ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜

やさしい「哲学」が世界観を変えます。「スピリチュアル」で幸せになれないような気がする方へ。

正しいか正しくないか

ロゴスの小径へようこそ。

世界は「正しい」かそうでないかを決定して成り立ってきました。

火傷に油を塗る(昔はそうしていたそうです)→正しくない
火傷は冷やす→正しい

のように、一つずつ吟味して
より正しいものへと向かっています。

子どもの頃から
赤で渡るのは正しくない、青は正しいというように

友達と喧嘩するのは正しくない
みんな仲良く、が正しい というように。

しかし本当にそうなのでしょうか?

世界はそんな風に、正しい、正しくない、で二分して
いつか「より善いもの」に到達できるのでしょうか?

だとしたらなぜ宗教による戦争がなくならないのでしょうか?

例えば病気にいろいろな投薬をして
この抗生剤が正しかった、とか

科学的な検証をいろいろしてみて、これが正しいようだ、とか

経済発展のためにはこうするのが正しい、とか

そういう部分であある意味正しさを決められるそうです。
だって何にむかっているかがハッキリしていますから。

けれどそれを、哲学が倫理、つまり
生き方の問題に当てはめることはできないと言います。

例えば
「自分の意見をはっきり言えるのが正しい」というような思想が
日本でも蔓延していますが

日本人の性質として
また日本人が美しいとしてきたもの、あるいは生き方、もしくは習慣として

自分の意見を言うのは差し控えて
皆の意見を調整しよう、すり合わせよう

というような思想もありますよね。

和を以て貴しとなす のが日本人の特性ともいえるわけです。

それをずっと続けてきたのですから
言いたくて言いたくてムズムズしているのを我慢する、というのではなく

以心伝心のような
なんとなく通じ合うような

悪く言えばソンタクするようなw

そういう文化なわけです。


そこに、自分の意見を言いなさい、という西洋的な思想を押し付ける。
それが正しい、とする

自分の意見をはっきり言えない子供は
どんどん傷ついていきます。

意見がはっきり言えない自分を責めて
自分が悪いのだと思わされて

いじめにあったりもするわけで

それも日本人の自殺者が多い理由の一つと言われています。

自分はいじめっこではなかったから関係ない、ではなく

問題は
「意見をはっきり言うことが正しい」と教育(あるいは啓蒙)されてしまっているだけの自分に気づかず
それを「正しいこと」と多くの人が認識してしまっていることです。

なぜ意見をはっきり言えないといけないのか?
語らずとも深い思考を持つ人はたくさんいます。

むしろ、本当にものごとを知れば意見を言うことが難しくなります。
なぜなら

「これが正しい」ときっぱり言いきれるものなど
ほぼないことを知っているからです。

さきほどもテレビで池上彰さんが
日本と海外の違い(学校など)を解説されていました。

日本は海外に遅れていると取れることもあれば
進んでいるといえることもあって

池上さんは最後に
「だから日本は悪い!というのではなく、違いを知ることが大事」
というようにコメントされていました。

「だから日本は悪い!遅れている!」と自分の意見を言うことが悪いわけではありませんが
一概にそう言いきれません。
だから、なんではっきり悪いと言わないの?と思う人には
ある意味歯がゆいコメントなのかもしれませんが

ものごとを多方面から見れば
一概に正しい、とは言えないものです。

唯一の正しさのようなものがあるのなら
戦争は無くなるはずです。皆がそこに向かえばいいわけですから。

ですから
こうするのが正しい、と言えるのは

この病気を治すにはこうするのが正しい、

というようにゴールがはっきりしている場合です。

けれど
正しい生き方のようなものは明示されていませんよね。

国ごと、宗教ごとにその内容が違うくらいですから。


なんて偉そうに書いていますがw

私もほんの少し前までは
世界の全てはだんだん正しい方に向かっていけばいいし
そうなっていると思い込んでいました。

10年くらい前でしょうか、とある本で

一夫一婦制が「正しい」というのは人類の普遍ではなく人間が決めたルールでしかなく
キリスト教がベースになっていますがその方が政治的・経済的に便利だったのかもしれません)

一夫多妻が正しいとしている国もある

と読んだことです。

いえ、そんなことは知っていました。
日本だって昭和の初めころまでは、力のある人はお妾さんがいるのは当然だったわけで

けれど、それは時代のせいで、
昔は間違っていた、今は正しい

と思い込んでいた、ということに気づいたのです。


世界は
正しいか正しくないかで二分はできない。

哲学書の多くはそのことを言っているのです。

二分した方が思考としては楽なのですが
世界はそうできていないのです。

もし世界中の人がたった一つの宗教を信仰していたら
「正しいもの」はある、ということになるはずですが。


今日放送大学の講義でシンギュラリティの問題について話していました。

人間は、人類全体でたったひとつの正しさのようなものを持っていません。

AIにはそれを教えないと
一部の「正しさ」の知識に傾倒すると危険な方向に向かうというのは
私たちでも想像つきますよね。

何か自分が

これが正しいのに!と思ったときは
もしかしたらそう言いきれないのではないか、と自問すると
はっと気づくことが多いです。
ぜひ試してみてくださいね。

特にすごく怒ったりイライラしているときは
それで気が楽になることもあります。


いかがでしたでしょうか。
我ながら万人受けしない内容だよなーーと思いますがw
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「やりがい搾取」ってなに?

ロゴスの小径へようこそ。

人は「自分のため」を前面に出すと
なんだか「良くないこと」と思うように教育されていますね。

反対に、「他人のため」というのはとても「良いこと」で正しいとされています。
もしくはそれ(他人のためになることをしてしまう=利他性)が人間の「本質」なのかもしれませんが。

しかし実際は
誰かを助けるために自分の命を投げ出すことが「良いこと」「正しい」とは言い切れませんよね。

実際自分がその立場になったとき
家族などならまだしも全くの他人のために命を投げ出せるのか?

投げ出せなくても誰も非難したりはしません。
それは一概にそれが正しい、とは言いきれないからですよね。

まあ、この話に結論はありません。

今回は
それとは別に

現代は
「他人のため」という思想に経済がつけこむ社会になってしまっているというお話です。

どういうことかというと

「やりがい搾取」という言葉をご存知ですか?

これは、高い給料を払いたくない企業が
「他人のためになるから」「やりがいがあるから」という理由で
低い賃金で労働者を働かせるというようなものです。

ファストフードのチェーンの店長が残業代なしに働かされる、けれど
「でも、その分お客様の笑顔が見られるから」などと理由付けされて
本人もそれで満足してしまうというような状況です。

本人がそれをやりがいに感じ、本当に楽しいのであれば
それでいいともいえるのですが

そこにうまくつけこまれている可能性もあります。

うちはお金は出せないんだけど、人のためになることだから

と言われたりして、それを鵜呑みにしたりしてね。

雇用者側が悪意をもって騙して安く働かせよう、というのもタチが悪いですが
雇用者側が気付いていない場合もあり、その場合はもっと騙されやすくなると思います。

実際私もそんなようなお誘いを受けたことがあります。
子供たちのために、ボランティアで勉強を教えてあげて欲しいというものでした。

それを勧めてきた方もボランティアで貧困家庭の子供たちに勉強を教えています。
確かに素晴らしい正しいこと、と思います。

けれどその方は宗教に帰依しており
それが「神様からのお役目」なんだそうです。
そういう慈善をつめば、最後の審判で天国?に行けるという期待があるので
言ってみればそれは「報酬」ですよね。

しかしその価値観のない私は天国も地獄もないので、
彼が天国にいくためのコマでしかなく、なんの恩恵もありません。
(自分が自発的にやりたいと思わない限りは)

それはやはり「搾取」なのではないでしょうか。

しかし本人は「いいことをしている」という意識しかありませんので
この人怪しいな、とも気づきにくいと思います。
私はひねくれているのですぐにピンときましたがw

そういうのこそを「偽善」というのだと思いますね。

名誉のためにいいことをしよう、なんてアクドイ思いを一般的に偽善と呼んだりしますが
むしろ自覚がない方が見苦しいように思います。
自分はいい人、という意識を拡大させつつどんどん他者を騙すんですから。

オレオレ詐欺などもその一環だそうです。
子供のためなら孫のためなら、という利他性につけこんでお金を出させるのだそうです。
もちろんこちらは意識的な詐欺ですが。

自分のために何百万もぽん、とは出せませんが
家族のため、と言われたら嘘のように簡単にお金を出してしまいます。

こんな風に
「他人のために」という思いは利用されがちなんだそうです。
そこに気づかず、自分もそれで幸せならもちろんいいのですが

問題は
それが過労死やブラック企業の存続につながっているといえることですから

ちょっと考える必要があります。

友達に、「●●の仕事してるんでしょ、ちょっと無料でやってよ」
と言われるのももちろん搾取ですね。
こちらもやりたいと思っていない限りは。

子供の幼稚園のイベントのポスターを作ってくれ、のように
今までも何度かいろいろな人に頼まれたことがあります。

全部お断りしたので一度もやったことはないですがw

それが無料だと思われるのは不快ですし
そもそも「子供のためなんだからやるのが正しい」というやりがい搾取です。

ちなみに私なら犬のため、と言われたら無料でやりますね。

つまり
要は本人が「本当にやりたいかどうか」がポイントなんですよね。

そして、本当にやりたくてやり始めても、
それを当然のように「やれ」という態度をとられると
一気にやる気も失せますね。

お料理を作ってあげたい、と思って作っているところに
早く作れよ!と言われたら一気にやる気なくす、という感じでしょうか。

そんなわけで
他人を安く使いたい場合は、
「世のため人のためだから」とそそのかすのが効果的というお話でした(?)w


いかがでしたでしょうか。
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「本当の自分」とは?

