち上げた独り言のブログが
このブログです。

心の空洞を埋める方法は案外簡単でした。

先日私は愛犬を病気で失いましたが

その介護をしている間は

心の空洞なるものは
全くなくなりました。

犬の命を救うべくできるだけのことをしつつ
犬との時間の全てを愛おしむ。

それに集中している期間は

虚しいだとか考える時間はありません。

それは誰でも同じですよね。
私の場合は愛犬でしたが

人それぞれだと思います。

ラッセルが『幸福論』で

もし自分の子どもが病気になったら
なんとか治そうと必死になる。

人間の本性とは・・・とか
人はどこからきてどこへ行くのかとか
人生の目的とはなにかとか
心が虚しいとか

そういう全てはもうどうでもいいことです。

世界の全てがどうでもいいことで
オリンピックなんか超どうでもいいし
戦争もどうでもいい
殺人事件もどうでもいい
天変地異もどうでもいい

とにかく目の前の愛する命を救いたいと

ただただそれだけです。

心の空洞に意識が行くということは

心に余裕があるということだったんですね。

しかし同時に

愛犬を失った今

また俯瞰して世界を見ることになります。

そうしてそれはやはり虚しさを内包してはいるのですが


私の場合はまったく世界の景色がかわりました。

心の空洞は空洞のままで
埋まらないのだと気づいたからです。

埋めたいなら悲しみで埋めるしかない。

幸福を少しでも感じている間は
虚しさは常に忍び込みます。

楽しいはずの時間でもふと虚しさを覚えるように


でも悲しみで埋めるのなんか嫌ですよね。
だったら空洞のままでいい。

その空洞を抱えたまま

私は今後は旅をして生きていくつもりです。
旅をして描く。

実は久しぶりに漱石草枕を読みました。

画工(絵描き)である私には
あの主人公の自分語りが
本当にまんま自分です。

お読みになられていない方には
うまく言えないのですが

旅の中に
自然の中に

ある意味虚しさを内包したまま
そのまま生きるというような

ここには松尾芭蕉とか
スピノザとか
ニーチェとか

漱石の思想が垣間見えるのですが

その根底は荘子なんだそうです。

虚しさをなんとかしようと
目的論的に生きるのが西洋世界、
キリスト教思想の世界です。

でもこの虚しさもまんま自然であり
そのまま受け入れるというか受け止めるというか
自然の中の一部として生かされるというか
生きるしかないというか

人間の立ち位置って本当はそこです。

目的を持っても
実はそこに向かって真っすぐ生きるなんてことは
人間にはほぼできません。

こうして頭で理論を考えてしまうのが自分の癖ですが

そうではない部分を
また描きたいと思っています。

いかがでしたでしょうか。

応援クリックバナーを貼るのが面倒なのでwやめにしますw

今後はtweetで呟いてみようかなと思っていますので
もしよかったら覗いてやってくださいw

絵を再開できたら
Instaともリンクしたいと思っております。

「生きる」ということ。

ロゴスの小径へようこそ。

今日は東京も雪です!
同じ場所なのにまるで北国に来たかのよう。

この静けさと明るさ。
ムーミン谷の冬をなんとなく思い出してしまう。
この非日常感は旅行の比ではないですね。

この土日、
私は旅行に行ってきました。
亡くした愛犬のことを今はいったん考えずに
自分を立て直したいと考えたからです。

悲しみに浸っていると病みますから。

ちなみに立ち直ったつもりでも、過度のストレスは
形を変えて残ってしまうそうです。

なので、いったん自分を立て直すんです。

そうしてからまたいくらでも悲しめばいいわけで。
というか、忘れようとしても忘れられないんですから。

脳は繰り返し思い出したことだけを深く記憶に刻みます。

なので今
愛犬の最後だけを何度も思い出して悲しんでそれを記憶に留めると

愛犬を思い出す時に
たくさんの大事な楽しかった思い出よりも
介護の辛さばかり思い出してしまいます。

とはいえ考えないようにしても
どうしても考えてしまいます・・・

だから体調も悪かったのですが
旅行に行ったわけです。

自分の日常や問題やいろいろは全て家に置いて。


効果的だったと思います。
思ったより楽しめましたしなんというか疲れた、とか思えるようになりました。

そして
哲学的思考の友人と会えたことも大きかったです。
そういう人と話をすると
自分を客観視できますし
同じような体験をしている友人だったのでなおさらでした。
思う以上に私は友人のくれた言葉ひとつ一つに
いろいろ考えさせられました。


私はこういうときは
旅に出て

そして客観的視点を持てるような友達と話をするのが

自分には一番なんだと自分を知りました。


何がいいのかは人それぞれですが

自分に合った癒しの方法を見つけておくと安心ですね。

私は一人でカフェにいって好きな本を読むのが
自分の癒しだとずっと思ってきたのですが

それはもっと心に余裕がある時の話なんだと気づきました。


実は既に新しいことを開始しました。

こういう時には何もしないで休んで、なんて言われがちですが
そしてそれがその人のベストならそれでいいのですが

私は何もしないでいる方が辛いです。


新しいことといっても
仕事ではありません。

仕事につながるということでもありません。

仕事に、と思った時点でそれはやはり仕事です。

もちろん仕事も大事ですが
お金をもらわなくてもやりたいと思えることを持つことこそが
人生の大事な部分、というか

自分自身そのものともいえると思うので。


雪を楽しんだり
新しい何かを始めたり
友達とあったり
仕事をしたり

悲しんだり
悔しかったり
うれしかったり

そういう風に一生を過ごしていく。

それが生きるということであり
それが幸せということの意味でもあり。



雪の降り積む静かな今宵

自分について考えてみませんか。

いろんな悲しいことを辛いことを
乗り越える方法を手探りするために。


いかがでしたでしょうか。
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自分を知る

ロゴスの小径へようこそ。

突然ですが愛犬を病気で失いました。

私の人生でこれ以上辛いことはもうないと思えるほど辛い出来事です。
過去にもわんこを看取ってきましたが
病気発覚から一か月半。

壮絶な介護でした・・・。

仕事も休むことになり
治療費もすごく高いし
とはいえ絶対に助けたい

そんな思いで突き進んできました。

こんな時に哲学なんかなんの役にも立たなくて
実際目の前の介護をするしかない。ただそれだけです。

まさにラッセルの幸福論です。
病気の子どもを目の前にして、人生とは何か、なんか考える間はない。
必死に治そうと奔走するだけです。


しかし同時に
失ってしまえばもうあとは
やはり哲学するしかないと思うのです。

哲学は人生に不必要であり同時に必要なんだと思います。



昨日看取ったばかりで
今は信じられないほど辛いです。
死んでしまいたいほどです。本当に。生きている意味が見出せないです。

けれど
そんな自分をどこか冷静に観察している自分。

息が止まった時に号泣する自分を

こんなに大きな声で泣けるんだ私と
私は観察していました。


この感じがまさに哲学体質なんでしょうね・・・。

そして今


自分の傷の癒え方について考えるとき

私は
とにかく悲しいことは考えないようにするのがベストだと考えていることに気づきました。


どうせ悲しいです。
どうせ忘れません。
どうせ死ぬまでひきずる痛みです。

だったら

少しだけ傷が癒えるまでは

今までしたくてできずにいたことを
やってみようと思うわけです。


それは先代犬が亡くなったときもそうでした。
友達とお伊勢参りに旅行に行き、行った先で明日もどこかに泊まろう!と延泊を決定。

そんなこと、わんこがいたら絶対にできない技です。
わんこが心配過ぎて。

辛くて辛くてしかたない、でも
そんな日常を抜け出して気の置けない友達と過ごした旅。

あの鳥羽の夜にホテルのラウンジでみた月を
私は一生忘れません・・・で、次に来たわんこはルナ(月)と言います。


今回もまたお伊勢参りに行くつもりです。

家でじっとルナのいた場所を見つめて
悲しみに深く沈むのは私には怖すぎます。
そのまま戻ってこれないような気がするからです。

むしろ弱いのかもしれません。


だから楽しいことでまずは埋めたい。

その方が愛犬も喜んでくれるような気もするのです。


私は子供時代から常に犬と暮らしてきました。

最長で一か月犬がいなかったことがあり、伊勢参りにはその時にいったのですが
その間だけです。


なので
人生は確実に変わります。

(ちなみに保護犬の援助は続けます)


犬を言い訳にできないとも言えますね。

それはできない、わんこがいるから

と自分への言い訳にもなってきた訳ですから。

子供がいるからできない、と言うのと同じですね。
でもできる人はできるわけで。


ああ自分は弱いんだな

とても耐えきれない

いい年をして実家の母に泣きつき大泣きして


友達にメールしまくって話を聞いてもらって
ブログにも書いて見ず知らずの人に慰めてもらって

他の楽しいことをあれこれ考えて

それでやっとなんとか立っている。


悲しみを直視できるのは少しだけ先です。


同時に私は
一人では悲しみを消化できないのだと知りました。

悲しくて一人旅、とか無理ですねw


誰かに話を聞いてもらって
同じ体験をした人に悲しみを引き受けてもらって

いろんな人に悲しい思いを一緒にしてもらってしまいました・・・

でもそのおかげで

なんとかなっているようです。


こんなときに
友達、大事だなと思うのはあまりにも自己中心的でしょうか・・・。

自分の周りの友達をみると、
本当に悲しい時は自分で消化している人が多いような気がします。
もしくは私が相談相手になれないだけかw


ただ、私を知る友達たちが私の相手をしてくれるのは

同時に私の強さも知っているからだと思っています。


つまり
犬のことにはめっぽう弱い私ですが

その他のことには頑丈にできているので

実際は心が病んだりはしないとわかっているのだと思います。


(違うかも・・・w)


しばし強がって生きてみます。


明日から早速職場復帰です。

実は今回のことで職場には非常にご迷惑をおかけし、
そして信じられないように便宜を図ってもらえました。


友達たちが(犬つながりの、実際には知らない方々も)話を聞いてくれたり
職場がこんなにもよくしてくれたり


もしかして私って案外
愛されていたのかも???と勝手にw

前向きに思えたりして。



愛犬の死はいろんな意味で私の人生を変えます。

10歳の頃からずっと犬がいた私にとって
これ以上の人生の変化はたぶんないと思います。

今は少し思い出しただけで
吐きそうに悲しいですが


また会えると信じて
今後は生きていこうと思います。

会えないかも、と思います?いえ会えますよ。そう思っていれば。

だって自分が死んでしまったらもう何もわからないわけでw

だったら会えると思っていた方がいいですから。

(いろんな宗教観がありますので宗教に帰依されている方はこの限りではないかもしれませんが)