ロゴスの小径へようこそ。

現代は「自己実現」、つまり自分が自分であるための生き方を
「天職」と言われるような
(本来、宗教的な意味があるのですが「スピリチュアル」とか政治に利用されていますが)
「仕事」で収入を得るのが「正しい」とされていることは[http://d.hatena.ne.jp/ruribyaku/20180713:title=先日も書きました]が

方法は何にせよ、自己実現の背後には
「承認」という欲求が潜んでいるそうです。

つまり、自己実現には誰かに認められる必要があるわけです。

例えば自分の好きなことで自己実現したい、と歌を歌っても
誰もそれを聞いてくれない、褒めてくれないなら
自己実現できないですよね。

もちろん
ひとりカラオケで歌って満足、ということはあると思います。
しかしそれは「自己満足」ですよね。(悪い意味ではないです)

そういうことは誰しもにあります。
ゲームをクリアしたことを誰にも伝えなくても満足しますしw

仕事でなくても
例えばボランティアや政治活動で自己実現することも

結局他人の承認を得たいという気持ちが含まれているわけです。

他人のため、といいつつ自分のためなんですねえ・・・でも

それでもいいと思います。

例えその根源が自分のためであっても
誰かの役に立つ行為は素晴らしいことだと思います。

ちなみに人のため、自分のためではないといいつつ
実は「神様のため」=「神様に認められる」=結局「自分のため」なのではないか?
という議論も、宗教の中では長く問題視されているそうですが。


それにしても、自己実現が本当に他人のためになる、って
なんて素敵でしょうね。

被災地に歌で応援しにいく歌手の方など
本当に素敵だと思います。
売名行為、なんてすぐに言われてしまいそうですが

そうであっても自分が好きなことで他人を勇気づけたりできるのは
とても素敵、かつどんなに自分を満足させることでしょうね。

どんなに歌が好きでも
まったくの素人、しかも感動するような歌でもない・・・
それを寄付しますので元気出してください、と言われても
歌われる方はかえって迷惑ですよね。

とはいえ、
自己実現に他者の承認が必要であるなら

そもそも彼が歌を好きになるのも
誰かに褒められたり承認されたからでもあるわけなので

あまりにひどい見当違いということは
そんなにないと言えるかもしれませんが。

でも、そういう風に考えていくと

そもそも自分の好きなこと、って何なんでしょうねえ?

いつか誰かに褒められたこと=自分が好きなこと

なのだとしたら

「本当に自分が好きなこと」なんてない、もしくは判別できないと思いませんか?

そうなんです。
自分の好きなことに限らず

人は周りに影響されて生きているので

「本当の自分」「本来の自分」といっても
持って生まれた本来の、というのは無いに等しいわけです。

もちろん「本当の自分」の定義を広げれば、あるといえます。

家族、特に親 や友達やテレビやネットに影響を受けた

というのは(良し悪しは別として)人間ほぼ全員に当然のことですので、
そこは考えずに、とすればです。

また、
全く同じ人間であっても
生まれた時代によって思想や好みも変わってしまいますよね。

それはむしろ当然のことです。

なのでそこも考えずに。

そんな風に考えずに、の部分を厳密に抜かしていくと

「本当の自分」の定義は非常ビミョウになってきます。


近年心理学的には4,5歳までに受けた影響が人格形成に大きくかかわると言われていますが
4,5歳までというとやはり親の影響は大きいですね。

先日ファミレスで自分の子どもの欠点というか愚痴?を
話すお母さん二人の声が聞こえて来て

それ、自分のことを話しているのと大差ないのでは・・・と
ちょっと感じたりしました。

もちろんそんな母親も、その親の影響を大きく受けています。

その影響が自分にとって悪影響だとしたら・・・
ではどうしたらいいのか?

4,5歳までの話であれば
もはや今から親を恨んでもどうしようもないですよね。

とすれば
自分で自分を実現していくしかないようです。

本当の自分、は自分で作っていくしかないんですね。

うーん、なんだか
話が入れ子になって一本すっきりとした筋道がないような・・・?

そうです。
一本ず地道が通った明快な話など、
作り話か、後から取ってつけた話以外にありません。

本当の自分はここを思考していくことで折り合いをつけるように浮かび上がるものであり

旅先で簡単に見つかったりはしませんw


いかがでしたでしょうか。
もやっと終わるのでスイマセンwでもこのもやっとこそが思考の種になるんです。
こう考えましょう、こうしましょう、と言われたら
思考はせずにそれに従うだけですから。でもそれって「本当の自分」でしょうか?

ああまた一般受けしないような内容を書いてしまいました・・・w
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まわり道も大事です

ロゴスの小径へようこそ。

いよいよ卒業論文に取り掛かることとなりました。
・・・とはいえ、数年計画ですがw

思えば私は神社を中心とした日本古代歴史を学ぶために大学に編入したのです。

学士入学だったので最短で卒業論文に入るつもりで
すぐに卒論の個人説明を受けました。

そこで、
神社について書きたい、テーマを今から決めてしまって
それに必要な勉強をしていきたい

ということを先生に相談させていただいたのです。
余計な、無駄なことを勉強する時間が無駄なので
効率よく学びたい、と。

そこで先生がおっしゃってくださったのは

無駄やまわり道は大事ですよ

ということでした。


私はものすごく先生の言うことを聞く子なのでw

そうですか、じゃあそうしてみますと

日本史以外のことを学び出しました。


おかげで私は人生で、私にとっては最も大事な「思考する」ということと出会うことができたわけですが

これに出会えなかったらと思うと
どんなにつまらない人生で、
そしてどんなにつまらない自分だっただろうと想像がついて
本当に怖いです。

宗教に帰依されている方にとっては宗教、
仕事で成功されて幸せな方にはその仕事、
恋をしている人にはその恋人と出会えなかったら、と
想像してみてください。

それくらい私には、人生を変えた大きな転換でした。


なんだか陳腐な話にも聞こえますがw
まわり道しなければ出会えなかったのです。


近年、テレビなんかで小学生の職業体験のニュースを見かけますね。

以前は「あんな小さなうちから体験できるなんていいな、
そうしたら必要なスキルだけをどんどん身につけられるし羨ましい」

と思っていました。


しかし
「今日体験してみて、●●になろうと決めました」という
子どものインタビューを聞くと

ちょっと怖いな、と思いませんか?

もちろん子供のことですから
何になりたい、と言っても将来は変わる可能性もありますが

当時にテレビで

子どもの頃からサッカー選手になるのが夢で、努力してサッカー選手になった

というような「ええ話」を放送したりするわけですよ。


すると、
子ども時代からなりたいものを決定し、その夢を追いかけることが
「いいこと」「正しいこと」という教育が成り立っていくことになります。

怖いですね

いったい大人たちは何で子どもを囲い込もうとしているのでしょう・・・

答えは労働、つまり「経済」です。

夢となりたい職業は「イコール」なんだと
啓蒙しているわけですね。

ただでさえ子どもの数が減っているのですから
誰もかれもが立派な「経済人」になってくれないと困るからです。

困る?誰が??

国が、ですね。


もちろん経済的に貧しくなれば福祉にもお金がまわらなくなるので
結果大人たちも困るわけですが


この議論は、戦争の議論と似ています。

「国のため」という「国」とは何か?


それは人ではないことは確かです。
国は私たちのためにあるもので、
私たちが国のためにあるわけではないのですが

怖いことにそれは意識しないと忘れられがちです。


そんな風に考えていくと

まわり道の重要性は

他の可能性を見つけられるかもしれないということに加え
視野が広くなるということといえると思います。


子どもは特に、広い視野を持てる方がいいのではないかと
思ってしまいます。

まあ、その是非は別としても

「こうあるべき」という落とし穴にいつのまにか落とされているということに
気づくことはとても重要で

それに気づくためには、落とし穴をよけてまわり道するしかない
ということなんですよね。


穴に落ちていない人からは
穴に落ちてしまった人のことがよく見えますが

穴に落ちている人からは、外が見えないので

自分が穴に落ちているんだと気づくことさえできません。


子ども時代に決めた夢を実現してそれを一生続けてスペシャリストになること

が素晴らしいことであるという謎の価値観が植え付けられていますが


親の家業を継ぐしかなかった時代の名残りとしか思えません。

もちろん、そうあっても悪いわけではないです。
けれどそれが正しいわけでもありません。

先日も書きましたが
体験することが生きることなんだとすれば

落とし穴の中だけで体験して終わるなんて
なんて狭い人生なんでしょう・・・

しかし穴の中ではそれに気づかないのでその狭さも自覚できないので
幸せだといえるかもしれませんが。


こんなような哲学的なテーマを描いた映画や小説はたくさんありますが
スポーツを例にとったので、思い出すのは「巨人の星」です。

子ども時代は
野球以外の話がつまらない!というくらいにしか思っていませんでした。

しかし大人になってから、その思想の深さについての本を読むと(ややこしいですねw)

主人公が野球だけにまっすぐ没頭するのではなく、
それでいいのか?と葛藤したりする様が描かれて
読者も同様に思考に(つまりそれが哲学なんですが)誘われるようになっているんだそうです。


広い視野が持てたからといって即幸せ、とは言いきれませんが
狭い選択から落ちこぼれたらもう未来はない穴の中で生きるよりも

不幸になる度合いは少ないと感じますがいかがでしょうか。


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「結論」の危うさ

ロゴスの小径へようこそ。

先日、自分の大学の公開講座に行ってきました。
内容は「人と繋がる」がテーマで、
「人と繋がることはいいことです」的な例のアレかな〜とかw
思っていたのですが

内容は全く違いました。

繋がる

をテーマに、人類学的、社会学的な事例を紹介する内容でした。

例えば
人と繋がる、といっても「死者と繋がる」ということ。

えっ心霊話???と思うかもしれませんがw

しかし例えば亡くなった家族が会いに来てくれた、と思うのなら
それはもう「繋がり」ですよね。

幽霊の実在がどうの、という問題ではなく。

また、例えばボルネオの密林。
数十年前まではジャングルだったのに
現在では地平線まで続く、パームやしの畑だそうです。

つまり自然破壊です。・・・けれど

それを他人事のように非難することはできません。

なぜなら、そこでとれるヤシ油は
洗剤やお菓子などさまざまなものに使われていて
その販売先のほとんどが先進国です。

現地で使用するのはわずか3%程度だそうです。

同じように、外貨を得るために、先進国が必要とするものは
後進国」で栽培されています。
コーヒーやトウモロコシや
いまや私たちに必要不可欠な食材や原料。

けれど、そのおかげで土地が奪われ、現地の人の食糧が激減し餓死に繋がる・・・

など深刻な問題を抱えています。

見えないですからぴんときませんが

これもまた「繋がる」です。
いまやいろいろな意味で世界は繋がっています。

また、人工知能の問題にも触れました。
繋がるのは生き物だけじゃないですよね。
人工知能の進化した未来には
楽天的な意見と悲観的な意見がありますが
その両方を紹介いただけました。

皆さんはどう思います?
人工知能は便利でしょうか?怖いでしょうか?
ターミネーターのような未来に繋がってしまうのでしょうか??

そのような事例を聞くと、いろいろな思考に繋がりますね。

簡単に答えは出なくても、
一人ひとりが真剣に思考することだけが
明日の地球を変える可能性を持っているのです。
遠回りみたいですけど、それしかありません。


さてそんな講演会の帰り道
同行した友人が言いました。

「おもしろかったけど、結局この先どうしたらいいのかの提示がなかった」と。

すかさず
「こんな大きな問題に即答できるなら
それは啓蒙か宗教だよ」

と答えましたが。

結論から言うと、では明日から洗剤を使わずに洗濯してください。

と言われて実際できるのか?という問題を横に置いたとしても


「自分で思考せず」に、結論だけ信じてそれを実行するということの
なんという危うさ。


なぜそう考えてしまうかというと、
思考するのは人間にとって面倒だからだそうです。

真夜中の誰もいない信号で、
赤だけど車は全く通らないし渡ろうかな、でも誰かが見ているかもしれないし・・・

などと考えるくらいなら
何も考えずに青を待った方が楽なわけです。

しかし何も思考せずにそのまま他者の言うことを聞くのなら
その悲劇は歴史が証明していますよね。
戦争や弾圧に繋がってきた悲惨な歴史に。

宗教であってもそうです。
自分で教義に納得するなり思考するなり体験するなりして信じるのではなく

「ご利益あるから」と言われて大金を出してお守りを買ってしまう

というようにそのまま信じてしまう危険性。

それはしかし私だってそうです。
国に税金を払えと言われてそのまま信じて払っています。
いえ、信じていなくても調べ上げて根拠が得られないなら支払わないと裁判を起こす、など面倒です。
だから思考も行動もせずそのまま支払っているのですから。

「結局こうするべき」というような結論を持っている人の話は

何かを啓蒙もしくは売り付けようとしているということです。

この原理はたいていいろんな経済の場面で見られますが。

大学の講義では(これ以外の講義でも)
たいていこうすべき、というような「結論」はありません。

哲学は、こうするべき、という啓蒙はしないのです。
替わりに「こう考えよう」という方法や枠組みを与えてくれるものです。

いかがでしたでしょうか。

お陰様で早くも10位以内に入りました♪ありがとうございますm(__)m
普段生きていてもなかなか出会えないお仲間がどこかにいてくれるんだな〜と思えてうれしいw
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人は何を「見せびらかし」ているのか?

ロゴスの小径へようこそ。

連休が終わっちゃいますねー。
明日からまた奴隷生活ですねえw
労働したり家事したりね。あ、家事は連休でもやりますねw
もちろんどちらもそれが楽しい人にとっては奴隷仕事なんかではなく
自己実現の手段ということになりますが。

連休でSNSも旅行先からのアップが増えました。

旅行に限らずですが
これを買った、これを食べた、どこに行った、誰と過ごした

こういう情報発信をすることは
「見せびらかし」というそうです。

さすがに
「幸せのおすそ分けです」なんて悪い冗談を言うような人は今時いないでしょうけどw
そんなつもりはない!見せびらかしてなんかいない!と思うかもしれませんが

しかしわざわざなぜ人に伝えるのか?

人間はそれで

「自分はこういう人」だというのを他者に伝えるのと同時に
自分自身に確認しているそうです。

どうりで「自分探し」しても見つからないわけで
自分はそうして日々形成されていくものなんですね。

ちなみにSNSで発信するかどうかに関わらず
人に話したり自分に確認するのは
「見せびらかし」となります。

買い物だけじゃないですよ。
見せびらかしているのは
こんなサービスを受けた、
こんなものを食べた、
こんなものを作った、
こんな生活をしている、
そんな私。です。

でもこれ、全人類がやっていることなので
別にしたからって悪いという話ではありません。
おかげで経済は潤うわけですから。
経済発展を「善」とするのであればですが。

この連休私は、部屋の模様替えと掃除をするつもりでした。
しかしあまりの暑さと(エアコンしてますけど・・・)

別に掃除も模様替えも好きじゃないし
(いえ、誰かがしてくれるなら好きですよ!)

なんで年に何回かしかない三日以上の連休に
好きでもないことするんだ?ということに気づきw

いつもはいかない、哲学書の蔵書の多い図書館までプチ遠征して
お気に入りのカフェにいって読書してきました。

シュークリーム美味しかったなあ・・・w


で、そんな私をSNSにアップしたとき

この「見せびらかし」のことを思い出したのですが

そういえば、自分にはその行為がとても幸せで超テンションあがっちゃってw
「そんな自分が好き!」みたいな気持ちでアップしたのですが

考えてみると

休日一人でお気に入りカフェで読書というか正確にはレポートのための資料なので「勉強」をする

という行為に
「いいね!」とちょっとでも思ってくれるだろう友人の顔を思い浮かべると
・・・

うん、ほぼ学友くらいでしょうねwww
シュークリームにはいいね!をもらえるかもしれませんので
見せびらかしたのはシュークリームと言うことになるかもしれませんw

そういう視点で見ると

確かに全ての発信を心から羨ましいと思えてるわけじゃないですよね。

いいね、よかったね、程度には思うかもしれませんが
けっして自分がやりたいわけではないw

そう思うと見せびらかしている内容は
他人を羨ましがらせるというよりも
「自分てこういう人」を

自他にアピールしているということになりますね。

これが「消費」の根底にあるので

環境破壊や格差や深刻な問題が経済を中心としたこの社会にはあるのに

簡単に消費を人間はやめることができないのだそうです。

消費しなくなったら
自分がこういう人、というのを他人だけではなく
自分にも確認できなくなってしまうわけです。

ほぼ世界中の人間(主に「先進国」)がそういうシステムの中に入り込んでしまっていて
簡単に抜け出すことができません。

できるとしたらそれはある意味本当の「自由」を意味し
日本では路上生活者の人たちくらいだろう、と日本の哲学者が書かれていました(どなただったか失念・・・汗)

自由であるとは
そんな経済を中心とした呪縛から逃れているということです。

最新のiphoneが欲しい人は本当にそれが必要なのか?
本当に?本当にそれが自分の欲しかったものなのか???

コンビニによってその中からスイーツを選ぶとき
本当にそれはあなたが食べたいものなのか??