友達が素敵な言葉をくれました。


動物は亡くなると虹の橋というところにいって
飼い主が死んでまた再会できるのを待っているというのです。

待たせるのがつらいと思いましたが

そこには時間がない、というのです。

確かに!!!時間という概念はこの世のもので
人間が決めたルールに過ぎません。
実際にそれが「ある」とは解明できていません。


愛犬たちはだから
また会う時には待っていたわけではなく
すぐに会えた、という感覚なんだそうです。

それっていいなと思いました。

そう思って生きていこうと。


だいぶ強がっていますが私

乗り越えるには自分を知らなくては。




いかがでしたでしょうか。
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楽なことは楽しいこと?

ロゴスの小径へようこそ。

楽 と 楽しい って
似ているように見えますが

よく考えると違うそうです。


以前テレビを見ていたら、カンブリア宮殿だったかな・・・

ベンチャー企業の社長さんがおっしゃっていました。


ベンチャーで、新しいものを世の中に売り出していくのは
楽しい。けれど、楽ではない、と。


そしてご自分の人生は
楽、ではなくて楽しい方を常に選ぶと決めておられるそうです。

自分を鑑みると

・・・

を多々選んでいるような気がします。


大学の勉強はまったく楽ではなく
だからこそ「楽しい」。


もちろん楽=楽しい という人もいるかもしれませんが


例えば引きこもりであったとしても、
家でゲームしてたりして

ゲームって楽 ではないですよね。
最初からラスボスを簡単に倒せる強さで
一瞬で敵を倒せたら楽ですが

それって楽しくないですよねえ・・・


料理も買ってきて食べるだけなら楽ですが

作って食べたら 楽しい 人には楽しい、という要素が加わりますね。
家事は 楽 の方が私は好きですがw


新しい仕事を始めたので
週末も仕事。

楽 ではなくなりました。

でもその分すっかり忘れていた
自分の仕事の楽しさも思い出したような気がします。

この先はどうなるのか
自分にもわからない。

人生はそもそも、先のことなんかわからないもののはず。

でも、変えようと強く意識して行動すれば
絶対に変わります。というか変わらざるを得ない。

変えたい
変えたい

と思っていても

世界やまわりの人が変わるわけではなく

自分が変わるしかない。


しばし
楽しく生きてみようと思います。

一年後、人生変わったなあーーと思えるように。



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長所と短所

ロゴスの小径へようこそ。

誰しもに、長所と短所がありますよね。
他人が思うのと自分が思うそれは違うかもしれませんが

とにかくありますよねw


しかし考えてみると
長所と短所ってなんでしょう?

長所短所というからには
その基準となるものがあるはずですよね。

なにかを基準として、良い、悪い、としているのですから。

フグの毒が「悪い」のは、「人間が食べるにあたり」という基準から見るだけで
フグに悪意は無いようにw


そう感が手見ると
世界のすべては、「人間にとって」良いか悪いかという判断で
表わされていることに気づきます。

そして
人間を判断するのに「良いか悪いか」は


「社会に(あるいは国家に)とって」で判断されています。

つまり
長所も短所も「社会にとって」いいかどうかという基準に照らしています。

少し前までは(あるいは今でも)「女性はおとなしい方がいい」と言われていましたが

それも
「社会にとって」です。


「女性は社会進出すべき」と昨今言われるのも

「社会にとって」です。


その他のほぼ全てが「社会にとって」で決められています。



そしてそれは間違いではないのです。

殺人能力が高いことは現代の「社会にとって」良いことではない、というのは
正しいように思えるように

(戦国時代は「社会にとって」良いことだったかもしれませんね)

ある意味正しいとも言えます。


しかし同時に

それは「社会にとって」に過ぎず

社会が変われば

おとなしい女性より、バリバリ働く女性をよしとするように

良さの基準は変わってしまうものでしかなとも言えます。



で、話を戻しますと

自分の弱点、短所と思ってきたことって
恐らく子供時代に親に言われたり
人間関係から自分で感じ取ったり

そうして短所なんだなあと自分で思い込んでいるわけですが


こんなに社会が急速に変化している現代で

それはそのまま短所だと考えなくていいものという可能性があるのではないでしょうか。


そういう事例は実際たくさんありますよね。


と考えると


もしかして、この短所

今の時代にはアリかもよ?!


いや、そうでないとしても


犯罪に触れないのなら

短所だと思う必要はないですよね。


日本では「自閉症スペクトラム)」と言われる人は
良くないかのように言われますが

それは「日本の社会にとって」だそうで

彼らは特定の知能が一般人より秀でていて
海外ではむしろ大事にされているそうです。

「一般人なんかと一緒にしてはいけない」というように。
(というそれもまた「社会にとって」ですが)

日本では「皆と同じ」であることが大事なので


その基準でいろんな良し悪しが決められています。


皆と同じ

は便利ですからね、扱う側にとっては。



としたら

短所はもしかしたら
すごい宝物である可能性があります。


だって長所の方は

「どれだけこの社会にあっているか」の指針なので


自分が飛躍(その意味は人それぞれ)できるとしたら
短所の方に可能性があるということになります。

長所で飛躍している人はとっくにしているはずなのでw


そんなわけで私は
短所を野放しにしてみることに決めましたw

急に嫌な奴になるわけではないですがw


皆さんもちょっと試してみませんか。
ただし自己責任でw

悪化するとしたら人間関係くらい。

替わりに翼が授かるかもしれません。




いかがでしたでしょうか。
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運を誰に任せる?