まあ、こんなすべてを
「どうでもいいじゃん楽しければ」で括ると
確かにその通りだと思いますが

どうでもいいじゃんと思えず

自分ってなんだろうと探究してしまわずにいられない人は

自分が何を見せびらかしているかで
自分がどういう人に見られたいと思っているかがわかるきっかけにはなると思います。

家族で過ごしてこんなに幸せ〜

がメインの人とか

こんなにおいしいものを食べて幸せ〜

がメインの人とか

仕事ばかりしてた〜

がメインの人とか。


人にこんなに親切にする自分

とか

こんなに勉強する自分

とか

こんなに子ども中心な自分


とかね。

もちろんそういう目で他人の記事をみるのも楽しいですがw

自分のアップしたつぶやきが

それが本当に自分のしたいことなのか?

それは他者にこう見てもらいたい自分でしかないのではないか?とか

ちょっと立ち止まるきっかけになると思います。

さてまだもう少し連休の時間内ですね!
旅行に出かけた家族が帰ってくるまでまだ時間がありますので
それまで読書したいと思います♪←これが見せびらかしのようですw

いかがでしたでしょうか。
皆さまのおかげで早くも12位まであがりました♪少数派ブログなのにw
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「自己実現」のしかた

ロゴスの小径へようこそ。

自己実現」という言葉を耳にすることってありますよね。

自分が、人間らしい自分であるために
自分の可能性を実現すると同時に自己表現していく、
自分の活動を通して自分を形成していく、というようにも言えると思います。

それって、
人間が生きることそのものとも言えますね。

自己実現の方法は本来
その人一人ひとり異なるものなはずです。

しかし現代
自己実現は、「やりがいのある仕事、天職」
といったようなものとセットで考えられているそうです。

やりがいのある、自分の特技をいかした「天職」を見つければ
楽しく働きつつもお金が入り、人生は充実する。

それ自体は悪いことではないように思えますが

反面、
それができていないのは、「引き寄せ」が足りないからだとか
天職に出会っていないからだとか
能力が足りないからだとか

ある意味今の自分が不十分で良くないから
つかめていない、というように解釈されてしまいます。

しかし
この考えは実は少し古いです。
これが流行っていたのは恐らく5年くらい前までではないでしょうか。
「スピリチュアル」ブームのピークの頃ですね。

現代の若者は仕事中心の人生を送っていない、とか
言われたりしますが

自己実現は、仕事でしなくてはいけないものではない
ということに気づいているからといえると思います。

家族と楽しく過ごすことが自己実現だったり
趣味を極めることが自己実現だったり
政治や、ボランティアを通して

極論すれば、経済力さえあれば家にひきこもって
仕事もせず好きに生きるも
自己実現ともいえるのです。

仕事をしない若者=問題視するのは

先述の「仕事で自己実現」という妄想に凝り固まった親世代の押し付けともいえます。

よくよく考えてみれば
仕事をしないで自己実現して生きるのは貴族でしたよね。

現代で若者が働かないのが問題なのは
経済力のない親に依存するなど経済的な面が問題なのであって

仕事に生きがいを見出していないことが問題なのではないということには
注意する必要がありますよね。

もちろん若者だけの話ではなく


私自身がそうだったように

仕事で自己実現することがエライ、という妄想というか
そういう風に日本の資本主義の中で教育されてきてしまったということに
誰もが気づけないなら

生きることは少々苦しいものになると思います。


というのも

成功している芸能人やスポーツ選手がごく一部であるのと同様に

自分のしたい仕事で自己実現してお金も得て成功して・・・

というような人は

ごく一部でしかないからです。

それを、
「天職」で成功しないのは努力が足りないからだ

というのが昭和までの思想で
いま成功している大人たちはそれを語るのですが、
それは成功した人の話であって

努力だけではつかめないことも非常に多いわけです。

若い天才ゴルファーに
努力すればだれでもなれるのでしょうか?

素質があれば、と思うかもしれませんが

月に何十万ものレッスン代を払える家に生まれた子どもでないと
実際は不可能であったりしますよね。


芸能人になってトップスターになるのに憧れても、
努力だけでなれるわけもなく

「それは才能と努力と環境とチャンス、あとコネとかないと無理だよねー」

とうっすら誰もが気づいているのと同様に

天職でノーストレスな仕事&お金もザクザク
を享受している人はごくごくわずかだということに
人は気づいてもいいはずなのに

気づかせないようにしているんですよね。
勤勉に労働をさせたい「誰か」によって。


そしてさらに大事なことは

仕事で自己実現している自分は本当に幸せなのか?という視点です。

もしかしたら
ボランティアや趣味のスポーツをしている自分の方が生き生きとしていたりするかもしれません。

つまり仕事で自己実現が悪いこと、というのではなく
それが幸せであり、それこそが自分であると思える人にはそれでいいのです。

例えば今日みたいに暑い日、しかも休日に
草野球なんかよくやるよなあ、疲れるよなあーとか思ったりしますが

それが楽しい人もいるわけで

重要なことは、それが本当に自分のしたいことなのか?ということなわけです。

もちろん、仕事は生活のためにせざるを得ない場合も多々ありますが

それで自己実現できていないと悩む必要は全くないということです。

ちなみに「余暇」
という言葉もありますが、これは
「仕事の合間の休み、仕事のための休み」という捉え方だそうです。

つまり
「余暇」で草野球をしています

と捉えるのではなく

自己実現そのものが草野球


というような考え方が「本来」の考え方なわけです。

繰り返しますが
どう生きるのが正しいとするかは人それぞれ。

仕事で自己実現してもいいわけです。

ちなみに私はこのことを習うまで
仕事で自己実現することこそが正しいと思い込んでいました。
怖いです・・・

もう少しでそのまま一生を終えるところでした・・・

残業で遅くまで仕事をして
それが心の底から楽しいのであれば
それでいいのだと思います。


しかし本当にそうなのか???
そう思い込まされているだけではないのか???

そういう視点を持つことが
たとえば過労死や心の病などのさまざまな問題に対応できることの
ひとつであるといえます。


頭のいい人はこんなこと、言われなくてもとっくに気づいていますよねw

私は大学で習うまで気づけなかったのですが

マインドコントロールとはそんなものかもしれません。
自分では気づくのはとても難しいものなのだと思います。


そんなわけで
「余暇」ではなく、「自己実現」つまり自分が楽しく過ごせる時間というのを意識して
この連休は過ごしてみませんか。


いかがでしたでしょうか。
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有名人を批判してしまう心理

ロゴスの小径へようこそ。

先日タイで洞窟に閉じ込められた少年たちが救出されましたよね。

救出には様々なプランが想定されたとは思いますが
ともあれ全員無事なようで本当に良かったです。

救出作戦には、
その道のプロが集いベストな道を決断したというのは容易に想像つきますね。

ところで
それにも関わらず「ダイビングさせるべきではなかった」というような
批判をする人もいたりします。

もちろん専門家の間で意見が分かれたというのであれば当然ですが

遠い日本で現地の状況も知らない素人が
自分の狭い知識の中で「正しさ」を決めて無責任に発言するわけです。

私はそういうのに非常に不快感を覚えます。
まあ、私自身哲学を学んで世界を以前の自分よりは俯瞰して見るようになれるまでは
併記でそういうことをしていたのですが・・・。

多くの人が無責任に
自分の狭い知識の中で、しかも無自覚に他者を批判しています。


自分はそんな批判はしない、と思います?


スポーツや芸能人の批判などは最たるものですよね。

自分はサッカー経験は愚か、運動もしもしないのに、
サッカーが負けたら「もっと努力して足腰を鍛えるべき」とか。

芸能人の言動をみて「悪い」と批判したり。
しかも正確にはみたわけではなく、テレビやネットでそう言っているのをみての批判
という状況なのですが。

ニーチェはそういう人たちを弱者と呼びます。

弱者たちは匿名で自分を棚に上げて他者を批判します。

しかしいざ自分が批判される側になるととてもそれに耐えられないのです。

「あの選手が負けたのは基礎練習が足りないからだ」なんて友達や家族に話すだけならまだしも
SNSに書き込んだりしちゃって。

もしその選手に「あなたが私のように有名になれていないのは、
才能と努力が足りないからですね」と言われたら
その人は平然としていられるのでしょうか?

それどころか、一般人に仕事内容を批判されただけで落ち込むのではないでしょうか。

なぜ人が、有名人や成功した人が弱者に比べて「強者」かというと、
そういう批判に常にさらされることを覚悟して
それに耐えているからです。

人間ですから、誰かに批判されるのは嫌に決まっています。
しかも弁解の余地もなく、見もしない他人から。

それでもそれに耐えるわけです。

実は弱者の根底には強者への嫉妬があり、
それが批判にもつながっているそうです。ルサンチマン(恨み)といいます。

浮気をする芸能人を批判する人の心理の奥底に「嫉妬」が含まれているわけです。
別に直接被害を受けたわけでもないのに、自分が神様のように
ジャッジをしたりして。

有名税」だなんて言いますが、
それは子供がクラスで可愛い女の子に嫉妬するという構図にもみられますから、
人間の本性とも言えるのかもしれません。

この状況を進化的・脳科学的説明も付きそうですが(生存に有利かどうかなど)、
別の見方もできます。

それは倫理的な見方です。

つまり、そんな風に他人を批判することが「良い」かどうかという問題です。

倫理、というと「道徳的に」と言われるようでキレイゴトみたいな感じもしますが

要は「そういう生き方を自分が美しいと思うかどうか」

ということです。

またさらにここには二つの捉え方があって、
神様を信仰している人には、
「神様がどう思うか」という視点が入り込みますが、

日本人のように一神教を持たない場合は
「自分がどう思うか」に関わってくるそうです。

例えば「武士道」を例にとるとわかりやすいと思います。

理論的に考えれば名誉(しかも君主のためだったり)のための腹切、など「正しい」
とは言いきれないし

君主のために切腹は耳にしても、神様のために切腹なんて
ききませんね。

神様も喜ばないでしょうし。

ではなぜその道を貫くのか。

そしてその思想が、それを守る人はいなくなった今でも、
ある種「美しいもの」として映画や本で描かれ、
それに私たちは少なからずも同意するのか。

主君のために命を落とす姿を、愚かだ、とは思えず
涙して心に響いてしまうのか

それは「生き方」の問題です。

つまり、武士道の内容自体が美しいかどうかというより
(実際できていませんし)
その人にとっての美しい生き方を貫く姿を

美しいと感じてしまうのではないでしょうか。


何を美しいと思うかはもちろん人それぞれで、
哲学は「こうしなさい」というルールを提示してくれるものではありません。

けれど

ソクラテスが言うように

私たちは(時代によって内容は変わるでしょうけれど)
美しいと思うものを実は知っているのではないでしょうか。


例えば自分ができもしない仕事を同僚ができないからといって
自分を棚に上げて卑下しますか?

自分の子どもとママ友の子どものテストが全く同じく悪い点だったとして

自分の子どもを棚にあげて、
あのおうちの子は、テストの点が低かったのよね〜

なんて言ったりします?

それは美しいこととは到底言えないですよね。


けれど匿名になったとたんに人はそれをするわけです。


あの芸能人、太ったわねー、なんていって
自分が太ったのを棚に上げていたりw


ここで思い出したいのは、その言葉の裏側には
ルサンチマンが隠れているということです。

つまりそういう発言は自分のルサンチマンをまき散らす行為であり
美しくないわけです。

美しくない、というのは周りがみてすぐにわかりますから

結果その本人にもいいことはないと思うのですが。


自分もまさにそういう弱者であったことに
ここ数年でやっと気づいたこともあり

ことさら、そういう人を見ると残念な気持ちになります。


美しく生きたいなと思います。
繰り返しますが、あくまでも自分にとっての定義で。

私の友達はこの酷暑の中、エアコンの無い部屋の窓ふきをして
体調を崩したそうです。

私は、窓ふきなんかしなくても雨で綺麗になるから
暑さがおさまるまでは拭かなくてもいいじゃん、と言いましたがw

何を美しい生き方とするかは人それぞれ。

ピカピカの窓がその人の美しい生き方であるかもしれません。


有名人の批判をしそうになった時
それを言うことができる自分なのか?というのを
立ち止まって考えてみると

その奥底にある自分の嫉妬に気づいてゾッとするかもしれません。


いかがでしたでしょうか。

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生きるということは体験するということ

ロゴスの小径へようこそ。

今朝だったか昨日だったか
テレビでたまたま見かけたのですが

俳優の藤村 俊二さんが亡くなられる前にこう話されていたとか。
(正確ではないですが・・・)

「人生はたくさんのものを得ることが幸せなのではなく
たくさんの体験することが幸せなんだ」


いろいろ考えさせられます。

たくさんのものを得ることができた人だから
そう思えるとも言えますし

たくさんのものを得ただろう人がそういうのだから
間違いないんだろうな

とか。


どちらにしても私たちは生きてそして死ぬ。

死んだあとは何も持っていけません。
お金やものだけでなく

思い出も。

としたら

何が大事かというと

「今、感じること」ですよね。

そしてたくさんのことを経験するには

何かを始める必要がありますよね。


何かを始めるのは面倒です。
でも、始めた人だけが体験できる世界というものがあります。

最も、誰かの作った世界の中でもいいのであれば
バーチャルな体験もまた体験ですね。

ドラクエ(私はFF派でしたがw)をしたことが無い人には
その世界の体験は人生になかった、ということになります。

漫画や小説を読んだことが無い人には
その世界の体験はなかったことに。

映画も同じです。
アニメだってそうです。

立って動き回るだけが体験ではないということですね。

ただし


誰かの創作の世界の中

という規定付きです。


それがいけないことというわけではありません。

どのみちこの世界も
誰かが創ったお金で
誰かが創ったシステムの中で
生きているわけですし


イタリアに行ったことのない人生でも
テレビやネットでたくさん見たりして
(もっとリアルな体験も今後可能になるでしょうし)
それでもいいや、と思えるならそれでいいわけです。

本人がそれでいいんですから。


ただ、私は最近思うんです。

この世界が死ぬまで体験できるアトラクションなのだとしたら

できるだけたくさんのアトラクションを体験した方が
お得なのかな、と。

お金のかからないアトラクションもたくさんありますし。

体験、というと

旅行だとか
習い事だとか
スポーツだとか

やはりそういうのを思い浮かべますが

なんでもいいんです。


体験から人との出会いも広がります。

もちろんゲームの中であっても。


出会いは大事、なんて陳腐な常套句に感じますがw

もし人との繋がりがそんなに大事ではないように実は思えてしまう方は

出会う相手が違うからかもしれません。


例えば私は大人になってから大学に入り
そこで出会った学友たちや先生方とのコミュニケーションは
本当に楽しくて


それまで実は
人といてもどこか心の底で楽しくない
なんだか自分って浮いてるよなー

とか感じてしまうことが多かったのですが


いつまで話しても楽しく涙が出るまで笑えたりして

あ、自分が変なんじゃなくて
集まる仲間を間違えていたんだ、と思ったり。

ちなみに自分が変わったということが多少あるにしても

やはり
やっぱりなんだか自分が浮いているなーと思っていた集まりに参加すると
依然として自分は浮いてるなーと思えたりするので


その集まりがいいとか悪いではなく
合うか合わないか、なんですけどね。


学生だと学校内の付き合いがほぼすべてになってしまうので

そういう仲間が見つけられないと辛いし
多少皆にすり寄って合わせるしかない部分もあるかと思いますが


あ、話がそれましたw

そんなわけで

犬の病気のことで哲学カフェ参加を休んでいましたが

また復帰しようかなと思っています。


大学の勉強や、カルチャーセンターでの勉強はもちろん続けますが
哲学って勉強だけになっては偏ってしまいます。
頭の中で考えたことだけで世界は完結しないですから。


とかこういうことを考えずにはいられない人たちが
いてくれるというだけで

なんだかうれしくなっちゃうんですよね。



なんだかオチがないですかw

このブログは少し力を抜いて続けようと思う今日この頃です。


気が向いたらクリックよろしくお願いします♪ちょっとうれしくなっちゃいますので♪
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「目的」はいらない

ロゴスの小径へようこそ。

人生は目的を持って
それに向かってまっすぐ進んでいくのが良いこと

という宗教もしくはイデオロギー
信じて生きている人はいまだに多いですね。

最近の若者は目的も持たない

なんて批判するようなコメントを
テレビなんかでもたまに聞きますね。
たいてい大成功している団塊の世代のオジサンとか。

先日テレビのインタビューで
超有名なデザイナーの方が

今の若者は夢を持たない。
夢は本気になってそれを追いかければ必ず叶うんだ

なんて話されていてびっくりしましたが

あれをみて、じゃあ自分もがんばろう!なんて思う人は
いるんでしょうかね・・・

ある程度の年代の人はそういうのに心が動かされるかもしれませんが
時すでに遅しw
今から夢を追ってもなあ・・・

あ、それは私のことかw


大成功していなくても
目的を持って生きるのは正しいことであり

しかもそれは仕事で自己実現する

というのが正しい人間の生き方のように
思われていた時代に
(今もまだまだそういう風潮はありますが)
私は育ちましたので

それが正しいのだと思って生きてきました。

目的をもってそれに向かって。


しかしそれは

単なる思い込みに過ぎなかったと気づいたのは
わりと最近です。

もっと俯瞰して見れば

国民を勤勉に働かせるのがお国のためになるので
そういう人間に育て上げられていたということです。

戦争時には、喜んで戦争に行くような教育を子供にしますよね?
敵国を悪く教えたりして。

それと全く同じですね。

もちろんそれで幸せな人はそれでいいのだと思います。

けれどそれは
人にこうしろと言われたことを考えもせずに「良い」と思って
生きているということですよね。

人の思うままに生きて、死ぬだけ。

まあ、ある意味楽かもしれませんが。


ともあれ私はそれが嫌になってしまったわけです。

もう人生も半分を過ぎて

・・・
あ、そういえば!女性の平均連例は84歳だから自分もそれまで生きれる、と思うのは
間違った認識だそうですね。
平均寿命とは今年生まれた子供が何歳まで生きられるかの試算だそうです。
なので、生まれた年によって平均寿命は違います。
人生100年時代、なんて言われていますがそれはあと数年か数十年後に生まれた人たちの話だそうで
私たちには関係ないともいえるんですねえ!w
・・・