ロゴスの小径へようこそ。

運を天に任せる、とか
神様のお導きの通りに、とか。

それってなんだか便利な言い訳ですよね。

だって何をしてもいいことになります。

例えば
すべき仕事ができなかった
目標が達成できなかった
なにかに負けてしまった

全部神様の思し召しです。

ダイエットしたい。でも痩せない。
神様の思し召し。
部屋をきれいに掃除しない。でもできない。
神様の思し召し。

そんな程度ならまだいいですが

犯罪に走ってしまった自分。
神様の思し召し。

・・・これ、人間が出来うるすべてがOKということに
極論すればなってしまいますよねえ・・・。


そこでこんな風に考えるのです。
運を神様に任せられるのは

自分がもうこれ以上できない、というほど
一生懸命やって
それ以上できることはもうなくて

そんな時
あとは運を神様に任せよう

というのだ、と。



以前私は
(このブログにも書いていたと思います)

そんな風に考えていました。

つまり、やるべきことをすべてやった上で
これ以上できない状態のときに
あとは神様の思し召しを待つのだ、と。



けれど最近
それが正しいわけでもないなあと
思ったりしています。

というのも

頭の良い子は
そんなに勉強もしなくても
成績がよくいい大学に入れたりするわけで

考えたら生まれた時点でもう
私たちは「平等」なんかじゃないわけです。

顔がきれいな人は
苦労しなくてもモテるでしょうし

足が長い人はシークレットなんちゃらを
履かなくてもいいわけです。

努力とか
すべきこととか

各人それぞれのMAXで、といえばそうなのでしょうけれど


昭和時代はw

成功は自分の努力と比例、のように考えられていました。
いまだにそういう話をするエライオジサンなんかもいますがw

確かに成功には努力がつきものです。
どんなに才能があっても、本を書かないなら作家にはなれないように

まずは努力です。

しかし


自分のMAX努力した人が成功とイコールかというと


それは違います。


残念ですが。


だから私たちはこういうのです。

「幸せは人それぞれ」と。


いえ実際幸せは人それぞれです。そう思います。

でもそれってどこか

言い訳のにおいがするんですよね・・・私ひねくれてます?



先月から書いていますように

私は仕事先の会社の都合で
転職することになってしまいました。

これは神様が
変化のチャンス!と言っているのだということにして

職探しが始まったわけです。


そこでいろんなことを学びました。
本当にいろんなことを。


このほぼ一か月ずっと走りっぱなしな感じで
心身ともにへとへとです。


しかし運を神に任せるほど
私は努力をしたでしょうか?


自分のスキルが活かせないといやだとか
家の近くじゃないと嫌だとか

そんなことを言えているうちはMAXの努力だなんて
言えないですよね。

だから
転職がうまくいかないなら
神様のせいではなくて自分のせいなわけです。


とか考えているうちに私に起こったことは

会社の事情が変わり、
今まで通りの雇用が決まった

ということでした・・・


結果から言いますと

だから安心した、よかった、今まで通り!

思えるほど

その仕事を愛してはいなかったのでw


やはり計画は変わりません。
ただ余裕ができたので焦って不利な条件で決めなくても済んだので
もちろんよかった、とは思えるのですが。


まあそれはさておき


じゃあ私がしてきた努力はなんだったんでしょう?


他の同僚たちは案外ゆったり構えていて


一人暮らしで生活がかかっている人であっても

(そして私と同じ職種、同年代でも)


まだ決めてないの〜

という感じでした。


その人たちは
今回会社の事情が変わったので
元通りになるわけで


うーん。
どうせそうなるのなら

慌てて就活せずに

運を天に任せていた方が
よかった、とも言えますよね。


とはいえ

いろんなことを学んだので
これでよかったんだとも言えます。


こんな風にいろいろ考えてみると



どっちでもよかったんじゃね???結局


私は行き着きましたw


祈っても
祈らなくても

神様の責任にしても
自分の責任にしても


未来がわからないことには変わりないのです

努力しようがしまいが

成功しようがしまいが

結局自分が満足すればそれでいいわけです。


運を天に任せて
努力もなんにもしないで
神様の思し召しだからと言っても

なんら差支えなかったわけです。


ただ一点

自分がそれでよければ。


人間は時には神さまさえ騙します。

神様これが一生のお願い

という一生のお願いを
何度したか私もわかりませんw

神様を騙して
何度もお願いを聞いてもらおうというわけですねw


しかし

自分だけは騙せないのです。


私は今のこの私がいいんだ。
誰がなんといっても。
これが神様が与えた自分の姿なんだ

とかね。


けれど心の奥底では

わかってしまっているんですから

それは慰めに実際ならないわけですよ。



人には未来がわからない。
だから
運を天に任せると
生きるのが楽になります。

ただしそれを心底信じられる場合のみという但し書き付き。


そんなわけであっけなく私の転職の危機は去ったわけですが
しかし問題先送りになっただけで抜本的になんとかしなければ、ということに
気づけただけでもよかったと
自分に言い訳しますw


いかがでしたでしょうか。
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選ぶ基準

ロゴスの小径へようこそ。

なにかを選ぶときに
自分なりに何かしらの基準で決めますよね。

二人の人から好意を持たれてしまったら

顔のいい方!
優しい方!
お金持ちの方!
仕事のできる人!