残りの人生をできるだけ
好きなように生きようと決めているのです。

それでまず
目的を目指すように生きるのをやめよう、と。

例えば私は旅行が好きですが
考えてみたらふらふらっと宿も決めずに旅に出るわけではなく

泊る宿を徹底的にリサーチして決めて
行きたい場所も決めて

そしてすべて自分の予定通りだったなあと
満足して帰ってくるような旅のしかたです。

まあ、それはそれで楽しいのでいいとも言えますが

ところで人間を変えるものとは
「驚き」だそうです。

今まで知らなかったようなことを知った驚きで
世界は一変しますよね。

そういえば旅に出てそういう驚きに出会っていない気がします。
netで景色も確認してから行きますからねー

昔はせいぜい旅行本くらいでしたから
足袋は驚きに満ちていたわけですが

旅をも目的、にしてしまうと
それは旅というよりイベントですね。

(繰り返しますがそれで楽しいならそれでいいのです)

そんな風に考えると
私のいろんなことが、「目的」に満ちていることに気づきました。

しかも「大学に受かるため」など
他の何かのための暫定的な目的でもないのに。

謎の目標設定をせずに旅するように生きるには
少々練習というか意識が必要なようです

と考えてぎょっとしました。

目的を持たないように生きよう

を目的としているような自分に気づいたからです。

オソロシイ呪縛。

生きることに目的などはない。
だから虚しいとも言えるわけですが

もともとそんなものは無いのです。

あると思い込んでいただけ。

もし生きることに確固たる目的がある、としたら
それは宗教的なことでしか表現できないでしょうね・・・

だって死ぬだけなんですから。

けれど
それを虚しく思うこともないのです。

人生は遊びと同じだそうです。

遊びに目的なんかないですよね。
それ自体が遊びなんですから。


漠然としてわかりにくいかもしれませんが

こういう時私は寅さんを思い出します。
父親が寅さん好きだった影響が大きいですが

寅さんの生き方こそが
目的を持たず、自分の好きなように旅をするように生きる
というような生き方のように思えます。

恋もそうですよね。寅さんは結婚という「目的」に向かって恋をしたりしません。
毎回マドンナが変わってもいいわけです。

もちろん実際は真似できないですがw

でも、ふと立ち止まって考えると
ああそうか、と思えたりします。


そういえば
昔は読書が大好きでした。小説を読むのが。
しかも純文学とかではなくw

ある時からそれは無駄な時間に思えて

英語の本だけを読んだり
哲学書だけを読んだり

いまだにそれは続いていて
漫画も好きだったのに読んでないですね・・・

「目的」には不要なものだと思えてしまったからですね・・・。

もちろん生活に支障が起きるほど
好き勝手に生きるのがベストとは思いませんが
(一生遊んで暮らせる資産があれば可能ですが)

目的をもってそれに向かって生きるということに

実は大きな意味はないということ
(宗教に帰依されている方には意味はあるかもしれません)

今まで目的で自分を縛り
目的が叶わなかったことで自分を責めてしまうような人には

少し考えてみてもいいのではないかと思う昨今です。

明日の憂鬱

ロゴスの小径へようこそ。

GWが終わっちゃいますねえーー!寂しいですか?

やりたいことがいっぱいあったのに
結局たいしてできないままとか?

何をして過ごしてたんだろう・・・思い出すと走馬燈のようだとかw

新入社員や学生はこんなときに、もう会社に行くのが嫌になってしまうそうですね。
5月病というやつになってしまうんですね。


そういえば昔、当時勤めていた会社に行くのが嫌で嫌で
日曜はサザエさんどころか、夕方になるともうどこにも行きたくなくなって
憂鬱になっていました。

そんなとき読んだのが
・・・すいません、失念してしまったのですが
仏教系の本でした。


そこで読んだのは
本当に単純で本当に当たり前のことなのですが


今から、明日を憂鬱に思って、明日朝会社に行くまでの何時間化を過ごしても

明日会社のドアを開けるまで何も考えずに過ごしても

明日会社に行くという事実と時間はまったく同じ


ということ


つまり


今はまだ日曜なのだから

日曜を満喫した方がいいに決まっている、


というような話でした。


ホント当たり前ですが


でも当時の私には、目からウロコで

その後の私の日曜の過ごし方が激変しました。


日曜に限らず

旅行にいっても、帰りたくないなあ、と思って最後の数時間を過ごすより
そんなことは忘れて最後までめいっぱい楽しんだ方が
いいに決まっていますよね。


明日は病院でいやだなあ、と前日の何時間をつぶしたりしなくても
明日病院に行くのは同じなら

直前まで考えず他の時間を楽しんだ方がいい。


そしてそれは
死も同じです。


死ぬのが怖いと思い悩んで恐れて生きるよりも

最後まで目いっぱい好きに生きた方がいいです。


それは紀元前、ソクラテスも言っています。


死後のことはわからないのに、それを恐れるなんて愚かなことだと。

もし死後というものがないのなら
それは永遠に眠るようなもので見つけもの

もしあったとしても
過去の偉大な哲学者たちと語れるかもしれないので楽しみだ

と。

としたら
死は悪いものだとなぜ決めつけられるのか???


逆に、
一週間後に旅行に行くんだ〜とか
友達と会う!とか

楽しいことは前倒しで楽しむのはお得、ということになりますよね。

私は旅行が好きなのですが

どの宿に泊まろうか、とか調べたりしている時間が最高に好きなんです。

もちろん旅に行っている間はもっと楽しいし

帰ってきて画像を整理したりする時間もまだ旅行のうち、のような気がして楽しめます。



もちろん、前もって準備が必要なことがあるなら
例え嫌なことでも前もって考えた方がいい場合もありますが

ただ憂鬱な気分に浸るだけなら
その時間は無駄な時間です。


こんなことをふと思ったのは
休みの終わりに当たり

私の身の回りのわりと多くの人が
(そして以前は私も)


明日から仕事だ、いやだなーーと話すのを耳にするからです。


その時間、もったいない!と思ってしまうんですよね。


もちろん私もその本に出合わなければいまだに
日曜はサザエさん・・・というか、イッテQあたりかな?w で
ああ明日会社だ、と憂鬱になっていたと思いますが。

ちなみに私は毎朝カフェで朝食を食べるのですが

それは、明日から会社、と考えないどころか

会社のドアを開けるまで会社のことは考えないようにするためです。


夜、翌日のことをふと考えると頭に浮かぶのは会社のことではなく

明日の朝はどのカフェに行こうかな♪


ということです。

朝のギリギリまで、会社に向かって歩いている時間さえも

私は自分の時間として楽しむようにしています。
(なので、なるべく会社近くのカフェにするのがポイントですw)


日曜の夜例えば今21時ですが

21時から明日はいやだなあ、と考えて過ごせば

残り3時間、(もしくは出勤時間までの12時間)は

まだ「お休み」のはずなのに、

会社の時間 の方に食われてしまうことになってしまいます。


コップ半分の水は

「あと半分しかない」なのか
「まだ半分もある」なのか


それはその人の思考次第と言いますが

それにちょっと似ていますよね。


ちなみに最初のうちは、そう思ってもつい考えてしまうかもしれませんが

大丈夫です。慣れますw

私もいつの頃からか、明日のことを今日から悩むことは
しなくなりました。

(特別な事情がある場合はもちろん考えずにはいられませんが
長期休みが終わっちゃうなあ、程度であれば)


今日から、それをちょっと心がけてみませんか?

ふと明日の心配をしている自分に気づいたら
その都度、いや、今日はまだ日曜日!というように考え直すのです。


だってそれは「そう思い込みなさい」というのとは違いますよね。

むしろあと数時間は日曜だという方が、事実ですから
「幸せだと思い込もう」とか言うようなアレとはw全く違って、
簡単に思考の切り替えができるはずです。


さてあと数時間。
いえ会社に行くまでの時間。

休みを楽しみましょう。


いかがでしたでしょうか。

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「目的」は必要ですか?