などなどw


好きな色を基準に服を選んだり

お給料のいい方を選ぶ!
スキルアップできる方を選ぶ!

温泉がある宿
海が見える宿

・・・いろいろですね。

私は今まで
仕事は100%お給料のいい方、で決めてきましたねw
職種は全部同じという前提ですが。

その他のいろんなことも
自分なりにいろいろ吟味して決定してきたつもりでした。


でも最近、決めていることがあります。

「おもしろそうな方を選ぼう」と。

当たり前じゃないの?と思います?

いえいえ、案外人はそれを選んでいませんw

ちょっと意識してみてください。

友達との集まりの方がおもしろそう・・・
だけど
ママ友の集まりにもいっておかないと・・・とかねw

もちろん、比較以前のことはありますよ?

今日は試験だけど映画の方がおもしろそうだから
映画にいこう、とかw

そうではなくて

どちらかを選ぶことで
現時点での利益不利益がわからないような場合、

まあつまりは迷う場合、ですねw

そういうときは

おもしろそうな方を選ぼう。


それを意識してみると

なんだかドキドキします。

えっいいのかな??みたいなw


もちろん後で後悔することもあるかもしれません・・・と思うでしょ?

でも、過去には戻れないのですから
後悔はしないようにすればいいわけですし

今の時点ではどちらを選ぶと後悔するのかは
わかりっこないんですから

迷って迷って答えがでないとき。


おもしろそう、という基準をぜひ考えてみてください。

新しい道が見えるかもしれません。

おいしそう、なものはだいたい味の想像がつきます。
おもしろそう、を選ぶことで人生は広がりを持ちます。


いかがでしたでしょうか。
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ポジティブ/ネガティブ

ロゴスの小径へようこそ。

未来のことは誰にもわからない。だから不安ですよね。

常に未来をワクワク待てれば素敵ですが
小学生までですかね、そんな状態はw

いえ小学生だって明日は嫌いな授業があるな、とか
テスト嫌だな、うまくできるかな、とか

ワクワクだけで生きてはいません。


大丈夫!いいことばかりある!と唱えてもw

ふとした瞬間に人は不安になります。


「自分は絶対にそんなことはない。未来はいつもハッピーでワクワク♡」
な人がいたとしたら
本当におめでた・・・あ、いや羨ましいですw


いつも先のことを不安に思ってしまう

そんな自分は「ネガティブ」で
それは「よくない」

と「ネガティブ」になったりしてw


しかし心理学的には、

人にはポジティブな部分とネガティブな部分があるのは当然として

根がポジティブな人、ネガティブな人、というのを
見分けるのに、ざっくりこんな風に考えたりするそうです。

(すいません、自分で文献をあたっていないのであいまいですが^^;)


未来に不安を抱くのは
人間には当たり前のことで

それはネガティブとはいわないそうです。

ネガティブな人とは

未来ではなく過去に悪い思考がいってしまう傾向があるそうです。


つまり


あそこでああすればよかった
あそこでこれを選んだから今がダメなんだ


というように

してもしかたない後悔をしてしまう人のことを
ネガティブな傾向のある人ということができるそうです。


生物学的にも
見えない未来に不安を持つのは、生命維持のために当然といえますよね。

自分の未体験なことに不安を持たないなら
生命のを危険にさらず可能性があがってしまいます。


だから

未来を不安に思っても
自分はネガティブだ、なんて思わなくてもいいそうです。


反省し未来に活かすのではないのなら

過去の後悔でネガティブになるのは意味がないですよね。
時間は戻せませんから。

どうせ悩むなら未来について悩んだ方がいいようです。


あれこれ手段も考えられますよね、その方が。


私は案外心配性なので

いつも先のことを何通りか考えてしまいます。


これがダメでもこっちがある、とかねw


素敵な未来だけを信じていれば
それがかなう、という説もありますが

それを心からできているのでないなら


心配をすることもそう悪いことではないと思ったりします。


もちろん自分を奮い立たせるために
ポジティブでいこう!とするのも大事だと思いますが。


そういえば一時、自分の願いを過去形で話すと叶う、みたいに
言われていた時期がありましたよね
数年前に。


先日それを実践している人に出会ってしまって
びっくりしましたw

「宝くじに当たったから会社を辞めることにした」

というので

えーーーー!!!!!羨ましい!!!すごい!!!!と絶叫したらw


過去形で話すと願いが叶うから
過去形で話すことにしているんだ、だそうで

人騒がせな・・・w


しかしそういうのを実践しているのを見ると
ちょっと引きますね・・・w




昨日の後悔より、明日の心配!


いかがでしたでしょうか。
おかげさまで(入れ替えはあるものの)5位まで回復いたしました^^
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自分を見つめる

ロゴスの小径へようこそ

人は恋をしたとき本当の自分に出会う♪
そうですが

正確には、

人は失恋した時に本当の自分に出会う、
のような気がします。


もしくは片思いの恋とか。

恋でウキウキしている状態が本当の自分、
と思うと大間違いですねw

失恋したり片思いの時の精神状態で

思うより強い自分を発見したり
それでいて夜寝つきが悪いことに気づいたり

友達に依存しないといられなくなる自分を見たり
自分は未練がましいと知ったり
反対に自分は過去には執着しないんだなあと知ったり。



同様に

職探しをしているときも
自分を見つめなおすいい機会のような気がしています。

履歴書なんか書きますしねw

久しぶりの転職だと、大変ですよねー。
いろいろ思い出しつつ書かないとですしw

そしてその作業は

否応なく自分の過去を思い出させ

また自己アピールで
自分のことをできるだけ「客観視」する作業も不可欠になってきます。

やりたいことと
出来ることの違い

とか

譲れない部分とか
夢とか
諦めとか。

普段の
ほぼ毎日同じような生活では

埋もれてしまって目を向けない部分。


こんな時でないと
なかなか見れないものですから
チャンスです。

不安なとき
悲しいとき
怒っているとき

一歩引いて自分を見ることは
とても大切なことだと思います。

うれしいときや
楽しいときは
そのままの感情に任せて楽しめばいいと思いますが


辛いの、話を聞いて、

友達に話しまくるのも

ずーーーーっと続けるわけにもいかないですよね。

自分でなんとか解決できれば本当はベストなんです。
誰でもそんなことわかってる、でもできない・・・んですけどね・・・。

そこでブログやSNSに思いのたけを語るのもアリです。
嫌な人は読まなくていいわけで

けれど
ブログやSNSに、本当の本当の自分を
人は書き込めるでしょうか?

親しい友人に話すのと同じくらいの話を?


そんなときはやはり自分を見つめる自分を意識すると

かなり気持ちが落ち着きます。

何やってるんだろうな自分、と気づいたり

バッカじゃないの?といっそ笑えたり

心が揺れてそんなこと無理!できない!と
思う時ほど

なるべく一歩引いてみる、
ということを
思い出してみてください。

転職をするにあたり

自分を見つめてみると


私はそういう自分を楽しんでいる自分、
というのに気づきましたw


そして
今の職場は人とのコミュニケーションが極端に少ない分
(朝の挨拶も誰もしないレベルです・・・汗)
人間関係の摩擦もないので

ある意味楽ではあった
けれど

自分にとっては思うよりも
居心地はよくなかったんだなあということ。

もちろんどういう環境が自分に合うかは人それぞれですが。

私は比較的どんな環境にも適応してしまうタイプなのですが

一日ほぼ誰とも話さずモクモクと仕事をするような環境は
自分にはストレスだったようです。

(友人たちには、そんなのとっくに知ってたよ、と言われそうですがw)


なにか心がざわつくような変化があるときこそ

自分を見つめなおすチャンスです。


いかがでしたでしょうか。
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生きる意味を見出せない

ロゴスの小径へようこそ

生きることに意味が見出せない
何をしても虚しい

今日はコメントいただいたこともあり
その回答として思考してみたいと思います。



生きている限り

したくない仕事でも続けて働くしかなく
しかし今更起業してバリバリ生きていくバイタリティもない

そんなことを突き詰めて考えると虚しいし

結局人間って何?
なんのためにいるの?
なんのために他の動物を殺して食らって生きて
それでいて戦争して殺しあって

そもそも世界って何?
なんで存在しているの?存在って何?

・・・
その答えはありません。

考えれば考えるほど虚しくなります。

だから人はそこを考えない。
考えてもお金になりませんしねw

けれど心の底でうっすらその解答が得られないことに
虚しさを覚えているのです・・・だから

心には空洞ができてしまって

恋をしたり
映画を見ている間とか
楽しいことがあると一瞬埋まるけれど

あっという間に
また心の空洞に気づいてしまう。

その空洞に気づかない人はある意味幸せなのですが
気づいてしまった人は一生それを抱えつつ生きるしかありません。
だってあるものを無い、にできないですから。

私がそんな「ニヒリズム」に陥っていると深く自覚していた頃
そこから抜け出したきっかけは
去年の今頃に受講した大学の講義だったと思います。

哲学の先生に、この虚しさを自虐的にお話させていただく機会があったのです。
それまでもほかの先生にそんな話をしたこともあったのですが
ここに的確に答えてくださった先生は初めてでした。

「それは真面目に考えすぎですよ。
あまり真剣にマジメに考えると気が狂っちゃうからね。
ニーチェニヒリズム、といえばニーチェ、というように言われる哲学者です)みたいに。
いい加減に考えるくらいでちょうどいいんですよ
笑っちゃえばいいんです」

力が一気に抜けました。

そもそも
考えても答えは絶対にありません。

全てに意味が見いだせない、どうしよう、
意味を探さなくちゃ、と思ってしまいますが

実は全てに意味なんかないんです。

ないのに、あると思って必死にマジメに探して考えから
虚しくなってしまうわけです。


意味は人間が、自分が勝手に作るものなんです。
(宗教に帰依されている方には別の意味があるかもしれませんが)

でも、一人ひとりが自分勝手に生きる意味を好きに決めたら
どうなるでしょう。誰か困るでしょうか。

困ります。「社会」あるいは「国」が。

「国」は経済を活性化させるためになるべく人を働かせたいですから

「イキイキと仕事をすることが生きる意味だ」というように
人に思い込ませます。

それにすっかり騙されて、
イキイキと仕事ができて幸せ!