ロゴスの小径へようこそ。

生きるにあたって
「目的」が必要だ、とかひと昔前はよく言われていました。

確かに目的をもってそれに向かって生きるのは
ある意味「楽」な道ではあります。

目的があればそう考えないで済みますから。

大学に受かりたいなら勉強
痩せたいならダイエット

小さな範囲では誰もが小さな目的をもって生きていますよね。

買いたいものがあるから電車に乗って隣の駅へ

とかね。


しかし裏を返せばそれは
目的に縛られているとも言えますね。


もちろんそれで自分が幸せに感じるのであればそれでいいのでしょうけれど。

目的を持って
生きなさい

とか

目的を持って生きるのが正しい


とか

そんな定義はこの世界にはありませんね。
何かしらの宗教の教義内にならあるかもしれませんが。

目的を持っているからエライ、というわけでもありません。
もしそうだとしたら
他人を不幸にするという目的であっても、目的をもっているならエライ、と
言うことになってしまいますよね。

先日ノルウェーの哲学者(正確には倫理学者)の本を読んでいたら

「目的を持たないで、旅をするように生きる」

というような生き方が批判的にかかれていてぎょっとしてしまいました。


目的を持って生きるのが正しい、とする思想はキリスト教的です。
最後の審判」とか「死後の世界」を措定するのであれば
神様の国に行けるように
目的を持って生きるのが正しいと言えるのでしょう。
(説明だいぶ端折っていますが)

しかし現代で哲学を語る場合はたいてい
そういう宗教観は隣において語られることが多いのです。
だからちょっと驚きました。


東洋思想では
「旅をするように生きる」ことは、
死後の世界がある、と考えたとしても批判的には考えられていません。

むしろ、この世は仮の世界、
お釈迦様が遊びに降りてきたのが人間界です。
私たちは人間界を観光客のように遊んで旅して

そうして本来の場所に帰っていくというような思想だそうです。

(詳しくはひろさちやさんの本がお勧めです)


そういう視点で見ると

最近の旅行は、netで見た自然など観光地を
確認するのを目的としたような旅行が主流となってしまっているそうですが


旅は旅すること自体が目的であって
何か他の目的がある(例えば伊勢参り、など)生き帰りの道のことではない
と考えることもできますよね。


人生もまた、なんらかの目的のために「精進」して「努力」するものではなく、
(というか、そうであると言いきる根拠はない)

ふらっと歩く旅のようなものだということもできるのです。

どういう旅をするのが自分にとって心地よいかは
その人によって違います。


友達とワイワイの旅が好きな人
二人旅が好きな人
一人旅が好きな人

美味しいものが食べたい人
温泉に入りたい人

土地の歴史を知りたい人
珍しいものを見たい人
ただゆっくりしたい人


人生もまた
どう生きたいのかは人それぞれなのです。

・・・と、まとめるとキレイなのですがw


どう生きたいか、は自分の意思で決められるようでいて

実は時代や教育などに大きく影響を受けています。
考えてみれば当たり前なのですが。

人間には自由な意思がある、と昔はよく言われていましたが

幼少時の親の教育などが人間に大きく影響しているのは
現代ではよく知られていることです。

自由に意思決定しているようでいて

時代に影響受けていたりするんですよねえ・・・


忙しく働く方がエライ、とか
勤勉なことはいいこと、とか


そういう価値観は環境によっていつの間にか植え付けられていて
自分で自由に決めているつもりでも

決めさせられている

と言えることになってしまいます。


まあ、そういうのもすべて含めて自分、としか言いようがないのですが。


人生に「目的」と言われるようなものは、無い。
無いからこそ自分で決めるもの(もちろん決めなくても良い)


私は今まで常に、目的というものを意識して生きてきました。
無意味なことに意味を感じないというか。
ぼーっとしている時間を無駄だと思えてしまいますし。

でもそれは、私が育った時代が私に植え付けた意識です。

よおく考えると幼少時私はけっこうぼーっとしている子でした。
一人でいるのが好きで
一人でボーっとしていました。

と、幼稚園の連絡帳に書かれていたと親が話していましたw

私はもともとそんなような性格だったのかもしれません。


最近は意識して
旅に目的を持たずに

その旅を味わうようにすることにしています。

それは人生も同じ。

もちろんこれも「正解」ではないのですが


目的を持って生きるのがエライわけでも真理なわけでもないということ。

もちろん社会の中で生きているので
一定の範囲・・・例えば人を殺してはいけない、などはありますが

こう生きるのが正しい、というような
基準はないということ。


何かに追われるように生きることが正しいと考えがちな方は
この連休にそんな風に考えてみるのもいいのではないでしょうか。



いかがでしたでしょうか。

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人生を「引き寄せる」人

ロゴスの小径へようこそ。

私の友人の中に、とてもポジティブな人がいます。
本人は自分のことをそう思ってはいないかもしれませんがw

その人は、Aということがずっとしたかった。
それは何年もそう思い続けていたのです。

そして見事その夢が叶いました。
まさに「引き寄せ」ってやつです!
・・・だったのですが

せっかく得たAという状況だったのに
急にBという状況にならざるを得なくなりました。

AとかBではわかりにくい方は、例えば・・・

ずっとA君が好きだった。振り向いてもらえた
引き寄せだ!と思ったとたん
A君に他に好きな人ができてしまった

とか

会社の出張でずっと行きたかった北海道に行くことになった!
引き寄せだ!と思ったのに
たった数か月で今度は沖縄に行くことになってしまった

とか

そんな時どう考えますか?

自分は運が悪いとか
思ってしまいませんか?

引き寄せなんか嘘じゃんーーー!!とか。


私の知人はこう考えました。

「A君に他に好きな人ができてしまったけれど、
これは私にも他にいい出会いがあるという引き寄せなんだ」
「北海道にはいられなくなってしまうけれど、沖縄にもっといいことがあるという引き寄せなんだ」
と。

ポジティブですよね。羨ましいです。本当に。

しかしまだ続きがあったのです。

実はA君は他の人と付き合いだしたものの、
そのことでむしろ
やはり知人の方がいい!と気づいて
知人にプロポーズしてきたのです。

沖縄の例だと
沖縄に行くことになったものの、
また北海道に行くことに決まった

とか。

結果はOKです。望んだとおりです。

あれ、でもちょっと違和感・・・


A君と別れてむしろよかったんだ
とか
沖縄に行くことになってむしろよかったんだ
とか

さんざん聞かされたこちらとしては

あれはなんだったんだ・・・????みたいなwww


でも、これでいいんです。

知人はどんな状況の変化でも
「いいことだ」というように捉えていたと言うことです。

論理的に考えれば、

A君と別れた方がむしろよかったと言ってたんだから別れるべきなんじゃないの?

とか

沖縄の方がむしろいいと言ってたんだから、北海道にいくことは悲しむべき出来事じゃないの?

とかいうことになりますが


・・・
そんなの関係ねえ!!ですw(古い!w)


他人が矛盾をどう思おうかなんて関係ないです。

そのことでたいした迷惑をかけたわけでもないし、
犯罪ではないですからw


重要なことはその人が、どんな状況でも自分のハッピーを軸に考えていたことです。


その人を見ていると、引き寄せの法則、が彼女には適応されているなあと
思います。

だってどんな状況になっても、その人には「引き寄せ」になるんですから。


チョコのアイスが食べたい!と念じたらチョコが来た! ←引き寄せ

と思ったらチョコは隣の人に渡されて私にはバニラが来てしまった。
でもきっとそれはきっと、バニラの方がむしろいいという意味があったんだ!! ←引き寄せ

と思ったら隣の人がバニラがいいから交換して、と言ってくれて
チョコが来た!ほらね!引き寄せ! ←引き寄せ

というように

どんな状況でもその人は引き寄せが成功していることになります。

これを広げていくと、その人の人生の全ては引き寄せ成功となります。


客観的に見れば、それで成功とするなんてずるいですよねw
単なる自分の捉え方だけじゃん、と。


でも

人生とは自分の捉え方だけなんです、最初から。

だったらずっと成功、と思い続けていた方がハッピーに決まっていますよね。


とはいえ
この仕組みに気づいてしまっている人は

自分をどこまで騙せるか微妙ですw

知人はその仕組みには気づかず、ただ素直にそう思っているだけなので
そのままハッピーなわけです。


念のため言っておきますが、
「知人の話とかいって自分の話をしているんでしょ」というアレではありませんw

私はむしろ、自分の中だけでも矛盾をついてしまいます。


え、さっきチョコがいいって言ってたのにバニラでむしろよかった、なんて
負け惜しみじゃないの?

とか

バニラでいいと納得してたのにやはりチョコをもらえてうれしかったということは
さっきバニラで納得しようとしていた自分ってなんだったんだ??
見苦しくない???

とか

考えてしまうわけですw

自分の人生を生きたいように引き寄せる人は
そうなるような思考法が出来ているということですね。

これ、皮肉なようですが、実は正しいと思っています。

やっぱりチョコがよかったのに
一度バニラと決めなおしたんだからバニラを食べるべき、とがんばって貫いても

他人にとっては私がチョコを食べようがバニラを食べようがどうでもいいことです。


さて今日は有意義に過ごされましたか?

ダラダラ過ごしてしまって後悔している方、大丈夫です!

それはむしろいい結果を引き寄せることに繋がっています。たぶんw


そしてそうとわかっていても
どうしてもそう考えることができず
理論的におかしくない?と突っ込んでしまう私のような方と
話をすること

それが私の人生のお楽しみとなっておりますw


いかがでしたでしょうか。

少数派シニカルブログ ロゴスの小径。

ちょっとわかる気がするかも、という皆さま
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「常識」は大事ですか

ロゴスの小径へようこそ。

突然ですが

遠方に住む親戚が重い病気にかかり
そう何度も行けないというようなとき

死を待つように準備して
お葬式に参加するべきですか?