と誰もが考えてくれると、税金が多く入るので国には利益です。
国の利益、とはすなわち政治家(とその周辺)の利益になるわけですが。



けれど、イキイキと仕事をするのが生きる意味

とは思えない人、つまり
そういう教育に騙されないような人
自分の頭で考えようとする人には

それは違和感となります。

おかしい。自分は馴染めない。

皆はイキイキと仕事をして、生きる意味があるのに

自分には生きる意味がない!


と思い込んでしまうということになるわけです。


けれど実際は、

そもそも確固たる正しい、唯一の「生きる意味」なんかない

ということです。
だって国によってその生きる意味って既に違いますよね?


だからこそ
生きる意味は自分で作るしかないわけです。

けれど、それもまた真面目に考えても虚しくなります。
だってないものなんですから。

だから笑って作り上げるくらいがちょうどいいんです。


好きなサッカーチームの追っかけをして終わる一生

なんて、自分でなにも創造していないしある意味虚しいとも言えます。


けれどそれが楽しくて
それで一生過ごせるならそれはその人の素敵な生きる意味です。


登山家が山に登るのも
別に誰に命令されたわけでもなく
死と隣り合わせになるわけで

それって実は意味なんかないじゃないですか。
でも、本人にとっては意味ですよね。

他人に意味がないと言われようが関係ないです。


でも、でも
自分のための意味をつくろう、と思っても探せない

と思うのであれば

探したりないんだと思います。


例えば私は
哲学を学ぶというある意味虚しいこの行為が
虚しくて楽しくてしかたなく

自分の生きる意味ですが
これに出会うまでの何十年を
虚しさを抱えつつ生きてきました。


友人は、アニメにいま夢中です。
仕事は行くしかないですが
自由な時間がずっとアニメをみているそうです。

他人からみたら虚しいでしょうか。
けれどけっこう楽しいですよね、アニメ。

それで楽しく人生が埋まるなら
それでもいいと思います。

ゲームでもいいですしね。
ある意味逃避みたいですが

逃避だっていいじゃないですか。

ちなみに私はもっと年を取って勉強が無理になったら
老後はゲーム三昧で生きるのが夢ですw

虚しさも行き着くと
なんというか、それを越えて笑えてしまいます。


意味のないお笑いってあるじゃなですか。

センスの良い、言葉で笑わせてくれるお笑いも大好きですが
(LIFEとか大好きです!)

それを越えた
ナンセンスなお笑い。

個人的にはサンシャイン池崎さんとか好きですが。

ドルフィン、って言われても!w

その意味のなさがおかしいというか。


それと、脳ってけっこう騙されやすくできているそうですから
無理にでも笑うと、自分は楽しいんだ、と勘違いしてしまうそうです。

(馬鹿ですよねーー、それだけで笑えそうですよねw)

にこにこしてると自然と幸せになってしまうわけです。
誤作動でw


なので、お笑いのテレビなんかを
私は意識的に見るようにしています。

虚しさを笑う


それは
一度も虚しさを自覚しない人の笑いよりも

ずっとずっと強いもの。

生きる意味は見出さない。
創り出す。
そしてそれは(犯罪にならないなら)何でもいい。ゲームでもいい。アニメでもいい。
他人にとやかく言われない!


いかがでしたでしょうか。

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「世界」の範囲

ロゴスの小径へようこそ。

最近若者の自殺についてのニュースが目につきますね・・・。

若いころは死にたくなるようなことってけっこうあるものです。
(と自分が思っているだけで他の皆は違うのかな・・・)



自分に意地悪した人や愛してくれない人への
ある種の復讐だったり

学校に、世界に馴染めないような自分

みんなはうまくやってるのにな

自分はうまくできなくて
クラスで浮いてしまう

もしくは
うまくやってるけど、実は心の中では
本音とは全然違う
無理に周りにあわせてるだけ


自分に関心のない親

もしくは

関心があるように見えて実は
あれこれ言ってくるだけ。


おまえは勉強も何も長続きしないとか言うけど

自分だって今度こそダイエットするとか言って
言ってるだけで終わってるじゃん

勉強しなさい、と言えばいいだけなら
誰でもできるし


ああもうなんだか楽しくない


学校で面白くもないのに笑ってまわりに合わせて
なんとかやり過ごしてる自分は
嘘つきだし


センセーの言うことはいつも同じ。
到底できっこない。

自分は世界に合わない。
消えてしまいたい。



それは大人が死にたい理由とは全然違う理由。



それは本当は

世界をあなたが知らないから。


まあ、多くの大人も知りませんがw



あなたが知っている「この」世界は

正しい世界としてここにあるわけでは、ない。


そもそも世界に
「正しい」とか「悪い」って本当はない、って知ってた?


私は大人になってから大学に行ってやっと知ったばかり。


正しいかどうかは、みんながなんとなく決めてるんだ。


例えばお金。
命をかけてまでこれを得るために争ったりするけれど

よおく考えたらただの紙切れ。


ある日みんながただの紙切れだよ、と言い出して
品物とは交換しないと言い出したら

それはただの紙でしかない。


だけど皆で約束して、
この紙は「お金」というものにして物と交換できるようにしよう


と決めたルールの中で生きてるから
それには意味ができる。


だから、ただの紙だけど、でも

ただの紙だからいらない!とは誰も言わない。



それと同じように世界は
皆の約束事でできてる。


それはだいたいが間違っていない。
間違うと、世界は簡単に終わってしまう。戦争とかでね。


今世界がある以上、間違ってはいないと言える。
でもそれは

細部のすべてが正しいということを意味していない。




「この世界」にあてはまらない自分に
がっかりすることなんかないんだよ


それにたいていは

円しか知らないけど他の国にはドルとか違うお金がある

それくらいのレベルで


世界は違う


自分の親がそんなでも、世界の親がすべてそんなわけじゃない。
つまり、自分の親や先生が大人のすべてではない。


できれば良い大人を見つけてほしいな。

それはきょうだいとかイトコとか
塾の先生とか

先輩でもいいし

他のクラスの先生だっていい


もしいないなら

本の中にいるよ

本が苦手なら漫画やアニメや映画だっていいんだけど
なんで本がいいかというと安全だから。

何十年も何百年も読まれているような本は
長い間時間をかけて人類が
「これはいいものだ」と経験してきたからこそ残っているという
お墨付きだから。


そうやって教養を増やしていくと
世界が広いということに、本当に気づく。

そして
あなたと同じような思いを抱えて生きている人たちに
いつか出会う

いくら友達と遊びまわっても
教養が身についていない人には

話せないような
広い世界の話が

そういう友達とは出来る。


成績が悪いから、とか全く関係ないよ。
教養とは、記憶がいいかどうかを競う勉強とはちょっと違う。

それは

世界をどれだけ知っているかと

知った上でどこまで
自分の頭で考えられるかということ。


そのことは


行き詰ったようなこの世界に穴をあけてくれる。


世界を知ってほしいな



そして


知ってるつもりでいる大人にも。



心の空洞を埋めるには

自分が世界だと思っているこの世界という定義に
穴をあけること。





いかがでしたでしょうか。
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幸福は運なのか。

ロゴスの小径へようこそ。

「幸福」になるのはただの偶然ではない

というような言葉を先日友人から聞きました。

その真意は、元となった本を読まないとわからないのですが
(読んだらご紹介します)


もちろんどこに生まれるかは自分では選べない以上
運としか言いようがありません。

カースト制度社会に生まれたら
あなたの職業は親の職業を継ぐ、それだけです。
それがゴミ集めという身分の低いものであってもです。
しかも努力では抜け出せないのです。

日本は現代では好きに職業を選べます。

けれど生まれはやはり選べない以上
人間はやはり不公平です。

努力次第で、なんていいますが
スタートが既に違うのですから。


ではそれ以外の幸福とは、単なる運なのでしょうか。
幸運な人とそうでない人の違いはなんなのでしょう。

私はずっと単なる運で意味はない、と思っていました。

けれど友人の言葉に

ああ、それってもしかして

幸福って、「運の神様」が運んでくるのではなく
友達というか、周りの人が運んでくれる、という意味じゃないかな、と。

つまり
自分がどういう付き合いをしてきたかで
自分の幸運もあがる、とそういう意味ではないかな、と。

そう考えるとなるほど、と思えませんか。

人間という社会の中で暮らしているのですから
どれだけ良いコミュニケーションをまわりと取れるかで
人生は変わりますよね。

ご近所と仲良く過ごすご老人は一人暮らしであっても
孤独、にはならないですよね。
そういうおじいちゃんがご近所にいらっしゃいました。

私の場合は到底自信がありませんがw

けれど、仕事を探していると話したら
紹介してくれる友達がいたり

大学を休むと言ったら
代わりにプリントをとっておいてくれる友人がいたり

愚痴を聞いてくれる友達や

哲学話を延々と一緒にしてくれる友達

自分は恵まれているとつくづく、本当に思うのです。

自信がないといったのは
それだけの優しさを私は周りに返せているという自信がないということです。

同じような話を思い出しました。
倫理学の先生にお話しいただいたのですが

いつもしかめっ面をしている人には
誰も笑顔を向けないですよね。怖いし。

怖がったり、ムッとしたり。
あたりまえです。

けれど、しかめっ面の本人からみると

「なんで周りの人はしかめっ面な人ばかりなんだろう」
ということになってしまうのです。

しかめっ面を作っているのは自分自身とも気づかずに。

反対にいつも笑顔の人は
笑顔を返されることが多いですから

「周りの人はいつも笑顔だな〜」
と思うことになったりします。

言われてみればあたりまえですが

なるほどーーー!!という感じですよね。

周りの人と笑顔でいられることが
幸運を呼んでくれるのは

スピリチュアルでも偶然でもジンクスでもありませんね。

うーーーん、説教くさい!w

でも、これって本当だと思うのです。

とりあえず、周りの人がどんな表情をいつもあなたに向けるか
考えてみてください。

幸福は、まずはそこから・・・。


いかがでしたでしょうか。

今日おかげさまで一度10位以内に復帰したようです!
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明日から一緒に笑顔で♪ (^^)

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