私なら
お葬式には参加できなくなっても
生前に一目でも会いたい。
そう思います。

それが血縁であればなおのこと

そして自分がその立場でもやはり
お葬式を待ってお線香をあげにきてくれる・・・といっても
それを自分が知ることができるかどうかは誰にもわかりませんが

それよりも

言葉を交わせる間に会いたいとそう思います。

ですから私は、それを選びました。
会って話をする方を。

そのかわりお葬式には行けないかもしれません。

先日知人にその話をすると

「お葬式に行かないなんて常識知らずだ」というように
ちょっと冷たい対応を受けてしまいました。

まあ、価値観は人それぞれなのでそのこと自体はいいのですが

自分がどんなに常識ある親に厳しく育てられ
常識ある人間なのかを彼女は語ってくれました。

常識

ってなんなのでしょう?

その人は年賀状を出すのが常識

と言います。

けれど近年、年賀状を出すことはもはや常識とは言い難くなってきていますよね。
メールやSNSで新年のあいさつは済んでしまいますし

そもそも常識というのであれば

女性は子どもを産むのが常識

けれど私は子どもがいません。
そしてその人はご結婚もされていません。


おわかりの通り、私は別に未婚者や子供がいないことを非常識だとは
まったく思っていません(特に近年は)が

常識

という言葉で人を断罪するのであれば

それは自分に返ってくると思うんですよねえ・・・

その方は
科学を信じていて
非科学的なことがキライだそうです。

しかしお盆にはお墓参りに行くそうです。
それは科学的?と思いきや

常識

だからだそうです。

うーーん。難しい・・・

例えばキリスト教徒にとってはお盆にお墓参りに行くのは
常識ではないですよね。

となると、「常識」の定義はずいぶん狭いものと言えることになりますね。

このことについて私はその方と議論はしませんでした。
というか、できませんでした。

そこを訴求するのが気の毒というか・・・。

「科学で証明できるもの以外は信じない」とも言われたのですが

科学

というものがそもそも、人間が信じる方向に発達してきたものとしか
言えません。

よく、

「人間が想像できるものは実現することができる」

という言葉が、科学の素晴らしさとリンクさせて話されることがありますし
私もその言葉に以前は感動していたのですが

実は

「人間が想像できないものは実現することができない」

という言葉が正しいのです。

例えばものすごく簡単なことで、実際は今の科学でも実現可能だとしましょう。

けれど、それを誰一人想像できないなら
実現できるわけがないのです。

誰かが一人想像できて、いつか実現できた時それは

「人間が想像できたもの」ということになりますよね。


結婚式には偶数を包むとか
訃報の時は新札はダメだとか

それは常識と言われますが

でも、考えてみたら結婚式という儀式自体
一般庶民がやるようになったのはせいぜい明治時代だそうで
(それまでは お嫁入)

だとすると、その「常識」も案外新しい「常識」ですよね。

でも、常識とは便利なものでもあります。

それに従っていれば他人との波風を立てずに
無難にいられますし。

お金いくら包む?なんてわからないときに
目安があるのは便利ですもんね。

そんなことでいちいち常識に逆らって
時間をとられることはありません。

けれど

最後に会えるのか
会えないのか

そういう決断をするときには

自分の心の声に従いたい。そう思います。

ちなみにその方はやはり遠方の血縁が亡くなったときに
「お葬式」
の方を選んだそうです。常識として。


私にはそれがどうしても理解できませんが

きっと、お葬式に出るという常識を守らず
それよりも話がしたいと思った私の行動は
お葬式派には理解できないんでしょうねえ・・・。


むしろ私にはお葬式よりも
会って話したいと思う方が常識に思えるのですが

きっと恐らくは
親の教育なんだろうと思います。
うちの親なら間違いなく、会って話す、を勧めると想像できますから。

大事なことは一つだけ。

自分にとって、大事なことを選ぶこと。
それが常識だからかどうか、ではなく。
そう思います。

それが一生に一度というようなことであるならなおさらのこと。


いかがでしたでしょうか。

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どう生きるか

ロゴスの小径へようこそ。

君たちはどう生きるか」という本を

ごめんなさい、読んでいないですw
テレビで池上彰さんが紹介しているのをたまたま見ました。
なので、本当の著書の意図はまた違うのかもしれませんが
テレビで見た限りの範囲で考えたことを書いてみたいと思います。

テレビでは
「子どもへの哲学書

として紹介されていました。

エエ話です。
涙出そうです。

しかしこれは

哲学の話ではなく
倫理の話だと思います。

「人間は自分でどう生きるかを決定できる」

著書が書かれていた時代の日本での哲学思想には
あっていると思います。

そしてそれは現代にも引きずられているのですが


実際は世界はそうできていません。

努力すれば誰もが夢を叶えられるのか?
夢が叶わないのは努力が足りないからなのか?

例えば
オリンピック選手の優勝者は本当に「世界一」なのでしょうか?

「オリンピックに出場できる限られた環境を持つ人間の中で」
なのではないでしょうか。

才能があっても家が貧しくゴルフ教室に通えない子供が
世界一になれない場合
それは彼の努力で補えたのでしょうか?

また逆に、どんなに良い環境にあり、自分もそれを目指していても
その才能を持っていないとしたら?

何かの事故に合ったとして
それはその人の努力が足りないからなのでしょうか?

生まれたばかりの子どもが病気になるのは
その人の努力が足りないからですか?


そう考えてみると

人間は自分でどう生きるかを決めることなどほぼできません。

しかし矛盾するようですが
ある意味では、どう生きるかを人間は決めることができます。

それは倫理学の中で、です。

倫理学とは

思想をもつ私たち人間という世界の中を
どう生きるかの方法、と言えるかもしれません。

人間が、生き物が、環境が
どう生きていくのがいいのだろうか、生きやすいのだろうか、と

考えた中でのルールと言えるかもしれません。

例えば浮気をすれば倫理的ではないというのは正しいです。

しかし少し前まで、経済力のある男性がお妾さんを持つのは
日本でも当然のことでした。

人間がより生きやすいように、決めたルールの上で守るのが倫理です。

憲法改正がいつも賛否両論なのは
それを照らす「真の正しさ」というものが存在しないからですよね。

だから皆で擦り合わせて行くしかない。

それは悪いことという意味ではなく
人間が生きる上で必要なことです。


しかしその倫理を、これは哲学だと言ってしまうところに
怖さがあると思います。

哲学とは
真理の探究です。

著書のように、いじめられる子を助けるのが常に正しいのか?

倫理的には正しいのでしょう。

しかし著書では高校生の不良に殴られるといった設定。
現代であれば武器を持っている可能性もあり、死の可能性も否定できませんね。

私だったら学校や警察や、とにかく周りの大人に訴えることを
自分が殴られる勇気の替わりとして提案したいですが・・・。


大人も学ぶべき本だと紹介されていました。

駅で怖いおじさんにからまれた人を見かけたら、助けに出ていく「べき」?


他人の命を、自分の命を捨ててでも助けることが正しいのかどうかは
今でも誰にも決められない難しい問題です。


「どう生きるかを決めることができる」のだというのなら

見て見ぬふりをするのもまた
どう生きるかその人が決めた結論ですよね。

それを誰がどんな責任を負って否定できるというのでしょうか。


著書では「自分で考える」という重要性を説いているようでした。

この話の全てを自分で考えること、それ自体が哲学です。


しかし、「こう行動すべき」という視点でこの著書を見たときそれは
倫理学、もしくは啓蒙ということになります。


親が子供に読ませるべき本、のようにも紹介されていましたが
それにも違和感を覚えました。

その親は実際、そんな行動をしているのでしょうか?

職場でセクハラにあっている女性社員をかばったり?
電車では常にお年寄りに席を譲り?

自分は見て見ぬふりをしつつ
子どもには道徳を守れ、と押し付けるつもりなのでしょうか?

子どもは教育が全てです。

戦前の教育を子どもに施せば
従順な、「大人たちの決める正しいとされたルール」を守る
子どもができあがります。

日本は子どもをどこに向かわせたいんでしょうね・・・?


ということを深読みして
「自分で考える」ことが
大事なことだと思います。

テレビで見たことをそのまま鵜呑みにするのは「啓蒙」です。
自分でどう生きるかを決めていないことになります。


しかし

もうテレビ(テレビでなくても新聞でもネットでも本でもなんでも)の情報は
正しいとは言えないから知識は不要

とするのなら
それもまた「自分で考える」の放棄です。


自分で考えない大人が
どうして子どもに、自分で考えろ、と言えるのでしょうか。

著書の設定だと中学生。
子どもは思うより馬鹿じゃありません。

自分の親が自分で考えて話をしているのか
またそれを自分でも実行しているのか

そんなことくらいは見抜いています。


人間ができるのは、どう生きるか決めることではなく

どう生きるか考えること

なのではないでしょうか。


いかがでしたでしょうか。

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